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【皇室】貞明皇后の子供たち① 「昭和天皇の妹君」門跡の謎

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本日もお越しいただきありがとうございます。

大正天皇と貞明皇后との間には、公式には4人の皇子があったとされています。

1 裕仁親王(1901年4月29日生)

『日本の本当の黒幕』鬼塚英昭

P137~

私はここで、貞明皇后が生んだ(産んだとされる)4人の皇子のことについて書くことにする。

『木戸幸一日記』昭和11(1936年)6月29日、「10時半廣幡大夫来・島津の件につき相談す」

「月日不明」(昭和11年12月31日の日記の後ろ記載されている)、「島津治子聴取書」とある。

木戸幸一は、重要書題として後世に残すために特別に「月日不明」としたとみられる。

島津治子(本名・はる、1878~1970)は、島津久光n長男珍彦と、島津斉彬の四女典子の間に生まれる。

島津治子は18歳のとき島津長丸男爵(のち貴族議員)と結婚する。

大正13年(1923)2男4女の母としても家庭を守る。

昭和2(1927年)2月1日、夫長丸が急死し、依頼免官となる。

島津治子はこの後、角田つねちおう霊媒師の女性と出会い、新興宗教にのめりこんでいく。

「きよめの会」や「神政竜神会」などの新宗教に出会っている。

『木戸幸一日記』には島津治子の生地が多くみられる。ここでは全部省略する。

では「月日不詳」の「島津治子聴取書」のごく1部、もっとも重要であると判断したところをいかに記す。

 

㈠ 難波大助の死霊——許嫁の処女を奪う云々。

㈠ 秩父宮の生霊

㈠ 高松宮の生霊——宮様の御生母である大正天皇の女官の死霊。山内源作、小森雄介等よりきく云々。

㈠ 大正天皇の侍従の死霊——皇后のお相手——–八郎氏。関谷次官の談、九条家より質ねらるる云々。

㈠ 国体明微維神の道を立つるには、高松宮殿下を擁立しなければならぬ。

 

文中、「大正天皇の侍従の死霊——–皇后のお相手の八郎氏」とあるのは、西園寺八郎である。

貞明皇后が最初に与えられたのが西園寺八郎であること、すなわち、昭和天皇は大正天皇の子供ではなく、西園寺八郎の子供であることを、私は拙書『日本で一番醜い日』のなかで、約10頁にわたって詳述したのでここでは書かないことにする。

秩父宮の父親は東久邇宮稔彦王だと持っている。もし、彼が父親ならば15歳の時に、2つ年上の貞明皇后と交わったことになる。可能性は十分だろう。

転載以上

 

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2 秩父宮雍仁親王(1902年6月25日生)

鬼塚氏は、秩父宮さまの実父が東久邇宮だったのではないのかと、推測されています。

日本の本当の黒幕 鬼塚英昭

P138

東久邇宮はパリで愛人との生活に耽溺していた。明治天皇の第9皇女聡子内親王を捨てたままだった。その彼は、たびたびの帰国命令を拒み続けていた。

結局、大正天皇の崩御と大葬を契機に、ロンドンに留学中だった秩父宮がパリに乗り込んで直談判し、ようやく帰国する。

私はこの秩父宮の行動に、父親への愛情を見る。

転載以上

 

 

3 高松宮宣仁親王(1905年1月3日生)

有栖川宮と高松宮

有栖川宮家は断絶するのですが、

・有栖川宮の祭祀および財産は、大正天皇の特旨によって第三皇子の光宮宣仁親王により引き継がれ、宣仁親王には有栖川宮の旧称である「高松宮」の宮号が与えられた。

・第二皇子の光宮宣仁親王は20歳になったとき、秩父宮家を創立。しかし、第三皇子の光宮宣仁親王が高松宮を創設したのは、3つ年上の兄の宮家創立より9年前の1913年(大正2年)のことである。

・宣仁親王が旧有栖川宮家の祭祀を継承するため、最後の有栖川宮威仁親王の薨去直後に宮家を創設したことによる。

 

㈠ 高松宮の生霊——宮様の御生母である大正天皇の女官の死霊

 

鬼塚史観によると、高松宮=光宮宣仁親王は、有栖川宮家から養子、もらい子だったとされてますね。

貞明の実子ではなく、父は有栖川宮、母は女官、だったということでしょうか。

 

4 三笠宮崇仁親王(1915年12月2日生)

なんども上げさせていただきますが、、三笠宮の実父は有栖川家の人でないのかと思います。ここまで似ているのは、相当近い血族だったとおもいます。

有栖川宮系のかたが「種馬」になったのか、あるいは、高松宮のように養子として迎らえたのかはわかりませんが、、、、。

左:有栖川宮   右:三笠宮

 

左:三笠宮崇仁親王の次男、右:有栖川宮威仁

 

左:三笠宮崇仁親王の三男の長女。 右:有栖川宮威仁

 

5 流産

貞明皇后は、秩父宮を出産したあと、流産してますね。

そして貞明皇后は堕胎もしていた可能性もあるようです。

 

6 堕胎した子供

『昭和天皇の妹君・謎に包まれた悲劇の皇女』河原敏明

三笠宮の誕生に携わった相磯造侍医(産婦人科)は、ことのほか皇后(大正)の信認が厚く、大正末期には宮中顧問官に任ぜられた。

相磯けさはその親類の未亡人で、私は5年前(昭和53年)にあっている。警戒の様子で、そんな”事実”は聞いたことがない、と否定していた。

だがしばらく話しているうちに情が移って、なにか土産を持たせなければ悪いような気になったのであろうか。

「貞明さまは、中絶なさったことがあるようですよ」

といって私の眼を見張らせた。

「私も寝耳に水だったんですが」

親しくしていた某元侍従(華族)の未亡人が、夫を偲んでフト触れた秘話で、

「あなた、ほんとうに知らなかったの?その処置をしたのが相磯侍医だったそうよ」

と打ち明けたそうだ。

皇室の墓所、小石川の豊島岡墓所には、貞明皇后の流産した御子の土饅頭が現存する。それを指すのか知れない、とも思った。

転載以上

 

仮に貞明皇后が、堕胎したいのが真実だとして、堕胎するには理由がありそうです。

大正天皇の御病状が深くなっていた時期、あるいは未亡人になった後、でしょうか。

 

7 三笠宮の双子の妹? 山本静山尼

皇室ジャーナリストの河原敏明氏が、もう一人、皇女がいたのではないのか、三笠宮は双子の妹がいたのでは、と取材し本を書かれました。

ざっくり皇女ではないのかとされる門跡に関する内容をまとめると、、

・三笠宮は双生児だった。妹を糸子さんという。

・双子は畜生腹とよばれ厭う風潮も一部にあった。皇后はウルトラ迷信深い人だったので、皇女のほうを養子に出すことにした。

・三笠宮の双子の妹である糸子は生後すぐに京都の山本子爵家に入籍させ、京都郊外の佐賀村の今井家に里子として出された。

・5歳半のとき、京都の上京区の尼門跡寺院である大聖寺に1か月間滞在後、大正10(1921)年6月1日、奈良県下の尼門跡寺である円照寺に入る。

・昭和14(1939)年8月1日、第10世門跡に就任した

・平成7=1995年4月12日死去。

 

ガチガチの階級社会であった戦前、まだ子供であった糸子さんが、華族様より上席にすわっていて、びっくりたまげたという証言もあり、宮家か皇族筋のお血筋ではないかと思わせるところもあります。

さらには、世間から注目され困り果てた門跡が「入江さん(侍従長)になっていったらいいのか、、」と困惑していたりして、宮中とのつながりの深さがうかがえるエピソードなどをみても、あるいは本当かも、とおもわせるところがありました。

が、肝心の双子といわれている三笠宮には似てないですね。でも高松宮に似ていると思います。

もちろん、男女の双子の場合、顔がまったく似てないことがあります。管理人の同級生もそうでしたけど。

 

こちらは、お若い時の門跡だとおもいますが、お写真ではなく肖像画じゃないでしょうか。

 

晩年のお写真ですね。

 

高松宮の頬のでかたが似ているなあ、と。この両人なら兄妹で通じるかもしれません。

一瞬、門跡は、有栖川宮家からの養子・貰い子とされる高松宮の双子だったのか、あるいは、門跡ご自身が有栖川宮系のかただったのかな、、とふと思いましたが、仮に、三笠宮崇仁・糸子の兄弟が、高松宮と実父が同じであるなら、似ててもおかしくはないのかもしれません。

 

双子と貞明皇后

仮に河原氏のレポートが真実だったとして、なぜ、貞明は、三笠宮の妹である皇女を公認せずに養子に出したか、ですが、

・河原氏の推測通り、ウルトラ迷信深かったから

・実子ではなかったため、皇位継承に役に立たない皇女はいらないとみなした

いろいろ推測が広がります。

 

双子に関しては、貞明皇后が、震災の慰問にでかけたときの双子にちなんだエピソードがあります。これが事実なら門跡は、実子なのかもしれません。

・慰問先で分娩されたばかりの女子の双子の赤ちゃんをみた貞明皇后は、ながく双子に時間を取り、出産した母親に「丈夫にそだてよ」とお言葉を賜った。

・後日、ふと、「あの時の双子はどうしているか」気になった貞明皇后は、職員に命じて双子のその後を調べさせた。

・職員は双子の身元を確認し、下賜する菓子をもち双子の家に出むいた。双子の女子は交代でクラスの役をやるほど、よくできた子供になっていた。

・双子もその家族も、貞明皇后がここまでお気持ちをかけてくださったことがあり難く、家族でむせび泣いたという。

ちなみに、双子がらみのエピソードの貞明皇后は、時期的に見て、この人の可能性が高そうですね。背の低い面長の節子さんです。

右のクエーカー教徒の人ではなさそうです。この2人は身長も顔も違うように見えます。履物の踵の高さはうかがえませんが、それでも、少なくとも10センチは身長がちがうのではないでしょうか。

肩幅も違いそうです。左が加齢して右になるでしょうか。

27歳の時の「撮影」された貞明皇后ですが、美化して絵画にして写真に収めたものだと思います。

2人いたのかな、、と思うんですが、、。

『日本の本当の黒幕』 鬼塚英昭

P119

「皇太后になってからは、ご日常のは黒であった。お祭り関係は白、そのほかの廉ある場合は古代紫というか、落ち着いた縮緬か黒の御洋服であったように思う。

大宮様の和服を召したお姿は拝見したことがない」

転載以上

 

九条節子が2人いたにせよ、実母といわれる女性、野間幾子とは一切会わなかったうえに、なくなったときも、反応が水のように冷淡であったとかで、低身長の人もクエーカー教徒の人も、九条家とは関係のない人なのかもしれません。

華族女学校の卒業者名簿に、九条節子の名前はないそうです。

 

6 皇太后の40歳のときの息子

そして、もう一人、「皇太后の子供」とされる息子もいたようです。

『日本の本当の黒幕』鬼塚英昭

P134~

『寺崎英成日記』(昭和天皇独自録 所収。1991年初版版。後の文庫版とは内容が異なる)の「昭和21年5月27日」に、「皇太后ノ子供、就職、太郎兄照会」とある。

寺内御用掛の日記に、62歳になる皇太后の子供の就職を、外務次官をしていた実兄の寺崎太郎が紹介していると記載されている。

この子供に関する他の情報は全くない。また、この記述がみられるからか、私以外の者はこの本を全く無視している。

就職する年齢の子供は、大学を卒業して22歳になるとみなすと、貞明皇后は大正13年(1924)年頃に産んだことになる。この頃は大正天皇の病状が悪化している時期である。では相手の男はだれなのか、となる。

転載以上

 

貞明皇后は、1884年生まれとされていますが、仮にこの1884年生まれという情報が正しいとして、出産が40歳ということになりますね。

堕胎せずに生んだ子供の父親は謎とされていますが、この父親は、貞明皇后が「異常なまでに信頼していた」牧野伯爵ではないかな、、と管理人は思うんですけどね。

貞明皇后の実子は、

裕仁天皇、秩父宮、流産した子、

可能性があるのが、

堕胎した子、皇太后の子とされる40歳で出産した子、

高松宮は養子であったとして、三笠宮は、そして門跡は、、、どうでしょうね。実子だったんでしょうか。

 

続きます。

 

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2 件のコメント

  • 高松宮宣仁親王殿下の妃、喜久子妃殿下の御母堂さまは
    有栖川宮家からいらしています。
    もし、高松宮宣仁親王が有栖川宮家からの養子だとすると
    かなり血の濃いご関係になりますから、
    あってはならぬご婚姻だと思います。

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