鬼塚史観と皇室問題|托卵と貰い子でつなぐ近代皇統(2)

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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本日もお越しいただきありがとうございます。

※(1)からの続きです。

結論を述べると、明治以降の皇統は無理をしてつないでも、お血筋が3代続かないんですね。

「お血筋を残さない」という運命の大いなる意志と、それに抵抗して抗う偽皇統の葛藤と抵抗の歴史が、つまるところ、明治以降の皇統譜なのだとおもいます。

【鬼塚史観】托卵と貰い子でつなぐ明治皇統

①大和民族「天皇家」から朝鮮部落民系「明治大室王朝」へ

初代:明治大室天皇

 

「天皇様をおつくり申したのはわれわれ」鬼塚英明著『日本で一番醜い日』

天皇様を作り申したのはわれわえだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされたことだったが、近代天皇制事前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊王はが考えていた天皇の国歌の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせてつくられたものではなかった。かれらが求めている天皇と現実の天王と、いくらか融和できるうちはよいとして、その矛盾が激化すると、、、、、、激化すると天王をとりかえてしまうほかなくなる。

我が家に空襲dえやけるまだった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、密月時代いもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は毒殺されてしまった。もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が討幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことは公然の秘密となっている。

転載以上

鬼塚史観によると、幕末、孝明天皇と睦仁親王が暗殺され、山口県の朝鮮部落出身の奇兵隊・力士対に所属していた大室なる人物が睦仁親王とすり替わり、明治天皇になった、とあります。数々の噂や伝承と資料をつなぐと、信憑性が出てきます。

①睦仁親王

6歳:女官に抱かれて参内しなければならないほど、歩行困難だった。

12歳:大砲の音を聞いて気絶した。すぐに泣きじゃくる気弱な御方だった。

②睦仁親王

16歳:5尺6寸、180センチを超える長身で肥満していた。

酒色に淫しやすい性格で馬術を好んだ。

自ら相撲を取った。

①が4年後に②の人物になるというのは難しいと思いますね。さらに、マナーも変です。

 

ミットフォード『英国外交官のみた幕末維新』(1998年)

「我々が部屋に入ると、天子は立ち上がって、われわれの敬礼にたいして礼を返された。彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者だった。」

「礼を返された」、、、これ、当時の本物の皇族、ましてや、天皇のすることではありませんね。最高位の帝ですよ。

 

『日本の本当の黒幕』鬼塚英明著より抜粋

「睦仁親王(京都明治天皇)は幼少のみぎり、裕福であったので種痘を受けた。ゆえに疱瘡(天然痘)にはかかわっておらず、顔面に「あばた」はなかった。(『明治天皇「大帝」伝説』岩井忠熊のなかの記述)」

「明治天皇(大室虎之佑)は、家が貧しく野生児だったので、二歳の時、疱瘡にかかった。曽於結果、口の周りに「あばた」が残った。そのため、明治天皇は地震の写真を撮られることを好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真にとらせて「御真影」とした。また、「あばた」を隠すために、髭を生やされた。」

資料や伝承も二重になっています。

 

西郷と明治大室天皇

『日本の本当の黒幕(上)』鬼塚英明著より

公卿の三条実美と土方久元(土佐脱藩者)が計画し、中岡慎太郎と坂本龍馬が長州の輝度行員と薩州の西郷隆盛を動かした薩長連合は、大室寅之佑なる者を天皇として新政府を樹立するという密約でもあった。彼らは武士というよりも下層階級、郷士格であって、武家社会で大手を振っていきていける身分ではなかった。「西郷南洲」という芸名は、南朝の菊池氏からきているという。しかし、西郷、大久保利通、樺山資紀、大山巌たちは、鹿児島の加治屋町(現在は鹿児島市加治屋町)という部落で、汚物の処理や清掃、葬式を生業としていた。武士とは名ばかりの、最下層にいる人々であった。

薩長連合は、そうした彼らが長州、薩摩、土佐の大名とは別行動をとったクーデター計画であった。

島津久光は西郷と大久保利通が大室寅之佑を連れてきて、「この男が天皇になります」と告げられた時とき、刀で斬りかかりそうになった。しかし、西郷が「すでに睦仁は死んでおります」と告げたので刀を降ろした。

この逸話は、鹿児島の郷土史家から直接私が聞いた話である。真実だろうと思う。この薩長、そして薩土の秘密連合がクーデターを起こして明治政府が出来上がるのである。大室寅之佑は藩主毛利忠親の知らない間に天皇になっている。いわりゅる事後承諾というやつである

(略)

明治の新政府ができてまもなく、十六歳の少年天皇が、我儘をして”元勲”たちのいうことをきかないと、西郷隆盛は「そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ」といってしかりつけた。すると天皇はたちまちおとなしくなったという話が伝えられている

転載以上

今日の皇族たちが複数のチームで運営されており屋号化していますが、

※美智子様の影武者

※皇太子の影武者

※愛子様の影武者

明治天皇の場合は、幕末のある時期を境に、①天皇家の睦仁親王と、②大室、とがすり替わったようです。

それが真実なら、明治以降の皇統は、皇統簒奪による大罪を犯した偽りの王朝ですが、不思議に3代続かないんですね。運命の力に感心します。

明治大室天皇は、宮中は公卿の娘で構成される女官がおり側室は28人、さらに、没落した旗本の娘たちによって構成されていた「千代田遊郭」と称される北朝鮮の喜び組を彷彿させる施設をもっていました。明治大室天皇は、毎日のように飲酒し、毎晩いずれかの女性と寝ていましたが、生まれてくるの子供のおおくは2歳までに亡くなり、成人したのは虚弱な大正天皇と皇女4人だけでした。

明治天皇の皇子女(wikiより)

皇子女
皇后との間に子女なし。5人の側室(典侍・権典侍)との間に5男10女を儲けるが成人した男子は大正天皇だけである。
皇后:一条美子(昭憲皇太后)- 左大臣一条忠香三女

生母:権典侍:葉室光子(緋桃権典侍)- 権大納言葉室長順次女
死産:第一皇子:稚瑞照彦尊

生母:権典侍:橋本夏子(小桜権典侍)- 大納言橋本実麗末女、実は外孫、実父は少納言東坊城夏長
死産:第一皇女:稚高依姫尊(1873)

生母:典侍:柳原愛子(早蕨典侍)- 権中納言柳原光愛次女、はじめ権典侍
享年1歳:第二皇女:梅宮薫子内親王(1875-1876)
享年1歳:第二皇子:建宮敬仁親王(1877-1878)
享年47歳:第三皇子:明宮嘉仁親王(1879-1926)- 大正天皇

生母:権典侍:千種任子(花松権典侍)- 右近衛権少将千種有任長女
享年2歳:第三皇女:滋宮韶子内親王(しげのみや あきこ、1881-1883)
死産:第四皇女:増宮章子内親王(ますのみや ふみこ、1883)

生母:権典侍:園祥子(小菊権典侍)- 右近衛権中将園基祥次女
享年1歳:第五皇女:久宮静子内親王(1886-1887)
死産:第四皇子:昭宮猷仁親王(1887-1888)
享年52歳:第六皇女:常宮昌子内親王(1888-1940)- 竹田宮恒久王妃
享年84歳:第七皇女:周宮房子内親王(1890-1974)- 北白川宮成久王妃
享年42歳:第八皇女:富美宮允子内親王(1891-1933)- 朝香宮鳩彦王妃
死産:第五皇子:満宮輝仁親王(1893-1894)
享年82歳:第九皇女:泰宮聡子内親王(1896-1978)- 東久邇宮稔彦王妃
享年2歳:第十皇女:貞宮多喜子内親王(さだのみや たきこ、1897-1899)

成人したのは、権典侍の園祥子が生んだ4人の皇女と、柳原愛子の生んだ大正天皇だけが成人したことになります。

そのただ一人の親王、大正天皇も幼少時に熱病を患い子種がなくなり子孫を残すことがかなわなくなりました。

この大正天皇となる親王が、明治・大室天皇の実子だったかは不明ですが、仮に大正天皇が実子であっても、大正天皇には子種がなかったので、明治・大室王朝は3代続かないで絶えてしまいます。

幼少時より、大正天皇が虚弱で天皇の責務にたえることができないなら、それを公表して北朝宮家に移譲するべきでした。

しかし、それをしなかったんですね。

鬼塚史観が正しいのなら、同意の元、皇后に男性をあてがい、別の男の種で皇位継承者を作ったことになります。相当な無理をして、無理やり皇統をつなごうとしたようです。

長いので別けます。

昔つくったコラ

 

ニセモノが天皇に即位?