秩父宮雍仁親王⑨(前)東久邇宮稔彦王、コメント欄より

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


※影武者制度、タブーなど、皇室記事一覧

※最近の皇室記事一覧

こちらからの続きです。

秀逸なコメントを戴いてます。転載させていただきます。ありがとうございます。

 

コメント欄より

馬車でもなくオープンカーでもない車でパレード、、、。

バーチャルになるんでしょうね。

ツッコミどころ満載の即位式になりそうです。ある意味楽しみでもあります。

といっても、ナルは、即位はできないと思ってますが。

東久邇さん、64歳の時の子となると、ちょっと違和感がありますね。

桜井さんと、中村梅之助さん、確かに似てますね。

偶然かなあ、、、、、??

 

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鬼塚史観では、昭和天皇の次弟で大正天皇の次男の秩父宮の実父は、大正天皇ではなく、東久邇宮だったとされています。

『日本の一番醜い日』鬼塚英昭 P375 ~

「東久邇宮」の画像検索結果

高松宮と三笠宮の父親は誰であるのか、私は今のところ確信がもっていえない。しかし秩父宮の父親については間違いなく東久邇宮である、と思っている。

その証拠の一つは『西園寺公と政局』の中に発見できる。秩父宮と東久邇宮が、いつも行動を共にしている様子が克明にかかれているからである。秩父宮が過激な連中と交わると西園寺公望が東久邇宮に注意せよ、と説得する。この逆の場面も書かれている。秩父宮は昭和天皇と会う場面が非常に少ない。

兄弟としての親しみを見せつけられる場面を探しても困難である。彼らが父親がちがうのはこの面から見て取れる。

 

日本の本当の黒幕 鬼塚英昭

P138

東久邇宮はパリで愛人との生活に耽溺していた。明治天皇の第9皇女聡子内親王を捨てたままだった。その彼は、たびたびの帰国命令を拒み続けていた。

結局、大正天皇の崩御と大葬を契機に、ロンドンに留学中だった秩父宮がパリに乗り込んで直談判し、ようやく帰国する。

私はこの秩父宮の行動に、父親への愛情を見る。

転載以上

 

コメント欄より

何度もすみません。戯れ言と思われて下さい。

総理大臣時の東久邇宮稔彦さんのお写真です。

若い頃はそれなりだったのに、年齢重ねて、何か貧相になられたなぁ‥‥と

 

※(管理人)麻生太郎、小泉純一郎、小和田雅子、小和田家の人びと、辻元清美、蓮舫(韓国籍も持っている可能性あり)、美人チーム・ミッチー3号、久子妃、など、中国系・北朝鮮系ではないかと思われる方々は、若いころは、すらりとした美男美女系でも、ある年齢になると、一気に、干からびるような老け方をしますね。

しげしげと眺めていると、ある方に似ているのに気付きました。

フラッシュらしきモノをたかれているからかも、、とは思いますが、

麻生太郎氏と似てませんか?

※(管理人)あくまで印象ですが、素材は同じでデザインが違うという感じに見えます。あくまで印象です。

 

明治天皇の隠し子騒動(3人)、いずれも偽物ですが、

そのうちの一人、橘天敬(たちばなてんけい・画家)は、東久邇稔彦さんと親しく、準皇族扱いしろと、勝手に宮名を名乗り、僭称してました。

この方、麻生太郎氏の父親、麻生太賀吉氏の従姉妹と昭和13年に結婚されてます。

麻生太郎氏は昭和15年生まれです。

 

疑問1

東久邇宮稔彦殿下のお若い頃のお顔立ちが、あの総理大臣時のへの字口のお顔立ちになるのかな?

 

疑問2

東久邇宮家、家族集合写真を見ると、稔彦殿下は、

あまり背がお高くないような。て言うか、小さくない?

それとも奥様がお背が高かったのかな?

 

疑問3

麻生太吉(祖父)・麻生太賀吉ともに議員をしていて、閨閥作りに余念がない感じなのに、閨閥を作る手駒の一族の女子を、画家に嫁がせるかしら。

 

疑問4

橘天敬、日本画家。正直存じ上げませんでした。

でも、作品は世界各地に、個展も世界各地であったらしい。

Wikipediaであがっている国は(個展又は作品を納めた国)、タイ、イタリア、英国、メキシコ、もちろん日本も。

英国では屏風絵が大英博物館に納められているそうです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%A4%A9%E6%95%AC

タイ・イタリア・英国‥‥‥。

(一応、アメリカにも。。ケネディ元大統領に寄贈されたそうです。)

本当に人気があったのか、押し掛け個展・納品だったのかは、存じ上げません。

 

※wiki橘天敬とは

明治39年(1906年)、明治天皇と実際に存在しない女官結城千代美の子として京都で生まれたとされている。

結城千代美は出産後、池田侯爵家に嫁いだ設定だが、現実の池田侯爵家には華族皇族の女性が嫁いでおり、女官が嫁いだ形跡はない。

実際は炭鉱社勤めの園部儀助の次男である。生後間もなく直心影流薙刀術宗家である園部正利夫婦を通じ、福岡県嘉穂郡大谷村の園部稲吉夫婦に預けられ、園部義文として育つ。

 

疑問5

麻生太郎氏、三笠宮信子妃殿下、はご兄妹として似ているのですが、弟2人とはちょっと違う感じです。

麻生太吉・麻生太賀吉・母 和子、牧野雪子・吉田茂、

男性方は皆太鼓腹系、お顔も造りが大きいので似てないですね。

大久保利通のゴリラーマンな顔とも違う。

 

疑問6

東久邇宮稔彦殿下、長期フランス留学時に入れ替わった?とか言うのは簡単ですが、

そのほかの写真では、気品ある感じで、若い頃の面影を残しているのに、何故、内閣集合写真や総理大臣時の写真があんなに貧相なのか。

1枚の写真からの連想なので、、。

戯れ言と書いているのに妄想とまらず、長文、失礼致しました。

以上

 

コメント欄より

東久邇宮稔彦王は何故か九州人脈とお親しい。

緒方竹虎も、頭山満、橘天敬‥‥。

フランス留学で、お上品な自由主義におなりになられたのに。

さて、お若い時の東久邇宮稔彦王と、内閣総理大臣就任時及び内閣集合写真時の東久邇宮稔彦王は同じ方かと思うほど貧相に感じる、、と先にコメントさせていただきましたが、

見れば見るほど、三笠宮寛仁殿下とご成婚時の信子妃殿下とお顔がそっくりに感じるのです。

どうしましょう💦

マジに偽物による、終戦直後に麻生家(かも?)

によるクーデター危機か?と妄想してしまいます。

ですが、肖像画を写真に撮っての御真影を考えると、内閣総理大臣時の、東久邇宮稔彦さん左右の眼の印象が違いすぎるので(大きさも違いますよね。)、実際のお写真ではないのかもしれません。

 

※こちらは、先日完成したと発表された明仁さん夫妻の肖像画のように、リアルな肖像画かもしれませんね、しかし、麻生家との相似は偶然でしょうかね。

 

戯れ言ついでに。。

朝鮮王族のお一人、李鍵殿下。

この方の奥様は松平誠子(まつだいら・よしこ)様、梨本宮伊都子様の妹さんのお子様。

伊都子様にとっては姪、李王家に嫁いだ方子様にとっては従姉妹になります。

朝鮮王族に鍋島藩の血筋の娘が2人ってのも結構気になる事ではありますが、

この誠子(よしこ)さん、戦後降下後は佳子(よしこ)と改名されてます。

ご主人は、日本で育った為朝鮮語が話せず、半島には帰らず日本人として帰化、桃山姓に変えて日本でお亡くなりになりました。

で、この松平誠子さん、秋篠宮眞子様によく似てるのです。

https://xmugix.exblog.jp/18192941/

 

仮に、宮家内が、現在エア家族であるかも‥‥として、代役用意筋は国内にあるのかも、、と思いました。

お顔が似ている松平誠子さん、熟年離婚されてますが、李鍵殿下との間には3人のお子様があり、最初のお子様が血液型から、李鍵殿下のお子様ではない事がわかってます。

離婚後は、明治天皇の落胤を僭称する橘天敬とねんごろになられたそうです。

この週刊誌が喜びそうな感じ、何かディテールを似せる必要が??

眞子様の今後の展開がこれに似ない様にと、心配になります。

(と、勝手に思い込んでます。)

以上

 

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ありがとうございました。

松平誠子さん、ご成婚した川嶋キコさんにも、ちょっとにてますね。

しかしながら、秩父宮さまの実父といわれている東久邇宮さん。不思議だったんですね。

鬼塚英昭氏が、皇室の秘め事を解くキーになった島津未亡人がらみの霊言があります。

実際に霊能力があったかは問題ではなく、内容は「当時、最上流にいた人間が知っていること」が土台になっているものだったと思うんですね。再度転載させていただきますが、、

『日本の本当の黒幕』鬼塚英昭

P137~

私はここで、貞明皇后が生んだ(産んだとされる)4人の皇子のことについて書くことにする。

『木戸幸一日記』昭和11(1936年)6月29日、「10時半廣幡大夫来・島津の件につき相談す」

「月日不明」(昭和11年12月31日の日記の後ろ記載されている)、「島津治子聴取書」とある。木戸幸一は、重要書題として後世に残すために特別に「月日不明」としたとみられる。

 

島津治子(本名・はる、1878~1970)は、島津久光の長男珍彦と、島津斉彬の四女典子の間に生まれる。

島津治子は18歳のとき島津長丸男爵(のち貴族議員)と結婚する。

大正13年(1923)2男4女の母としても家庭を守る。

昭和2(1927年)2月1日、夫長丸が急死し、依頼免官となる。

島津治子はこの後、角田つねという霊媒師の女性と出会い、新興宗教にのめりこんでいく。

「きよめの会」や「神政竜神会」などの新宗教に出会っている。

『木戸幸一日記』には島津治子の生地が多くみられる。ここでは全部省略する。

では「月日不詳」の「島津治子聴取書」のごく1部、もっとも重要であると判断したところをいかに記す。

 

㈠ 難波大助の死霊——許嫁の処女を奪う云々。

㈠ 秩父宮の生霊

㈠ 高松宮の生霊——宮様の御生母である大正天皇の女官の死霊。山内源作、小森雄介等よりきく云々。

㈠ 大正天皇の侍従の死霊——皇后のお相手——–八郎氏。関谷次官の談、九条家より質ねらるる云々。

㈠ 国体明微維神の道を立つるには、高松宮殿下を擁立しなければならぬ。

 

文中、「大正天皇の侍従の死霊——–皇后のお相手の八郎氏」とあるのは、西園寺八郎である。

転載以上

 

裕仁さんはダメなので、高松宮でいかないとダメ、ということなんでしょうが、、、

何故、東久邇家の血を引くとされている秩父宮が無視されているのか、仮に秩父宮が大正天皇の実子だったとしても、やはり無視されています。

続きます。

 

ニセモノが天皇に即位?