鬼塚史観と皇室問題|托卵と貰い子でつなぐ近代皇統(3)

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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実父は西園寺八郎だったとされています。

西園寺八郎は大正天皇と同級生であり、昭和天皇の幼少のころから、東宮御用掛として傍に居続けました。

 

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『日本で一番醜い日』鬼塚英明著より

二月二十七日(ママ)

皇太子洋行の随員である西園寺元老養嗣子八郎が、襲撃された。

午後七時ごろ、東京市麻生区飯倉片町七番地の西園寺八郎邸に六人の「怪漢」が乱入し、電話線をひきちぎり、門の閂、棍棒をふるって各部屋を破壊してまわった。

寝間着姿で朝食中の西園寺八郎が飛び出し、日本刀をふるって応戦すると、六人は、皇太子の御渡欧を延期させよ、と叫んで、閂でなぐりつけ、顔面および右肩に「全治一週間乃至十日間」の傷を負わせた。

「仮令殺されても延期は願はれない」

西園寺八郎は顔面をおおう鼻血にむせびながら叫び、隣家の子爵邸へ逃げ込んだ。

六人は、警官がかけつけると、おとなしく「兇器」をすてて逮捕され、政治結社「抹殺社」同人だと名のった。

 

私が長々と東宮御渡欧について書いてきた理由を書かねばならない。(略)この記事のなかにでてくる談話を児島が大げさに書いているほどの事件ではなかったのである。(略)私は次の談話を呼んだ時に「ハッ」としたのである。それは、時の首相犬養毅の一言だった。

これは親父と息子と方角をたがえたのかな、フウム。

息子のところへ行くところを、間違えて親父のところへ行ったとは、の意味に撮れる。

息子は東宮だろう。東宮のところへ行かず、親父の西園寺八郎へ行ったとは、、、、、フム、の意だろう。

政治のトップクラスは、西園寺八郎が東宮の実の親であることを百も承知していたのではなかったのか。

(転載以上)

 

※犬養氏は部落の出身といわれています。犬養家も、本来なら犬飼だったのですが、偉くなったので、出身地とあわせれば一目で出自がわかる苗字を嫌い、漢字だけですが苗字を変えたらしいですね。部落のネットワークは濃いらしいので独特の情報を共有していたのかもしれません。

 

『日本で一番醜い日』鬼塚英明著より

『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』から引用する。

柔道も同じだった。それまで皇太子を投げ飛ばすものなどいなかった。相手をすることになった西園寺は遠慮なくドシン、ドシンと投げた。さすがに皇太子は「もう西園寺御免だよ!」と悲鳴をあげたらしい(略)それは宮中生活から見れば、信じがたいような艦内御学問所教育だった。

私は、東宮の「西園寺御免だよ!」の言葉に、「とうちゃん、かんべんしてよ!」の言葉を連想するのである。では、父親とされている大正天皇との関係はどうだったのかを見ることにする。

(転載以上)

 

『日本で一番醜い日』鬼塚英明著より

侍従武官奈良武次は、死の直前の大正天皇い幾度も(毎日のように)会っている。彼の日記を再びみることにする。

大正一四年(1925年)6月4日

午後十時二十分 聖上(大正天皇)出御、拝謁、お変わりなくお元気なき様拝す。

ーーー西園寺(八郎、式部次長、東宮職御用掛)、阪口(鎮雄、皇宮警視、東宮職御用掛)と抗議し午后五時半に到る。

西園寺八郎は式部次長となり、東宮御用掛となっている。十一月に入ると大正天皇は歯痛を訴え続けている。頭痛ではない。脳はやられていないのである。

(略)

しかし、重病になっても、皇太子も高松宮も三笠宮も、大正天皇を見舞っていないのである(秩父宮は留学中)。

皇太子は葉山に行く前の天皇に会っている。それも一時間ほどだ。奈良武次はその時間も克明に記している。葉山へ車で宮城をでるときもこの三人の皇太子は見送りもしない。葉山には2回ほど東宮が訪れる。このときも一時間ほどしか大正天皇に会っていない。

私は彼の日記をよみつつ思った。この四人の子供は大正天皇と全く関係がないと。そして思った。たとえ血がつながっていなくても父子の情がすこしくらいあってもいいのではないかと。

また、こうも思った。大正天皇は、脳病で死んだのではなく、なにか妙な薬を飲まされ続けて、しゃべれなくなったからではないのか、と。死ぬまで脳は冴えていたと思っている。奈良武治の『日記』がその証となろう。

(転載以上)

 

巷に流布されている関係とはかけ離れていますね。

・病弱な大正天皇をささえる気丈な皇后

・仲の良い親王兄弟。

昭和天皇の第一皇女が36歳で亡くなられたとき、軽井沢で悲しみにくれていた昭和天皇と良子皇后のもとへ、美智子と美智子に引きずられるようにしてやってきた明仁皇太子が、「実に詰まらないことで」ガミガミと文句をいったことが、入江の日記に記されています。

※姉の49日も絶たないうちに軽井沢へバカンスにゆく皇太子一家。

良子皇后は沈黙したまま、昭和天皇は「わかった」とだけ仰せになったとか。

また、昭和天皇のご危篤時、国中が音曲を控えていたころ、テニスを楽しんでいたのが今の天皇、美智子、徳仁さん。そして、軽井沢で左翼友達のピアノに合わせて「きゃはは」とたのしげに笑いながら踊っていた美智子。

今の皇室と変わらないようなきがします。

誤魔化しきれなくなっただけのことかもしれません。

 

【鬼塚史観】次男:秩父宮の実父は東久邇宮 稔彦

実子は産まれず絶家。

皇太后が一番寵愛していた御子さんだったそうです。

詳細は後日まとめますが、2・26事件というのは、皇統を、大名の毛利家の血筋の昭和天皇から、宮家の血筋の秩父宮へ移譲させるための「壬申の乱」だったとの説があります。そういうフィルターを通してみると納得のいくところがあります。

 

『日本の一番醜い日』鬼塚英明著より

映画『日本暗殺秘録』が一九六九年に東映で製作された。監督は中島貞夫、脚本は笠原和夫。

笠原和夫は「日本暗殺秘録」が一九六九年のシナリオを書くにあたり、いろんな人物に会い、それから物語を構成する。二・二六事件の関係者に会う。笠原の”弁”に耳を傾けられよ。世にも恐ろしき真実が語られる。

笠原

『日本暗殺秘録』は昭和四四年でしょ。その五年後の昭和四九年の一二月に、路頭でばったりと河野司さんに会って、「実はちょっと話したいことがある」といわれてバーに連れていかれたんですよ。「潜水艦」という軍関係のバーなんですけどね、このバーなら大丈夫だと河野さんが話し出したんですけど「実は今、東久邇さんと会ってきたんだ」と。東久迩宮さんは戦後最初の首相だった人ですけど、その人に聞いてやっと事件の真相がわかったと、つまり河野さんとしては、なぜ、弟たちがああいう事件をおこしたのかということをずっと調べてたわけですよね。

で、それは何だったかというと、結局、二・二六事件というのは壬申の乱だったんだと。つまり大正帝に子供が出来なくて、貞明皇后に何人か男をあてて、それで子供を産ませていったというんだね。「だから、ずいぶん、あの兄弟は顔が違いますよ」と。

裕仁さんにしても、秩父宮、高松宮、三笠宮と、全部顔が違うと。それで貞明皇后なんだけど、女というのは最初に押し付けられた男というのを嫌がりますわな。それで、ものすごく長男ー裕仁さんに拒否反応を持ったらしいんですよ。で、誰かだかは解りませんが秩父宮のお父さんが貞明皇后のハートを射止めていて、それで秩父宮さんを溺愛したらしいんです。だから貞明皇后としてはなんとしても裕仁さんをハズして、第二子の秩父宮を天皇の座に送りたいというのがあったんですね。それを、画策したのが山県有朋でね。だから、昭和天皇の妃を決定すると際、色盲問題があったでしょ。

桂 

宮中某大事件ですね。

笠原 

そう。それで結局、山県は宮中クーデターに失敗したわけですよ。それで責任をとって辞めた後、すぐにストレスで死んじゃうんですよね。

桂 

宮中某重大事件って、活字でしか知りませんでしたけど、なんであんなに重大なのかわからなくて(笑)

笠原

それで、秩父宮さんもそういう自負をもっていたわけですね。若いころから、兄貴よりも自分が皇位を継ぐべきなんだと。それで自分に協賛してくれる人が欲しいからということで陸軍の中に入っていくわけですよ。彼は陸軍の将校でしたけれど、例えば安藤輝三大尉は非常に秩父宮に恩顧をうけたりしてね。

 

ここに重大な宮中の”ひめごと”が書かれている。語った人は元皇族である。この東久邇宮の語る真実を私たちは多く受け止めなければならない。明治維新において、大室王朝(決して南朝王朝ではない)が生まれ、昭和に入って昭和天皇王朝が生まれたのである。万世一系の天皇神話はかくも脆いものであった。

(転載以上)

 

以前、伏見氏のブログへのダヤンさんの寄稿の中に、アメリカに暗殺された人物として、秩父宮をあげていましたね。昭和天皇の同意のもとだったのか、それが知りたいですね。

 

【鬼塚史観】三男:高松宮は有栖川宮威仁親王と女官の夫婦の間に生まれた子を養子にした

有栖川の宮は高松宮を発祥としている。実子はうまれず絶家。

 

【鬼塚史観】四男:三笠宮の実父は牧野伯爵

3人の親王がうまれるも、三笠宮家、高円宮家、桂宮家、いずれも親王を残さず絶家が決定。

※似てないんですよね(笑)

管理人は、実父が大正天皇でない場合、ツグコちゃんや桂の宮様が、有栖川宮家のかたににているので、有栖川宮家のだれかかなとおもうのですが、、、。

三笠宮系には、女王が4人のこっていますが、眞子様のご婚約をもって女性宮家の卦は潰れました。4人の女王さんたちは、降嫁されるいがいに道はなくなりました。三笠宮家も高円宮家も、未亡人が薨去したら絶家することになります。

ほかに、「皇太后(貞明)の息子」とされる人物の就職をたのまれた、という文書ものこっており、大正天皇が病床にふしているときに妊娠出産したことがあるらしいですね。

堕胎したことが1度あり、陵にある流産とされて祀られている土饅頭がそれらしいです。

③【鬼塚史観】「明治・大室王朝」から「昭和・西園寺王朝へ」

【鬼塚史観】初代:昭和西園寺天皇

ほんとうに、昭和天皇の実父が西園寺八郎(旧姓毛利)だったとしたら、ここで明治・大室王朝が絶えます。そして西園寺王朝の始まりです。

西園寺八郎は、毛利家から養子に来た方なので、実質的には毛利王朝といえるかもしれません。

仮に、鬼塚史観が正しかったとして、ごまかしてつないだ皇統ですが、早くも存続の危機を迎えます。

裕仁親王は、宮家出身の良子女王を妃に迎えますが、親王がなかなか生まれませんでした。

4人皇女がつづき、やっとできたの親王が継宮明仁さんでした。というか、そういうことになっています。しかしこの方も、托卵ではないが、実子ではないという説もあります。

 

昭和西園寺王朝の嫡男・明仁親王

ご夫妻のウルトラCの解決策として、皇族の落胤(秩父宮が最下層の遊女に産ませた男子説が有力)をもらい子したという説がしつこくあります。

たしかに、明仁さん、まったくだれにも風貌が似てないんですね。

 

次男 正仁親王

正仁親王は実子っぽいのですが、大正天皇のように成人する前にご病気になられてお子様は望めない体質になられたそうです。それを覚悟で津軽家から華子様が「殿下は華子がお守りします」と、嫁がれました。華子様は、裕仁天皇と同じ(鬼塚史観がただしいのなら)、毛利家の血を引いるため昭和天皇とは縁戚になります。

嫡子・明仁さんが正田美智子と結婚したため、昭和天皇も毒殺?され、良子皇后は苛酷な晩年を過ごすことになります。

さらには、平成になってから、秋篠宮家と高円宮家に意味のない産児制限を敷いたため、皇統の危機を迎えました。

ブーメランだったのでしょうか。

やはり、良子皇后の第4子出産後、北朝への移譲の環境が整っていたことがわかります。しかし、無理をしてつなぐのです。

続きます。

昔作ったコラ

 

ニセモノが天皇に即位?