皇室|神威と神意①千家典子さんと黒田清子さまの場合

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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本日もお越しいただきありがとうございます。

昨年、眞子様騒動の檻にいただいたコメントです。

コメント欄より

でれでれさま 女性誌のスマホいじってるニセ写真ですが、この右隣が千家典子さんの披露宴でのドレス姿でした。

実際に見てあまりに違和感を感じたので覚えています!

典子さんは格式ある神社に嫁ぎ、そのころ眞子様は、みたいなタイトルで比較するような形で載っていました。

国民からほとんど知られていない典子さんを引き立てるため、わざわざイギリスまで行き、留学と無関係のどうでもいい場面を勝手に写す。 おまけに人生の一番きれいな場面と無防備なプライベートを比べるなんて、どこまで底意地悪いのかとムカムカしていました。 しかも顔が別人にしか見えなくてずっと不可解だったのですが、そういうことでしたか!

ニセ写真がいつ撮影ものか特定できませんが、披露宴は2014年10月です。

以上

ありがとうございました。

 

絢子さんの婚約と同時に、高円宮家側の「してやったり!!」「秋篠宮家ザマー」アピールの動画がアホほど上がって、うざいですね。

しかしながら、人智をつくしても、神智には及ばないわけで、姉の典子さんの結婚をふりかえってみると、ああいう家は「神の答え」が、露骨に出るなあ、と。

 

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千家典子Wiki より抜粋編集

1988年(昭和63年)

7月22日に高円宮憲仁親王と同妃久子の第2王女子(次女)として誕生。

名は憲仁親王が選び、お印は久子妃が選んだ。

2002年(平成14年)

※wikiにはなぜか、高円宮の薨去に関する記載がまるまる抜けています。親王は、その程度の存在だったのかも。

11月21日

父、高円宮憲仁親王が薨去。

カナダ大使館にてスカッシュの練習を行っていた最中に心室細動による心不全で倒れた。直ちに慶應義塾大学病院に搬送されるも、既に心肺停止の状態であり、蘇生措置がとられ一時は心拍が確認されるも、夜半になって容態が悪化。久子妃の同意を得て人工心肺装置を取り外したところ、生命反応がなく、薨去が確認された。47歳没。

11月29日

斂葬の儀(葬儀)が執り行われ、その後落合斎場で火葬され豊島岡墓地に埋葬された。

茶髪、白いソックス、で実父の葬儀に参加する高円宮姉妹。

 

2007年(平成19年)

3月に学習院女子高等科を卒業。同年4月に学習院大学文学部心理学科に入学。大学では臨床心理学等を学んだ。

 

2008年(平成20年)

7月22日で満20歳となり、宝冠牡丹章を受章した。その後、成年皇族として宮中祭祀や式典にも参列している。

 

2011年(平成23年)

3月20日に学習院大学文学部心理学科を卒業した。

 

2014年(平成26年)

5月27日午前

出雲大社禰宜(当時)の千家国麿との婚約が内定したと宮内庁の西ヶ廣渉宮務主管が記者会見で発表。

同日午後には、宮内庁第一会議室で典子女王及び千家の記者会見が開かれた。

 

同年7月4日

納采の儀が執り行われた。この久子が大耳か、小耳かはちょっとわかりにくいです。

 

9月29日

台風18号発生。千家氏が奉職した岩清水八幡の鳥居が倒れる。

 

ちなみにこちらは、長崎の原爆にもかかわらず残った鳥居。

画像はこちらから

上:長崎の原爆のあとのこった鳥居、下:東北大震災のあとのこった鳥居

台風ごときで、簡単に倒れるもんでしょうか。

 

10月2日午前

結婚を前に皇居の宮中三殿にて賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(かしこどころこうれいでんしんでんにえっするのぎ)が執り行われ、典子女王は小袿と袴におすべらかしの姿で皇室の先祖と神々に対し結婚と皇籍を離れる旨を報告した。

 

10月5日

午前7時半ごろ、

前日に出雲市に入った典子女王を、宿泊先へ千家国麿の叔父が使者として迎えに行く入第の儀(じゅだいのぎ)が行われた。

11:00ごろ

夫となる千家の所属する出雲大社にて結婚式が行われた。

出雲大社参道で、典子女王は黄色地に紅の向鸚鵡丸文と萌黄の植物文を散らした袿に紫色の袴、国麿は黒の衣冠を身に付け、そのあとに両者の親族である黒留袖の久子妃、振袖の承子女王、絢子女王に夫の千家国麿の両親らが続いて歩き拝殿へ向かった。

その後、典子女王が赤い小袿と紫色の長袴に着替え、国麿に続いて拝殿内に入った。

なお、この儀式にて着用された小袿は典子女王の祖母である崇仁親王妃百合子が貞明皇后から受け継いだもの、長袴は貞明皇后から受け継いだ生地で新たに作られたものと発表されている。儀式は同日正午までに終了した。

式後、婚姻届が代理人により出雲市役所大社支所に提出、受理され、皇族の身分を離れ、以後の名は千家典子となった。

続きます

 

ニセモノが天皇に即位?