信子妃・吉田茂・麻生家・白洲家の謎と疑惑の維新㉑白洲家の愉快ななかまたち
続きです。
⑤運営に際しては小泉信吉をはじめとする慶応義塾門下生が多く関わった。
小泉新吉wikiより
慶應義塾長。横浜正金銀行支配人。
紀伊国紀州藩士紀州徳川家の侍医で250石を食む小泉文庫の子として紀伊国名草郡宮村(現在の和歌山市)に生まれる。母は板谷氏。
小泉新吉の息子が小泉信三
小泉 信三 wikiより
1888年5月4日 – 1966年(昭和41年)5月11日)
日本の経済学者(経済学博士)。
東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(今上天皇)の教育の責任者となる。
1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾塾長(第7代)。父は第2代慶應義塾塾長(1887年(明治20年) – 1890年(明治23年))や、横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉(こいずみ・のぶきち)。
小泉信三。このひと、吉田茂とともに、美智子入内の実行犯です。明仁皇太子と正田美智子を軽井沢で引き合わせる役を担いましたね。もちろんお約束通り、キリスト教徒です。
そして、引き合わせた「正田美智子」は、正田夫妻の元で育っていた「顔のパーツが中央に寄り、ムラのある生え際、邪眼ヤンキー美智子」ではなく、
「富士額オカメ顔、猫背猪首のパンパン美智子」のほうだったと思われ。
聖心女子大がらみの写真があるところをみると、ヤンキー美智子とは同級生だった可能性があり、、、。
皇太子とペアを組む相手に、我自ら手を挙げて「私がやります」と手を挙げたという正田美智子。
ミッチーズ、美智子たちに共通するのは耳にはピアス。
この当時、耳に穴をあけているのは中国系か、あるいは、パンパンだったらしい。
パンパンだった女性の特徴のひとつが、異様なまでに張った肩パットだそうな。
明仁さんの汗をタオルで拭うなど、玄人じみた振る舞い。
ご成婚後も、記者にタバコの火をつけてあげたり、赤いネイルなど水商売の女性しかしないことばかりしていた美智子。
お妃候補になるまでは、進駐軍のパンパンか、アメリカ本国が用意した性接待用の妓生か、ハニトラ用の工作員だったと思われる節が多い。
吉田茂の言動からみて、「正田美智子を明仁皇太子の妻に」は、二人が軽井沢でで出会う7年前には、すでに決定してたみたいですね。もちろん、白洲もこの件には噛んでいたはず。
皇太子妃を正田美智子一択に追い込む、小泉信三と吉田茂の連携
「すくなくとも「テニスコートの恋」より4年前に皇太子妃は決定していた」
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/792.html
■「テニスコートの恋」の真実
1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピットが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇(迪宮裕仁 1901-1989)、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶應義塾塾長を務めた小泉信三(1888-1966)、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田 茂(1878-1967)
(略)
■皇太子妃を巡る暗闘があった
10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888-1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。
この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。
注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。
この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。
(略)
さて、宮内庁次長の瓜生順良(うりゅう のぶよし ?-1957)が、記者会見でお妃問題に対して初めて公式に言及したのは1955年(昭和30)年9月である。
この時、瓜生は「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、出来るだけ広い範囲から選ぶ方針である」と述べている。
1972年発行の『毎日新聞百年史』にも「宮内庁が皇太子妃の本格的選考に入ったのは(昭和)30年頃からである」と書かれている。
しかし、こうした通説が誤りだったことを『吉田 茂書翰(しょかん)』(中央公論社 1994年刊行、加えて『吉田 茂書翰 追補』吉田茂国際基金 2011年刊行)が見事に証明している。
女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」会長で東宮御教育参与を務めていた松平信子(1886-1969)が、皇太子妃は旧皇族または華族から選ぶべきだと主張、愛国団体を動かしての御婚儀反対工作を行うまでしながら、正田美智子(1934-)との結婚に反対していた。
不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。
旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。
時系列
1946年
5月 カトリック教徒で工作員の吉田茂が首相に
7月 新平民の美智子の祖父・正田貞一郎が勅撰で貴族議員に。
1947年
3月 美智子、雙葉学園小学校を卒業
1954年
10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見
1957年
8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」
1958年
11月17日 ニューズウイークが皇太子妃決定の配信 「テニスコートの恋」
11月24日 宮内庁公電をもって館林=正田家に通知
11月27日 皇室会議
1959年
4月10日 皇太子結婚の儀
カトリック教徒の吉田は、ローマ教皇に会っています。
感無量だったでしょう。皇室のカトリックへの改宗を約束したのかもしれません。
海外の報道がリーク⇒宮内庁が正田家に通知⇒皇室会議
明仁さんと美智子は、皇室会議をとおさずに勝手に結婚したので、美智子はご成婚から今にいたるまで、正妃として認められていません。天皇と婚姻関係にある夫人ではあるが、妃ではないのです。
さらに小泉は明仁皇太子の教育責任者でした。
・平日9時から5時まで天皇をするだけの、サラリーマン天皇、
・男女平等の思想に基づいた、妻の権力の暴走、
・公務、祭祀の放棄、
皇室解体、廃止につながる明仁天皇の性質を誘導したのは、この人でしょう。