東アジア反日武装戦線の残滓⑧remmikki

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※東アジア反日武装戦線とブロガー⑦からの続きです。

無限拡散|「remmikkiのブログ」管理人黒岩みき子氏の消息(下)

《remmikkiこと黒岩みき子氏のプライベートと随分と重なる「東アジア反日武装戦線」》

実家の菩提寺が、横浜市鶴見区の総持寺だと本人は言っている。

実際に「総持寺」でブログ内検索すると、多数の記事がヒットする。

remmikkiのブログ

http://archive.is/o0peE

お墓参り・川崎でグルメ

雨の中、朝から出かけ、途中次男夫婦に車でピックアップしてもらい、お墓参りへ行ってきた。

 

総持寺とは・・・・Wikiより

http://archive.is/hYJK3

神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗大本山の寺院である。

 

総持寺納骨堂爆破事件・・・・・Wikiより

http://archive.is/wpKD2

1972年((昭和47年)4月6日に発生した爆弾テロ事件。後に東アジア反日武装戦線となるグループが起こした事件である。「東アジア反日武装戦線」という名称が決まったのは1972年末であるが、本項では便宜上、それ以前の当該グループも「東アジア反日武装戦線」と呼称する。

標的の来歴

神奈川県横浜市の總持寺常照殿(納骨堂)に安置されている遺骨は、日本統治時代の朝鮮に住んでいた日本人約5000人のもので、元々京城府内の墓地に埋葬されていた。その後、無縁仏となったこれらの遺骨は、当時のソウル特別市の金玄玉市長の計らいによって、1970年にソウルの市民墓地に納骨堂が建設された。しかし、この納骨堂を損壊する反日テロが相次ぎ、翌年8月15日、遂に破壊された。止む無く納骨されていた遺骨は日本に返還され、曹洞宗大本山の總持寺が預かることになった。

事件の概要

東アジア反日武装戦線は、「朝鮮人民」の「抗議運動」に呼応するために「侵略者の骨」を安置する納骨堂を爆破することになった。決行日は三・一独立運動に因んで3月1日が選ばれた。

しかし、下見の際にメンバーの一人が寺の職員に顔を見られたことで、大事をとって当面延期しようというグループとそのまま決行しようというグループに分裂してしまった。後者のグループは再度仲間割れをおこし、グループそのものが消滅してしまい、結局3月1日に決行されることはなかった。

そのため、前者の延期派が準備を進め、4月6日に墓石に偽装した消火器爆弾を爆破させた。地面に大きな穴をあけ、大音響をあげたものの、納骨堂の大破には至らなかった。

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明治学院大学のOBに、黒岩さんとほぼ同年代と思われる東アジア反日武装戦線の幹部がいる。

1971年4月、明治学院大学社会学部に進学

宇賀神寿一・・・・・Wikiより

http://archive.is/9SDNF

(うがじん ひさいち、1952年12月28日[1] – )は東京都出身のテロリスト。アナーキズム系新左翼活動家。[要出典]東アジア反日武装戦線「さそり」部隊の元メンバー。現・救援連絡センター事務局員。愛称は“シャコ”。

人物・来歴

明治学院東村山高等学校時代から部落解放運動・在日コリアン問題に関わる。また、ベトナム反戦運動や三里塚闘争などにも参加する。
1971年4月、明治学院大学社会学部に進学。明治学院大学在学中は、「学費値上げ反対闘争」「ワーキングプア救済闘争」[要出典]に参加。その中で逮捕されていった明治学院大生グループの獄中闘争支援や在日コリアン問題に関わり、反日思想を醸成させていった。

宇賀神と同じく明治学院大学の学生であった桐島聡とともに、東アジア反日武装戦線「さそり」に参加し、一連の連続企業爆破事件に関与する。

1975年5月19日に東アジア反日武装戦線各部隊の主要メンバー7人が一斉に逮捕される。直後に黒川が所持していた宇賀神の家の鍵から、まだ警察が把握していなかった宇賀神の存在が浮上した。宇賀神は警察に指名手配されたことを契機に、地下潜行生活に入る。学籍のあった明治学院大からは除籍処分を受ける。[5]

指名手配から7年後の1982年7月13日、東京都板橋区内で逮捕される。宇賀神は3月まで偽名で新聞販売店で働いていた。1990年2月に最高裁が懲役18年判決を維持し、刑が確定した。岐阜刑務所に13年間服役し、2003年6月11日に出所。未決拘留期間も含め、合計21年間の獄中生活を過ごす。

出所後の宇賀神は救援連絡センターに就職し、事務局員として同センターの運営を担い、活動を推し進めながら「冤罪のない社会」を目指して反権力闘争を闘っている。

 

1972年4月に明治学院大学法学部に進学

桐島聡・・・・・Wikiより

http://archive.is/3TDkL

きりしま さとし、1954年1月9日 – )[1]は、広島県出身のテロリストでアナーキズム系新左翼活動家。過激派の東アジア反日武装戦線のメンバー[2]。連続企業爆破事件の犯人として指名手配されている[1]

人物・来歴

広島県立尾道北高等学校卒業後、1972年4月に明治学院大学法学部に進学。明治学院大学在学中に黒川芳正や宇賀神寿一と出会い、東アジア反日武装戦線に「さそり」班として参加し、連続企業爆破事件の複数のテロ事件に関与した[2]。身長は160cm位で強度の近視、足が細い、広島弁、顔にニキビの跡がある、唇が厚いなどの特徴を持つ[1][3][4]

1975年4月18日、東京の銀座の韓国産業経済研究所の入口に手製の時限信管付爆弾を仕掛け、翌日に爆発させた[3][5]。これによってビルの一部が損壊した[4]。警視庁は本事件を中央区内連続企業爆破事件とも呼んでいる[1]。爆弾は、同グループが出版した腹腹時計に掲載したもので、同グループで薬剤師資格を持つ大道寺あや子が勤務先から横領した薬品などを使って製造したものが使用された[6]

1975年5月19日に東アジア反日武装戦線の主要メンバー7人が逮捕されたのを契機に逃亡。直後に黒川が所持していた桐島の家の鍵からまだ警察が把握していなかった桐島の存在が明らかとなり、桐島は警視庁に爆発物取締罰則違反で指名手配された[5]。1989年と1990年、警視庁は過激派の爆弾犯、誘拐犯ら10人を指定の公開手配とした中の1人に桐島を挙げた[3]。現在も生死も行方もわかっておらず、東アジア反日武装戦線のメンバーの中で一度も逮捕されていない唯一のメンバーである[2][5][7]

★「remmikkiのブログ」の管理人の、黒岩みき子氏は、自著によると、1968年に明治学院大学在学中に、アメリカへ留学と有る。

何年生の時かは、わからないが、当時20歳とすると、1948年(昭和23年生まれ)で現在、71歳、東アジア反日武装戦線の幹部らの多くと年齢が被る。

大道寺将司・・・・・1948年生まれ、獄死

大道寺あや子・・・1948年生まれ、国際指名手配中

佐々木規夫・・・・・1948年生まれ 国際指名手配中

黒川芳正・・・・・・・1948年生まれ 確定死刑囚

片岡利明・・・・・・・1948年生まれ 確定死刑囚」

 

※東アジア反日武装戦線とブロガー⑨へ続きます。

東アジア反日武装戦線とブロガー⑨

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