LA大火災⑫ ロサンゼルスの大火事、被災者のかたの3日間

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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ロサンゼルスの大火事、被災者のかたの3日間

Hiro Ono / 小野雅裕@masahiro_ono

 

ロサンゼルスの大火事、被災者の端くれとして、誰かの今後の役に立てばと思い、今までの経験と得た教訓をまとめます。僕たち家族は幸いなことに人も家もハムスター🐹も無事ですが、停電は続いており、避難警報は出たままです。

 

まずは概説。LA郡は関東平野ほどの広さのあるメガロポリスで、同時多発的に火災が発生しています。とりわけ酷いのがマリブ付近のPalisades Fireと、パサデナ付近のEaton Fireです。僕が住んでいるのはEaton Fireの避難区域の東の端です。この近辺に住んで約12年になります。

 

快晴の青空がトレードマークのLAですが、冬は雨季で、例年だとまとまった降水があるのですが、今年は異常に暖かく、数ヶ月も雨らしい雨は一度も降りませんでした。ここまで雨が降らない冬ははじめてです。気候変動の影響が少なからずあるのでしょう。

先週から、今週火曜日に強風が吹くという警報がでていました。これは珍しいことではなく、Santa Ana winds呼ばれていて、LA付近でこうして強風が吹き荒れる日が年に何度かあります。だから「ああ、季節外れのSanta Anaね」とくらいにしか思っていませんでした

火曜日、予報通り風がビュンビュンと吹き始めました。僕が勤めるNASAジェット推進研究所は安全のため職員に在宅勤務を推奨し、僕も家で働いていました。しかしこの時は風でものが倒れたら危ないね、という程度でした。

最初の異常は午前中、すぐ近くの同僚から来た、停電したとのテキストでした。アメリカの電力網は脆弱で、風が吹いたくらいですぐ停電します。うちも来るかも、と妻が機転をきかせ、キャンプ用のポータブルバッテリーを充しました。これによってその後大いに助けられます

 

1時半頃、妻の予感が的中し、うちも電気が落ちます。僕は2時から非常に大事なミーティングがありました。幸いなことにネットの光ファイバー網は生きていたので、バッテリーでルーターを駆動したらネットはつながりました。午後はそのまま普通に仕事をし、夕方に子供達を迎えにいきました。

日が暮れても電気は回復しませんでした。例のバッテリーにLEDのデスクライトを2個繋ぎ灯りをとりました。合計で10Wしか食わず、狭い家なので最低限の明かりは事足りました。ガスは来ているので、チャッカマンで点火し食事をとりました。

その日は、「明日になったら電気が直ってたらいいね」くらいの気持ちでした。家族みんな9時前には寝ました。その頃、うちの10 kmほど東の山で最初の火の手が上がり、強風に煽られ急速に燃え広がっていたことを、僕たちはまだ知りませんでした

翌朝5時前に起きると、SNSのタイムラインが火事のニュースで埋め尽くされていました。非常持ち出し用品を揃えておかねばとずっと前から思いつつ怠っていたので、家族が起きる前に非常用品を集め出しました。そうこうしていると朝6時頃、スマホからけたたましい警告音が鳴り響きました。

日本のJアラートのようなシステムがこちらにもあります。僕の住んでいる地域にEvacuation warningが出たことを知りました。すぐ1 km東の地域はevacuation orderつまり避難命令が出たことも知りました。僕の場所にも避難命令が出るのは時間の問題かと思い、家族全員を起こしました

夜が明けました。庭に出て東の空を見ると、真っ黒の煙が立ち上り、南の空まで覆い尽くしてました。大変なことになったと実感した瞬間です。

みんなであわてて避難の準備を始めました。安全な地域の友人に連絡し、いざとなったら避難させてもらえないか尋ねました。ありがたいことに快諾してくれました。職場は閉鎖、娘の学校も休校。全てを車に詰め込み、続報を待ちました。

待つ間、情報収集に努めました。役に立ったのがこのWatch Dutyというアプリ。避難命令が出ている場所、避難所などの情報、公的機関からのアナウンスなどを全て見ることができます。アメリカ在住の人は必携アプリです。

幸いなことに、避難命令は1 km先で食い止まり、僕たちは家で待機を続けました。待っていても仕方ないので、僕と妻はバッテリーでネットに繋いで仕事をしました。大活躍したのがキャンプ用の太陽光パネルです。これで例のバッテリーを充電できます

 

条件が良ければ30Wほどの電力がでます。ルーターを駆動するには十分な電力です。ただ、この日は煙で日光が遮られ、10W程度しか出ませんでした。そこで午後に友人宅にお邪魔し、バッテリー、パソコン、スマホの充電をさせてもらいました。忙しい中、とても親切に電源と場所を貸してくれました。

この頃、同僚たちの様子が伝わってきました。JPLはEaton Fireの避難区域のど真ん中にあります。感覚的に約半数の同僚が避難をしてしました。多くは安全な場所の友人や親戚の家に身を寄せていました。家が焼けてしまったという話もちらほら聞き出しました。

火の手はJPLの東300 mくらいまで迫りましたが、なんとか食い止まりました。幸運としか言いようがありません。もしJPLが燃えていたら、アメリカの宇宙探査に大打撃となっていたでしょう。JPLへの立ち入りは禁止され、金曜日まで在宅勤務になりました。

僕は水曜日に火星ローバーの運用のシフトが入っていましたが、もちろんキャンセルになりました。全ての宇宙探査機の運用は止まっています。日本の探査機も利用する宇宙通信網Deep Space Networkは、運用がバックアップ拠点に移され、稼働しています。

水曜の夜になっても電気は戻りませんでしたが、我が家は友人宅でフル充電させてもらった電気のおかげで照明とネットはあり、水もガスも出ました。ただ、8歳の娘が極度の不安で精神的に不安定になりました。やはり、暗いと人の心は不安になります

歳の能天気イヤイヤ期息子は停電でもプラレールで遊んでいましたが、いつもよりイヤイヤが酷かった。やはり彼なりに不安だったのでしょう。僕たちのような軽度の被災者でも精神的に疲れます。家を失った人たちの心労はいかほどか、想像もつきません

木曜の朝も電気は回復しませんでした。黒い煙はありませんでしたが、木の焼けた匂いが立ち込め、白い灰が舞っていました。Air qualityは150。朝日が煙のレイリー散乱のせいで不気味な赤さでした。

停電も3日目になるとそれが日常になりました。バッテリーでルーターを動かし、僕と妻は交代で子供を見ながら仕事をしました。暖房がないので家が冷えましたが、LAなので暮らせないほどではありません。この日は太陽電池から25W程度の出力を得ました

午後は娘の友人の家にお世話になり、バッテリーの充電に加え、洗濯もさせてもらいました。ありがたいの一言です。娘は友人と楽しそうに遊んでて、冬休みが長くなってよかったね〜、などと話していました。明るい昼間は精神状態も上向きます。

友人や同僚たちからの続報が多く届きました。さらに何人かが家を失ったことを知りました。僕たちは家が燃えていなくて幸運だったというほかありません。

最大の教訓は「持つべきは友」。電気がなくても3晩過ごせているのは一重に親切な友人のおかげです。さらに何人かの友人が、必要なら泊まってくれていいと言ってくれました。多くの近隣や遠方の友人が状況を案じてメッセージをくれました。これほど心強いことはありません。

僕も妻もあまり社交的ではないので、この10年でほとんど友達は増えていませんでした。僕たちの昔からの友人に加え、娘の友達の家族がとても親切にしてくれました。本当にありがたい限りです。僕も妻も娘に感謝しきりです。

役に立った物の筆頭が、例のバッテリーです。夜の照明、ネットのルーターに加え、気が滅入ったときに音楽をかけたり、水ポンプを稼働したりと大活躍でした。これがなかったら停電で夜を越すのはしんどかった。太陽電池も大活躍。その他キャンプ用品が非常に役に立ちました。

そして生ピアノと生ギター。暗く落ち込んだ夜に鳴る音楽は、家を明るくしてくれました。

そして何よりも、家族。うちらは騒がしい家族で、しょっちゅう喧嘩もしますがとても仲良しです。子供達の笑顔に何度も助けられました。やはり家族一緒にいるという安心します。昨日は娘が不安で寝れなかったので、今晩は一緒のベッドで寝ることにしました。今、僕の隣で寝息を立てています

困難な3日間でしたが、家族で助け合い、夜は暗い部屋で身を寄せ合い、家族の距離がさらに縮まったように思います。まだ停電と避難警告は続いていますが、なんとか乗り越えようとおもいます。(おわり)

 

参考になりますね。

 

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