両親と小学生の弟3人は、私ひとりで火葬した
おはようございます⛅️
1945年8月6日、広島に原爆投下。
直ぐに父は「広島に新型爆弾が落とされた、長崎も危ない、気をつけろ」町内をメガホンで大声で廻り始めた。9日朝も廻っていた。我が家は爆心地から200メートル。父は焼け残った門柱にもてれ道路側を向いて黒焦げになっていた、メガホンを持って。
1945年、私は報国隊で軍需工場に通っていた。8月9日の朝、ある事で機嫌を悪くしていた私に、母は玄関で「怒らないで行きなさい、プンプンしないで。これが最期かも知れないんだから」と言った。150mほど歩き、角を曲がる時、振り返ると母は手を振っていた。そんな見送りをした事はなかったのに。
家は爆心地から200m、8月9日の原爆で両親と小学生だった弟3人を亡くした。軍需工場にいた私と、2歳下の妹だけが生き残った。妹は、8月1日の空襲で機銃掃射を受け、あまりの恐怖で、地区の大きな横穴に籠ったきり出て来なかった。だから9日に生き残った。
家は爆心地から200m、8月9日の原爆で両親と小学生だった弟3人を亡くした。軍需工場にいた私と、2歳下の妹だけが生き残った。妹は、8月1日の空襲で機銃掃射を受け、あまりの恐怖で、地区の大きな横穴に籠ったきり出て来なかった。だから9日に生き残った。
両親と小学生の弟3人は、私ひとりで火葬した。集めた瓦礫の上にトタンを乗せ、そこに家族を並べた。両手に、炭のようになった家族とその血のりが、べっとりとついた。「私に残されたものはこれだけ」、両手両腕に何度も擦り付けた。燻った瓦礫は直ぐに勢い良く燃え始めた。涙は出なかった。
以上
8月の6日、9日を忘れてはならない。
8月の6日、9日を忘れてはならない。
どんな信条、思想があろうと、事実は事実として記憶し、後世に正しく伝えるのは義務だと考えている。
広島、長崎に原子爆弾が投下された日である。
以上