転載|両親と小学生の弟3人は、私ひとりで火葬した

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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両親と小学生の弟3人は、私ひとりで火葬した

 

わたくし95歳@Iam90yearsold

 

おはようございます⛅️

1945年8月6日、広島に原爆投下。

直ぐに父は「広島に新型爆弾が落とされた、長崎も危ない、気をつけろ」町内をメガホンで大声で廻り始めた。9日朝も廻っていた。我が家は爆心地から200メートル。父は焼け残った門柱にもてれ道路側を向いて黒焦げになっていた、メガホンを持って。

1945年、私は報国隊で軍需工場に通っていた。8月9日の朝、ある事で機嫌を悪くしていた私に、母は玄関で「怒らないで行きなさい、プンプンしないで。これが最期かも知れないんだから」と言った。150mほど歩き、角を曲がる時、振り返ると母は手を振っていた。そんな見送りをした事はなかったのに。

家は爆心地から200m、8月9日の原爆で両親と小学生だった弟3人を亡くした。軍需工場にいた私と、2歳下の妹だけが生き残った。妹は、8月1日の空襲で機銃掃射を受け、あまりの恐怖で、地区の大きな横穴に籠ったきり出て来なかった。だから9日に生き残った。

家は爆心地から200m、8月9日の原爆で両親と小学生だった弟3人を亡くした。軍需工場にいた私と、2歳下の妹だけが生き残った。妹は、8月1日の空襲で機銃掃射を受け、あまりの恐怖で、地区の大きな横穴に籠ったきり出て来なかった。だから9日に生き残った。

両親と小学生の弟3人は、私ひとりで火葬した。集めた瓦礫の上にトタンを乗せ、そこに家族を並べた。両手に、炭のようになった家族とその血のりが、べっとりとついた。「私に残されたものはこれだけ」、両手両腕に何度も擦り付けた。燻った瓦礫は直ぐに勢い良く燃え始めた。涙は出なかった。

以上

 

 

8月の6日、9日を忘れてはならない。

先生@心身ともに低迷中@obwnF5DCFzT87bT

8月の6日、9日を忘れてはならない。

どんな信条、思想があろうと、事実は事実として記憶し、後世に正しく伝えるのは義務だと考えている。

広島、長崎に原子爆弾が投下された日である。

※閲覧注意

以上

 

 

ニセモノが天皇に即位?