明仁さんたちの肖像画を白黒にしたら、御真影の出来上がりですね。戦前の皇族の肖像写真は、リアリズムのきいた画風の肖像画を写真におさめて大量生産し配布されました。
これらは、写真ではなく上の明仁夫妻の絵と同じく、写実性の高い画家による肖像画で、それを写真にうつしたものとおもわれます。
輪郭線がのこっていたり、床の遠近法がおかしかったり、いろいろとツッコミどころが満載です。
写実性の高い肖像画を描いて残すということが、明治以後の皇室の伝統になったのかもしれません。
しかしながら、何故、明治天皇の御真影が、三菱の創立者の岩崎弥太郎なのか不思議でしたが、日本の真の支配者であり所有者として認定され、援助をうけていたのなら納得できます。よくみれば耳の形も同じに書かれています。酷似しているのは偶然でしょうか。
日本人は滑稽なことに、岩崎弥太郎を神棚にまつり榊をそなえて、日夜拝んでいたのです。
Sponsored Link
皇室、三菱、麻生とのつながり
『日本の本当の黒幕』鬼塚英昭 P200~
奈良武次はその『日記』の中で、死の床にいる天皇に裕仁や高松宮が冷たい態度を取り続けている様子をそれとなく書いている。一人の心優しい天皇がいた。自分の子供でもないのに4人の子供をかわいがった天皇がいた。その天皇は山県有朋という権力者と戦っていた英邁なる人であった。
しかし、牧野伸顕と貞明皇后から疎んじられた。貞明皇后は毎日のように宮内大臣牧野伸顕をよびつけ、「御落涙」の中であっていた。宮内大臣田中光顕は11年の勤めの中で、単独で美子皇后に謁見した記録は私が調査しても一回もない。あの坂本龍馬瑞夢の件でも、香川皇后大夫を介して謁見している。私は2人が恋人同士であったとみている。
その視点から見ると、三菱と皇室の関係が見えてくる。三菱の一員となったグラバーは、ジャーディン・マセソン商会という麻薬や兵器を扱う英国の商社の派遣社員であった。
福岡を拠点としている麻生財閥は、マセソンの麻薬と兵器を日本に売り込むことで巨大化した。
そのマセソンの日本における代理人が吉田健三だった。
吉田健三に子がなかったため、土佐宿毛の竹内綱という、船問屋で参議院議員が長崎の女郎に産ませた(一説には女郎がほかの男と交わり産んだ)子供を養子に迎えた。
この子が大きくなり、牧野伸顕の娘雪子と結婚する。吉田茂である。
※(管理人)雪子と吉田茂の間に生まれた娘が和子。和子が麻生家にとつぎ、麻生太郎、三笠宮寛仁親王妃の信子を生んだ。
和子、太郎、信子
三菱と麻生財閥は島原から石炭船をだして、マセソンのルートでイギリスの植民地東南アジアとインドに運ぶ。
この麻生財閥と三笠宮が血閥を形成していく(麻生太加吉の娘信子は三笠宮寛仁に嫁いでいる)
石炭だけはない。多くの女性が売られて「カラユキさん」となる。三菱と麻生の慰安婦輸出を奨励したのは福沢諭吉だった。これも三菱の金で太った男だ。
元をたどると、三菱と島津が血閥となり、貞明皇后と牧野伸顕が三菱財閥をより巨大にした構造が浮かび上がってくる。牧野伸顕こそが日本の暗黒の演出者だった。
※(管理人)牧野は大久保利通の子で牧野家へ養子へ行った。
その牧野伸顕を唯一脅しつづけた男がいた。それが田中光顕だった。三菱は田中光顕にリスクの高いお男たちを管理させ続けた。
頭山満がどうして裕仁から「民間の元老」という名誉ある職をもらったのか。三菱と田中美津顕が頭山満という危険分子を使い、日本を支配せんとしたためである。
裕仁と良子女王の結婚が決まると、久邇宮は死者を北一耀の元へ送り、次のような文を手渡す。
「本来なら、あなたを浪人総代としてお礼すべきだが、頭山さんが先輩故、頭山さんを総代と遇するが、なにとぞご諒承いただきたい」
(中略)
三菱は頭山満を「民間の元老」とするよう、牧野伸顕を動かしたにちがいないのである。
裕仁は牧野伸顕を父親のように慕っていた。貞明皇后が男として慕うように。
転載以上
北一輝は、三菱から捨てられ、三井財閥と組むことになります。
wikiより
北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)
1883年(明治16年)4月3日 – 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した。
頭山満は、三菱と組み、玄洋社、黒竜会などの組織を持っていました。三菱は頭山を牧野を使って「民間の元老」にしました。
頭山満がもっていた組織
wikiより
黒竜会
黒龍会(こくりゅうかい)は1901年(明治34年)1月に設立された国家主義(右翼)団体である。中国・満州・ロシア国境を流れる黒龍江に名前が由来する。
対露開戦を主張。玄洋社の海外工作センターといわれた。海外では日本の壮士集団、BLACK DRAGON SOCIETYとして恐れられていた。
1931年に大日本生産党を結成。1946年、GHQ当局によって、最も危険な影響力のある国家主義団体として解散させられた
大アジア主義
樽井藤吉は著書『大東合邦論』にて、日韓連邦建設によって欧米列強諸国からアジアの独立を護ろうと主張した。内田良平や武田範之らの黒龍会の会員たちは、『大東合邦論』に共鳴した東学党の乱の指導者の一人、韓国一進会の会長李容九と共に「日韓連邦建設」「日韓合邦論」[11]を叫んで、日韓が力を合わせ白人の東洋侵略に対抗するべく日韓合邦運動を展開した
第一次世界大戦後、牧野伸顕らが代表として国際連盟の会議に出席することになったのを受け、黒龍会は各界に強い働きかけをして人種的差別撤廃提案を提出させようと運動している。また、ラース・ビハーリー・ボースの亡命支援などに携わり、インド独立運動やフィリピン独立運動など、復興アジア運動を積極的に行った。
孫文を支援し、辛亥革命を支援した。
玄洋社
当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。
また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。
日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散を命令した。
以上
※【皇室と国賊】三笠宮妃信子、白洲次郎、麻生財閥、吉田茂の黒い系図
なんとなく、明治から戦前の雰囲気がわかりますね。
皇室、宮家、財閥、「志士」「元老」といわれた孝明天皇と睦仁親王を暗殺して維新で成り上がった旧被差別民からでた支配層、ヤクザ、右翼、秘密結社、、、犯罪者も、国際金融同盟の下僕である売国奴も、宮家も、皇室も、右翼国士も、もうぐちゃぐちゃになって交わっています。
続きます。