敵はスケ連でも城田氏でもない
日本スケ連の「権力構造」から見える、羽生選手は「特別扱い」されていない根拠
私は、2018年3月に「平昌冬季五輪シリーズ」について連載するときに、「スケ連」の権力構造やISUのバッハ会長についても切ってほしいという要望が有りましたが、やめました。
理由は、当時の私の「情報源」が、現在、何者かに「潰されたかのような」人気ブログの「時々黒猫」さんの著作だけだったからです。
スケ連の「女帝」と言われている城田憲子女史についても、黒猫さんサイドの一方的な「悪玉感」しかありませんでした。
なるべく、「公平」に見るために、アンチではないサイドからの「城田観」も有れば読みたいと思いましたが、書いているのは、スケ連の提灯ライターの正体不明の田村明子の「マンセー本」しかなかったので読みませんでした。
田村と言う人は、アジの開きのように両目が離れた「ヒラメ顔」で私は「在日顔」だと見ています。
※画像はでれでれ草さんから
東北の岩手県にまで、在日がいるのかと思う人もいるでしょうが、いますよ。
有名な「盛岡冷麺」とは・・・・Wikiより
は、岩手県盛岡市の名物麺料理。辛味のある冷麺である。わんこそば、じゃじゃ麺と並んで「盛岡三大麺」と称されている[1]。盛岡では一般的に「冷麺」というとこれを指す事が多く、主に焼肉店での定番として供される。公正取引委員会が承認する特産・名産麺料理10品目の中で唯一の冷製専用品目である
歴史
この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2018年2月)
朝鮮半島北部(現・北朝鮮)の咸興生まれの在日朝鮮人1世の青木輝人(朝鮮名:楊龍哲(よう りゅうてつ、ヤン・ヨンチョル:양용철))が、1954年(昭和29年)5月に盛岡でテーブル4つの「食道園」を開業し、店で出したのが最初である。料理人としてのプロの技術を持たなかった楊は、自分が子供のころに食べた咸興の冷麺を独力で再現しようとした。
最近の在日の人は「通名」作りは非常に工夫しています。
金田とか、金本みたいに一目でわかる「通名」は名乗らなくなりました。
例えば、山本太郎のように、シンプルで日本人らしい通名です。
苗字には、日本人に愛される「櫻」を多用する。
「太郎」は日本人では「長男」の意味です。
田村明子というライターは、例の「デニス・テン練習妨害事件」の時に、まるで「男女の中」を想起させる「テン擁護」をして非常に違和感を感じました。
日本スケート連盟とは・・・・Wikiより
役員
• 会長 橋本聖子
• 副会長 長島昭久
• 副会長 荒川静香
• 専務理事 天野好人
• 理事 21名
• 監事 2名
「不適切な」振る舞いをして叩かれた、現会長、母校の先輩の長島議員と女史金メダリストと続きますが、上位3人はただの「飾り物」で、実権は「21名いる理事」の誰かが握っていると思います。
それは、私の直感でいうと、城田憲子女史ではないかと思います。
城田憲子とは・・・・Wikiより抜粋編集
・1966年3月、アイスダンス選手として、同年11月の全日本選手権を連覇。同年11月の全日本選手権を連覇
・競技引退後は審判の道に進み、ISUジャッジとして多くの国際大会に参加。日本国内の競技会でもテクニカルコントローラーや演技審判を務めた。
・1994年6月、日本スケート連盟フィギュアスケート強化部長に就任。
・1995年に日本スケート連盟理事となり[1]、長野五輪・ソルトレイク五輪・トリノ五輪の3大会で監督を務めた。独自の強化育成方針に基づき「全国有望新人発掘合宿(野辺山合宿)」や「全日本強化合宿」、ノービスからの国際試合派遣システム立ち上げを通じ、また選手に適任のコーチや振付師を探す調整役として、選手の強化に取り組んだ。
・日本への大会誘致にも取り組んでおり、伊藤みどりのサラエボオリンピック出場の可能性を上げるために1984年世界ジュニアフィギュアスケート選手権を札幌に招致した。
・年齢制限のためトリノオリンピックに出場できない浅田真央に世界フィギュアスケート選手権で初出場初優勝の可能性を持たせるため2007年世界フィギュアスケート選手権を東京に誘致したことは有名な話。
選手としては「大成」しなかったようですが、引退後は、審判の道に進み、国際大会の経験も豊富、指導者としての実績も残しています。
現役引退後の方がキャリアが長い、「経験豊富」で実務に長けた人だと思います。
他国のスケート連盟の幹部との「人脈」も厚いでしょう。
そして運も抜群にいい。簡単につぶせませんよ。
次は、城田憲子の命式を見てみましょう。