家系(2)母方・江頭家は高祖父、父方・小和田家は曾祖父までしか遡れない
続きです。
父方・小和田家
河原敏明著(平成5年4月)
小和田家の系譜
ここで小和田家の戸籍系統図をみよう。本家は小和田岩夫氏といい、現在東京都下の小平市に住んでいる。
岩夫氏の5代前の群蔵から分かれた兵五郎が、雅子さんの直接先祖になる。
つまり 兵五郎―道蔵(匡利)―金吉―毅夫―恒―雅子の流れである。
その祖先が眠るという西真寺(さいしんじ)を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺で、元和4年以来、ここで370年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した、という話をしてくれた。
ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけで(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。
高さが70cm、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。
ふつう移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」と住職夫妻も不審気だった。
昭和61年11月、恒氏が外務省官房長のとき、恒、毅夫の両氏夫妻が村上市にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠っているにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた。
そこで小和田毅夫氏が村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと住職の広沢誠師が、
「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓だけがあります。外務省の小和田家にとって初代に当たる兵五郎の墓は寺にはありません。
私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かりませんが。三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」
と西真寺の住職の話とはだいぶ食い違いがある。
しかも泉性寺が明治十三年の大火で類焼しているので資料が乏しいという。
昭和五十五年に毅夫氏が、この泉性寺にある墓の台座だけを、よりよいものに直している。
先の61年11月に新潟を訪ねた恒氏は夫人、両親とここの寺には墓参のため立ち寄っている。
以上
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母方 江頭家
江藤淳『一族再会』
祖父
木原村
肥前国佐賀郡北川副村木原は、現在の佐賀市大字木原で、国鉄佐賀線の南佐賀駅にほど近い農村地帯である。
明治四十三年ごろ、祖父に連れられてはじめて佐賀に行った父は、市中に田圃があるのにおどろいたのを今でも印象にとどめている。
そのとき祖父は、小学生だった父にむかって、
「おれの生まれた家はこの田圃のはるか向うのほうだった」といったという。
つまりそれが木原である。
それから三年後に祖父は死んだ。
父の記憶にないところをみると、祖父はこの佐賀滞在を利用して生家のあった木原を訪ねようとはしなかったらしい。
それが何故であったかは私にもよくわからない。当時木原にはすでに近親の残存者は皆無で、裁判官になっていた祖父の兄も遠く東北の任地にあった。
しかし海軍少将で佐世保鎮守府参謀長の職に在った祖父が、久しぶりの帰郷にあえて生家の跡をおとずれようとしなかったのは、やはり彼に故郷に対する根強い嫌悪感があったからではないかと思われる。
彼はおそらく「錦を飾る」などというにはほど遠い心境だったのである。
以上
母方・江頭家は高祖父、父方・小和田家は曾祖父までしか遡れない
高原氏
小和田雅子さんの母方・江頭家は高祖父の江頭嘉蔵までは遡れます。
父方の小和田家は、曽祖父の小和田金吉までしか系譜は分かっていません。
3代前までしか遡れない小和田家の4代前を、その調査員の方はどうやって調査したのでしょうか?
また、4代前まで遡って調査したはずなのに、マスコミに公表された家系図の小和田金吉には職業や経歴は一切記されていないし、金吉以前の系図が記されていないのは何故ですか?
消えたお妃候補たち 指摘されたいくつかの問題点
小田桐誠
宮内庁は小和田について弁護士や興信所を通じ、直系三代に汚点がないか、両親の評判、本人の健康状態などを徹底的に調べ、独自にチェックしたといわれる。その結果は首相官邸にも報告されていたという。報告にはいくつかの問題点が指摘されていた。
一つは八七(昭和六十二)年暮れから八八(昭和六十三)年初めに発売された一部週刊誌が指摘していたように、小和田雅子の母方の祖父・江頭豊が、日本興業銀行の銀行マンから転じたとはいえ、代表的な公害企業・チッソの社長や会長を務めていたこと。
「お妃とともに全国を回らなければならぬ立場にある浩宮さまの訪問先で、水俣病の患者のムシロ旗が立つようなことがあっては」と宮内庁幹部は懸念したのである。
(中略)
母方の親戚に江口朴郎東大名誉教授(故人)のような左翼系の学者がいることをマイナス要因にあげる者もいたという。
(中略)
ただハーバード時代にボーイフレンドがいたことも一つのネックになっているのでは、とみるマスコミ関係者もいた。
小和田雅子の母方の祖父に難点ありとして、富田宮内庁長官は浩宮に
「(小和田さんには)こういう問題が付随しますからね」と伝えた。
「難しいですか」
「はい」
「ああ、そう。それなら仕方ないですね」
二人の間でこのようなやりとりがあったといわれる。
当時のことを富田は『週刊朝日』(九三年一月二十二日号)でこう答えている。
「私が(小和田さんに)反対したことはありません。ただ、当時は、いわゆる『チッソ問題』の被害者の方がまだ大勢おられました。加えて、批判勢力というか、社会運動派の人たちが(チッソの)東京本社に、押し掛けたりもしていた。そういう状況でしたから、もう少し様子をながめたほうがいいのではないかと、そう殿下に申し上げた。殿下はそれを『わかった』といわれたのです。
『おやめなさい』といったのではなく『みつめましょう』といったのです」
以上
毎日グラフ 1993年1月31日号
新潟県・村上市 慶祝ムード 小和田家のルーツ・系譜に論議わく
恒さん夫妻は87年11月22日、毅夫さん夫妻とともに、郷土資料館を訪ねている。
当時の館長、前田健さんは「士族の血を引く人物らしいエピソード」として、その模様を日記にこう書き残している。
「お父様(毅夫さんのこと)は足がお悪いとのことで車に残られ、お母様と奥様と恒さんをご案内した。
おしゃぎり(村上市の祭りで使われる山車)の説明を終えて、二階へ階段をのぼられる時、恒さんはお母様をおんぶされてのぼられたのには敬服した。なかなかの人だと思った」
小和田家と同じ村上藩士の子孫で、郷土史研究家の村上城跡保存育英会の竹沢盛夫理事長(77)も、小和田家のルーツ探しに追われる日々だ。
竹沢さん自身、雅子さんの父方の曽祖父、金吉さん以前の祖先がつかめていない。
「ご婚約は同じ士族の子孫として大変喜ばしいこと。
下級武士であったために小和田家のルーツは記録が少ないが、これで系譜を解きあかす興味が増えた」といきいきとした表情で語った。
以上
皇太子妃・雅子を生んだ小和田家の犯罪ルーツを徹底追跡!
噂の真相1993年4月号
現地水俣でも異変が……
それにしても、かつて自分たちを苦しめた加害者の孫娘が皇太子妃に選ばれたことを、
被害者である水俣の人々はどう感じているのだろうか。
マスコミは内定直後、宮内庁の言い分をあれだけたれ流しながら、
肝心の患者たちの生の声をほとんど取り上げようとしなかった。
「自主規制ですよ。わずかに共同通信熊本支局がきわめて当たり障りのない患者の声を配信しましたが、それとて掲載した新聞はほとんどなかった」(大手紙・社会部記者)
そして、驚いたことにそうした自主規制のムードは水俣病の患者自身にまで広がっている。
実際、取材をしてもほとんどの患者たちはこの件については、何もしゃべりたがらないのだ。
「何をいっても慶事に水を差すととられかねない、という恐れをいだいてるんですよ」
と語るのは地元支局の記者。
ある患者がマスコミにコメントを求められ、ごく素直なお祝いの気持ちを話したらしいんです。
ところが、それが掲載されたとたん、右翼と称する人物から『結婚を台なしにするつもりか』との脅迫電話がはいったらしい」
今なお残っている水俣病患者に対する差別構造。そして、その構造は天皇制という差別のシステムによって、さらに増幅されていく。しかし、ひとりの患者がようやく重い口を開き、本音を語ってくれた。
「正直いって、江頭については今も怒りの感情は消えていない。が、だからといってあの男の孫がお妃になることをどうこういうつもりもない。これはほとんどの患者がそう考えていると思う。
「ただ-」呼吸をおいて患者はこう続けた。
「許せないのは宮内庁だ。五年前、あの男の孫がお妃になれなかったのが水俣のせいだといわれて、我々が周囲からどれだけ白い目でみられたか、ところが、宮内庁は今度はまるで水俣病の問題が解決したようなことをいう。宮内庁にいったい水俣の何がわかるというんだ」
以上
美智子皇后と雅子さんのルーツ 三代前にニアミス
週刊朝日1993年1月29日号
佐賀 早逝した明治のエリート将軍
雅子さんが皇太子妃になって、天皇家には“佐賀の血”がさらに濃くなる。
美智子皇后の母の故正田富美子さんも、雅子さんの母の優美子さんもルーツは
佐賀だからだ。
正田富美子さんの実家は、佐賀県多久市の副島家。
優美子さんの祖父は、肥前国佐賀郡北川副村木原(現在は佐賀市内)出身の江頭安太郎海軍中将である。
安太郎は、慶応年間の生まれ。
中学、海軍兵学校、海軍大学と常に首席で、日露戦争の際は大本営参謀。海軍中枢の軍務局長に昇進し、海軍大臣を嘱望されたが、肺病のため、一九一三(大正二)年、四十七歳で亡くなった。
安太郎一家は東京に出て、佐賀には、安太郎の長女の嫁ぎ先の親類がいるくらいだ。
その一人、古賀治男さん(八一)は、こういう。
「新聞に出た系図に叔父の名前があって、驚いたとです」
佐賀市内の遠縁の女性も、「親戚づきあいもないのに、ある新聞に遠縁と書かれて迷惑でした」と、話すのである。
以上
「皇后美智子さま秘録」「正田家」と「小和田家」
ノンフィクション作家・工藤美代子
週刊新潮2014年10月9日号
(略)
雅子さんの父・小和田恆の血脈を遡行すれば、越後村上藩(現・新潟県村上市)藩士の流れを汲むとされる。
江戸中期、元文5(1740)年以降、村上藩の町同心や下横目(しもよこめ)といった職に小和田家が就いていたことが判明している。ただし、俸禄は石高ではなく、わずかな金銭・穀物を藩から支給されて暮らしていたようだ。
(略)
幕末期の当主・小和田道助は、郡方懸(こおりがたかかり)というやや上級の職に抜擢されるが、それは捕縛術に秀でていたためだった。
制剛流(せいごうりゅう)という独自の捕手(捕り方、および捕縛術を指す)の極意を体得した小和田道助は、村上藩公認の免許皆伝の腕前として知られたが、それでも俸禄は乏しかった。
村上市郷土資料博物館館員の説明を聞いてみよう。
「明治元(1868)年の村上藩士籍分限で、小和田家は二人扶持二両という年収になっていますね。
一人扶持が一日米五合ですから、二人扶持は一日一升。つまり年間で三百六十五升と二両という給料でした。
これは、おそらく日本でもっとも貧乏だった幕末の村上藩主内藤家に仕えている藩士の中でも、最低賃金労働者だったと思われます」
道助は町同心として優れた能力がありながらも、生活はかなり苦しかったようだ。
恆の父祖は、道助の弟・兵五郎が立てた分家で、その嫡男・道蔵匡利が跡を継いだとされている。
古史料「村上城下絵図」(村上市郷土資料館発行)を見れば、兵五郎の名は同心組が住む城下の足軽屋敷の一角に確かに見出すことができる。
ところが兵五郎と道蔵匡利が維新後に相次いで亡くなったため、道蔵匡利の次の世代があいまいなのだ。
現在分かっているのは、どういう出自かは判然としないものもの金吉という人物が現れ、税務署勤務をしながら小和田姓を継いだということである。
多くの系図資料を検討しても道蔵匡利と金吉を実線で繋ぐものはなく、点線でしか繋がっていない
(『週刊朝日』増刊号、1993年3月25日号ほか)。
いずれにせよ、小和田恆の祖父がこの金吉ということになる。金吉は、高田税務署に勤務していた
明治30(1897)年、熊倉竹野と結婚し、長男・毅夫、長女・ミヨシの二児をもうけるが、明治33に早世してしまった。
金吉に先立たれた竹野は苦労して助産婦の資格を取り、女手ひとつで子供を養育した。
長男・毅夫は当時としては最高学府といわれる広島高等師範学校を卒業、教員の道を歩む。
新潟県立旧制高等女学校の教員、校長を経て、戦後には新潟県立高田高校校長を長らく務め、地元では篤実な教育者として名が残っている。
毅夫は村上藩士の血を引く田村静を妻に迎え、五男三女に恵まれた(長女・節子は夭折)が、子供たちは全員が秀才・才媛ぞろいだった。
恆の兄弟五人の男子はすべて東京大学を卒業、二人の姉妹も旧制奈良女子高等師範(現・奈良女子大)、お茶の水女子大といった名門を卒業している。
この秀才一家の次男(第四子)として生まれたのが、雅子さんの父・恒である。
雅子さんからみれば、毅夫が父方の祖父で、金吉が曽祖父ということになる。
(略)
その雅子さんが東宮妃と内定したのは、平成5年1月19日に行われた皇室会議だった。
同年6月9日に予定されている結婚の儀とご成婚パレードを前にした4月17日、恆と妻・優美子は雅子さんとともに新潟市の菩提寺
泉性寺にある墓を詣で、テレビや新聞で大きく報じられた。
ただし、小和田家の墓はかつて村上市と新潟市で三ヵ所に分散されており、各寺の住職でさえ家系を辿るのは難しいと語っている。
墓碑の取り壊しやご遺骨移動の事情も絡み、小和田家代々が泉性寺に祀られているかどうかは不明なのだ。それだけ江戸時代から明治にかけて、小和田家先祖の苦節が偲ばれるわけだが、
墓の件にこれ以上分け入るのは今回は避けたい。
父祖の苦渋に満ちた歴史があればこそ、雅子さんが皇太子妃として入内し、恆が国連大使に就任したことで、家郷へ錦を飾った一家の誇らしい気持ちが溢れ出たのはうなずける。
そんな小和田家の高揚感の表れのひとつだろうか、新発田市の歴史を偲ばせる。
旧新発田藩下屋敷の庭園「清水園」の一角に、一つの木札(高さ百二十センチ、幅五十センチほど)がある。
恆の生誕地から至近距離にあるその木札は、雅子さんのご成婚記念として平成5年11月に市の職員の手によって建てられたものである。
雅子さんの「お印」であるハマナスが側に植えられた木札には、次のような文言が記されている。
雅子妃殿下御父上誕生の地
樹種 ハマナス
寄贈 北蒲原郡聖籠町
平成五年十一月十三日
新発田市皇太子殿下御成婚記念実行委員会
「清水園」を管理する職員に話を聞いてみた。
「何度か、小和田さんご夫妻がお見えになっていますよ。最初は細長い木簡のような札に書いて建てたのですが、奥様から『なんだかお墓みたいね』と言われたので、市のほうであわてて現在の形に作り変えました」
これまで、東宮妃の父親り生誕の地が、わざわざ顕彰される事例はあまりなかっただろう。
平成10(1998)年10月23日のこと、新潟駅では駅長以下総出で皇太子妃殿下の父・小和田恆のお出迎えに奔走していた
新発田市の市民会館で、地元の敬和学園大が主催する小和田国連大使による特別講演会が開かれるためである。
新潟駅では駅長の先導で特別通路を通り、JR東日本新潟支社の正面玄関から用意された車で新発田市へ向った。
駅や道中での警備陣の対応も、地元民によれば「まるで天皇陛下並み」の緊張ぶりであったという。
また、平成21年2月に小和田恆が国際司法裁判所所長に就任した夏である。
恆はオランダから夏休みを兼ねて帰国すると、山形県にある山辺町を妻とともに訪れた。天童市に隣接する
この寒村に足を運んだのは、この地出身で日本人初の常設国際司法裁判所(国際司法裁判所の前身)所長となった安達峰一郎(1869~1934)の生家を訪ね、同時に山形市で記念講演を行うためだった。
なにしろ皇太子妃の父の来訪とあって、地元での歓迎ぶりはいやが上にも盛り上がった。
この日、恆は国際司法の先達の生地に自らの手形と署名を残した。
翌年、生家前には黒御影石の立派な記念碑が建立された。石碑に刻まれた文字は、
「山辺町来町記念 国際司法裁判所所長 小和田恆」
とあり、中央に実物大の右手形が刻印されている。名前も自らの直筆文字を彫ったものだ。
もちろん、恆が申し出たわけではなく山辺町の役場やロータリークラブの発案で製作されたのであろう。
しかし、生誕の地の木札も、来町記念の石碑も本人の許可を得て建てられたものである。
個人の感覚はそれぞれ違うが、人前で自分の印象を強めるような振る舞いを極力避けてきた
正田英三郎との差異は歴然だといえる。
一方、ご成婚前に、小和田家の系図を遡って用意しようとしていた宮内庁は、部落解放同盟から思わぬ抗議を受けた。雅子さんの父方、三代前の金吉以前が繋がらず、調査に行き詰っていたときである。
今の時代、出自で人を云々することは、もとより許されない。だが、一般とは違う立場の歴代の皇太子妃はこれまで厳密な系図が準備されてきた。
「身元調査は差別である」との抗議が、部落解放同盟中央本部の機関誌『部落解放』(平成5年6月号)に掲載された。
抗議文から、一部引用しておこう(部分引用)。
「本年一月六日の『皇太子妃内定』の報道いらい、こうした差別撤廃、人権確立をすすめる立場から看過できない内容の報道がなされています。とくに、小和田雅子さんの『家系図』の掲載や『家柄』賛美などの過剰ともいえる報道内容、そして、『皇太子妃を選ぶにあたっては、皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査』などと、宮内庁自らが公然と身元調査を指示していたことが報道されています」
抗議文は3月16日付で、宮沢喜一皇室会議議長(内閣総理大臣)、衆議院議長、参議院議長、宮内庁長官にも送付された。
個人情報の管理が以前よりはるかに厳しくなっている時代に、「身元調査」は確かに差別といわれるのも当然である。
しかし、家柄や血筋と、家風や伝統は異質のものだ。子供にどのような教育をほどこすかは、
それぞれの家の価値観によって異なる。
(略)
続きます。