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チーム「正田美智子」
正田美智子
1927年 正田きぬ(祖母)がフロジャック神父に洗礼をうける
1934年 美智子、誕生
1941年 雙葉学園小学校に入学
1944年 疎開の為神奈川県乃木高等女学校付属小学校へ転入、
群馬県館林南国民学校へ転入
1945年 長野県 軽井沢第一国民学校 初等科5年に転入
8月、終戦、GHQの占領がはじまる
9月まで在籍、終戦を迎える
1946年 5月 カトリック教徒を妻に持つ吉田茂が首相に
7月 美智子の祖父、正田貞一郎が勅撰で貴族議員に。
1947年 雙葉学園小学校を卒業
1954年10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見
1957年8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」
1958年11月17日 ニューズウイークが皇太子妃決定の配信
「テニスコートの恋」
11月24日 宮内庁公電をもって館林=正田家に通知
11月27日 皇室会議
1959年4月10日 皇太子結婚の儀
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富美と英三郎の長女「正田美智子」。
いかにも白人の血が入っている感じの子供ですね。生涯かわらないはずの耳の形が成人後と違うので、皇太子の妻になった人とは別人のようです。
富美が生んだ長女は中耳炎で亡くなった可能性が高く、そのあと、富美の愛人であり、英三郎の親友の堤康次郎の落胤を背乗りさせた可能性が高かそうです。
すくなくとも、正田富美の長女の幼少時と、成人後の美智子は耳の形が違うので別人と思われます。
背乗りの時期
背乗りの時期的には終戦直前の、正田家のルーツ館林と、堤家が開発した軽井沢を経由して転校を繰り返していた時期が怪しそう。
そして、戦後すぐに計画を立て、「正田美智子」と明仁皇太子のご成婚までレールを引いたのでしょうか。
そのとき「正田美智子」が屋号化され、堤康次郎の複数の落胤たちや、による対皇室チームが結成される運びとなったのかもしれません。
なかには、フロジャック神父の関連施設に保護されていた「正田美智子」に容姿の似通った戦災孤児たちもいたかもしれませんね。
そして「皇太子妃候補」選抜にも、やはりCIAとカトリック系の人たちが関与しています。
すくなくとも「テニスコートの恋」より4年前に皇太子妃は決定していた。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/792.html
■「テニスコートの恋」の真実
1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピットが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇(迪宮裕仁 1901-1989)、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶應義塾塾長を務めた小泉信三(1888-1966)、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田 茂(1878-1967)
(略)
■皇太子妃を巡る暗闘があった
10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888-1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。
この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。
注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。
この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。
(略)
さて、宮内庁次長の瓜生順良(うりゅう のぶよし ?-1957)が、記者会見でお妃問題に対して初めて公式に言及したのは1955年(昭和30)年9月である。
この時、瓜生は「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、出来るだけ広い範囲から選ぶ方針である」と述べている。
1972年発行の『毎日新聞百年史』にも「宮内庁が皇太子妃の本格的選考に入ったのは(昭和)30年頃からである」と書かれている。
しかし、こうした通説が誤りだったことを『吉田 茂書翰(しょかん)』(中央公論社 1994年刊行、加えて『吉田 茂書翰 追補』吉田茂国際基金 2011年刊行)が見事に証明している。
女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」会長で東宮御教育参与を務めていた松平信子(1886-1969)が、皇太子妃は旧皇族または華族から選ぶべきだと主張、愛国団体を動かしての御婚儀反対工作を行うまでしながら、正田美智子(1934-)との結婚に反対していた。
不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。
旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。
吉田茂・小泉信三・松平信子の暗闘
吉田 茂と小泉信三と松平信子の3名は、間違いなくこの対立を知っていた。
吉田からすると、「何故か松平信子に情報が漏れていた」といった感じだったのかも知れない。10日に一度くらいの割合で吉田に会っていた昭和天皇も、当然、知っていたであろう。
何とも不思議な『吉田 茂書翰』はまだ続く。(中略)北白川宮家側に常盤会会長の松平信子や娘の秩父宮妃勢津子(松平節子 1909-1995)がいたことが、この手紙から明らかになる。
吉田自らがこれだけ慌しく動いているところを見ると、恐らく吉田が北白川宮家を訪問した5月2日前後には、皇太子妃が正田美智子に絞られていたと推測される。
そして、この3カ月後に、現在の天皇皇后両陛下は軽井沢で「出会う」ことになる。
結局、それは偶然でも運命でもなく、予(あらかじ)め吉田や小泉は、皇太子妃最有力候補として正田美智子に絞り込み、「テニスコートの恋」のシナリオが綿密に描かれていたのだ。
新聞各紙の中で『吉田 茂書翰』にある小泉信三宛手紙の不思議に気付いて、内容まで紹介していたのは読売新聞だけである。それ(読売)にしても、軽井沢での「運命の日」以前であることの重要性については何一つ言及していない。
三谷隆信宛の手紙に到っては、内容まで紹介した記事は全く無い。数多い研究者も含めて、吉田 茂が皇太子妃選びにまで関与していたことをこれまで見過ごしてきたのだ。
※明仁皇太子妃候補筆頭だった旧宮家の北白川肇子さま。
こうしてシナリオ通りに事が進んでいく中で、もはや北白川宮家側が入り込む余地は無かった。それでも「悲劇の宮家」返上を目指す北白川宮家の情念は凄まじかった。
小泉側に牧野伸顕(まきの のぶあき 1861-1949)の娘婿の吉田がいることに気付いた北白川宮家側は、巻き返しを狙って牧野伸顕の長男・牧野伸通(1889-1941)の夫人で、常盤会の重鎮でもあった牧野純子(1900-1990)を巻き込む。
昭和天皇が父のように慕った牧野伸顕の家を2つに引き裂きながら、北白川宮家から皇太子妃を誕生させようと最後の最後まで粘りに粘る。
しかし、吉田や小泉らが描いた見事なまでのシナリオに屈する。
(転載以上)
「正田家から皇太子妃」シナリオを描いたのは、テニスコートの恋の「4年前」どころか、戦後すぐでしょうね。戦後の占領政策の一つとして「平民」「カトリック」「新平民」の正田家からお妃をだすことは決定していた匂いがありますね。
美智子皇太子妃誕生のキーパーソンたち
・小泉信三
皇太子の教育係りを務めた小泉信三【没後50年を迎える巨匠】|文春写真館|「文藝春秋」写真資料部|本の話WEB
昭和二十四年、皇太子明仁親王の東宮教育参与として、教育係りに就任した。「ジョージ五世伝」などをテキストとして、新しい時代の帝王学を説いた。美智子妃との婚姻に当たって、実質的な仲人をつとめたとされる。
転載以上
wiki 小泉信三
1910年(明治43年)慶應義塾大学部政治科で福田徳三の指導を受け、卒業。慶應義塾の教員となる。
1912年(大正元年9月[1] に研究のためヨーロッパに留学し、イギリス、フランス、ドイツの各大学で学ぶ。イギリスへの留学中、小泉は1913年(大正2年)のウィンブルドン選手権を観戦したことがあり、当時大会4連覇中だったアンソニー・ワイルディングの著書『On the Court and Off』(「テニスコートの内外で」)を日本に送り、大学の後輩たちに硬式テニスを推薦した。
・田中耕太郎最高裁長官
軽井沢のテニスコートで天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒。衰弱激しいフロジャック神父を見舞っている。
1916年(大正5年)に帰国し、慶應義塾大学教授となり、デヴィッド・リカードの経済学を講義する。自由主義を論調とし、共産主義・マルクス経済学に対し徹頭徹尾合理的な批判を加えている。
1933年(昭和8年)には慶應義塾大学塾長に就任する。
1934年(昭和9年)、「リカアドオ」を研究した学位論文で慶應義塾大学より経済学博士。
1943年(昭和18年)帝国学士院会員に選出される。第二次世界大戦が始まると、小泉の一人息子・小泉信吉も出征して戦死。
1945年(昭和20年)の東京大空襲で、焼夷弾の接触により顔面に火傷を負ったため、一時は高橋誠一郎が塾長代理を務めた。
1947年(昭和22年)に塾長を正式に辞任した。
1949年(昭和24年)には東宮御教育常時参与に就任、皇太子明仁親王(現在の天皇)の教育掛として『ジョージ5世伝』や『帝室論』などを講義し、新時代の帝王学を説いた。
1954年(昭和29年)にはコロンビア大学より人文学名誉博士号を贈られる
1959年(昭和34年)11月、文化勲章を受章。
1966年(昭和41年)5月11日、心筋梗塞のため78歳で死去。贈正三位[2]
日本のクリスチャン有名人一覧 – Wikipedia
・小泉信三
こいずみ しんぞう、1888年 – 1966年、経済学者・東宮御教育常時参与)
・木下道雄
昭和天皇の元侍従次長。辞職後、敬虔なカトリック信徒になっていた。洗礼を与えたのはヨゼフ・フロジャック神父。昭和天皇とフロジャック神父を取り持ち、拝謁する運びになった。
・入江侍従長
フロジャック神父とも親しかった、昭和天皇の侍従長。キリスト教徒。
・吉田茂
※正田美智子の祖父貞一郎を貴族議員にした。妻の雪子がカトリック教徒。
吉田茂 wiki
天国泥棒
妻の雪子がカトリックだったこともあり、吉田家は長男の健一を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っていた。1964年(昭和39年)に建設された東京カテドラル聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けている。ただし岳父の牧野伸顕のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼を受けなかった。
それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎に「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたこともあって、濱尾は吉田に死後ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」として天国に送っている[57] [注 10]。
転載以上
正田美智子の宗教がカトリックだと皇太子妃にはなれないので「洗礼はうけていません」と嘘をついて入内しました。虚偽申告をしていたので、結婚は無効。美智子は皇族から外すべきですね。美智子は結婚後も頻繁に教会や母校の聖心へ、夫や子供を連れて通っていたという証言が多く残っています。正田富美はカトリックではない、しかし臨終洗礼をうけたといってますが、どう考えても嘘でしょう。
吉田首相も怪しそうです。
岳父の牧野伸顕のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるために隠していただけなのではないのでしょうか。
天皇家に対する忠誠心があれば、はたして新平民の家から皇太子妃にするという国賊行為に加担できたでしょうか。その準備として正田貞一郎を貴族議員に勅選でねじ込むことなどできたでしょうか。カトリック教徒の家の娘である正田美智子を皇太子妃にというプロジェクトに積極的に参加したでしょうか。
入江侍従長も小泉信三も、一人息子を戦死させています。
その後の皇室観に影響があったのかもしれません。
・フロジャック神父
フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。
「美智子さんも大変だろうね、私も天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね 」
フロジャック神父は後年、「会心の傑作は館林の活動」と言ってたそうです。
しかし、wikiでは館林の活動も正田家との関係も削除されてますね。
フロジャック神父の活動を援助したのが正田きぬ。正田きぬは1927年にフロジャック神父によって洗礼を受けていますね。
館林の正田家との関係や、宮内庁との人脈からみて「ミッチーズ」の結成と「美智子」の選抜に、フロジャック神父が噛んでないはずないと思うのよね。
「美智子さんも大変だろうね、私も天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね 」
この神父さん。なにもかも知ってたんじゃないのかしら。というより、「カトリック教徒の皇太子妃」ミッチーズの企画者の一人だったと思うわ。
もしかしたら、ミッチーズの中には、神父さんに関連する施設にいた浮浪児や孤児もいたかもしれませんね。
・聖心女学院
カトリック系の聖心女学院も、正田美智子の皇太子妃に協力する気満々で、美智子の成績が悪いのにもかかわらず「首席」とし、聖心女学院の世界大会にも行かせ、耳にピアスをし、制服を崩して着るような、米兵とパンパンが出入りする町に入り浸るヤンキー女学生を金ぴかに箔付けをして皇太子妃候補にねじ込みました。
宮内庁のカトリック人脈たちと協力し、正田美智子ありきの皇太子妃選びが始まります。
この点は、モンゴル帝国に献上された貢女の奇氏を出世させるために、宮中や後宮で朝鮮系宦官や官僚が頑張った経緯に似ています。
CIAに協力するクリスチャンの工作員・小泉と、正田富美との関係は皇太子のお妃選び以前からのようです。
続きます。
会いたかった~~