311東日本大震災 

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


※影武者制度、タブーなど、皇室記事一覧

※最近の皇室記事一覧

311・東日本大震災

ゲルから皆様へ

 

2011年3月11日

2万7600人、なお避難 東日本大震災、11日で14年

東北地方沿岸部を中心に甚大な被害をもたらした東日本大震災は、11日で発生から14年を迎えた。(中略) 東日本大震災ではマグニチュード9.0、最大震度7を記録した。警察庁によると、死者は1万5900人、行方不明者は2520人に上る。(中略)11日は岩手、宮城、福島各県で自治体主催の追悼式典が開かれ、地震発生時刻の午後2時46分に関係者が黙とうする。

石破茂首相は福島県主催の追悼式に出席する予定だ。

以上

 

3.11 私のメモを一部公開

はじめ/元自衛官@xxhajixxx

3.11 私のメモを一部公開

私も発災から10時間後現場に向かいました。(一部現場の隊員からの話も織り交ぜています)

記憶に鮮明に残っているのですが、

私の住んでいる地域の

天気はその日 珍しく吹雪でした

すぐ災害派遣準備に取り掛かり

色々準備をして

車、燃料、灯油、ストーブ、簡易ベッド、電池、水、外や、公園で宿泊するための準備、飯、通信機、バッテリー、着替え、指揮所を作るための道具、パソコン、ショベル、衛星機材、救急セット、家族へ連絡はつかないが、そのまま現場へ。

現場付近に、拠点を構え72時間は不眠不休でやり切る。人命救助最優先。

余震が数百回 震度5強は、50回-100回くらいあったと記憶しています。

その度に津波が再び来るのと恐怖を感じながらひたすら人命救助活動をしていたのを覚えています。

寒さと、疲労と、家族と連絡取れていない不安、見たことない景色。

目に焼き付いています。

世界がまるで変わっていて

道路は、途中から無くなっていて、電柱は、倒れてたり、斜めに傾いていたり

運転も一歩間違えると、道路に穴が空いた場所から落ちる。

電線はだらんと、していて、接触したら感電の可能性、人がどこで倒れているか、埋まっているか、犬があらゆる場所で吠えていて、牛や豚も全て道路を走っている、でかい建物?だったものは、ほぼ倒壊、逆に残っている建物に近づきたいがいつ、倒壊するか、二次災害を引き起こすから容易に近づけない。

全てがぐちゃぐちゃ。

常識は通じない

見えない あらゆる危険を予測しながら運転しシャベル一つで、手袋をして おおよそ救助活動と呼べるかわからないけど、一人一人が黙々と作業する

まだ、原発がとか情報がなかったので、防護服なんてないし、雨避け、防寒の雨がっぱを着てひたすら作業。

まずは、人命救助

次は、重機が通れるように道路開放。

感染症予防。不眠不休で働く仲間が倒れたり、まともなご飯なんて食べられないし、水も限りがある。

お風呂なんか入れない

72時間過ぎてからは、何キロにも続く道路を開放するため、人力であらゆるものを運ぶ。

途中、人が(ご遺体)が確認されたから

そこの瓦礫をどかすからと何十回も呼ばれる度に、悔しく、悲しい気持ちになる。

感情の起伏と、作業での疲労しかしやらなければならない使命感。家族の安否。

色々とぐちゃぐちゃにになっていた記憶がある。いま、思い出しただけで

先程の黙祷の時間を迎えた瞬間 フラッシュバックし涙が溢れてくる。記憶が蘇る。

途中の記憶が一部抜け落ちているのですが

次に覚えているのは、タイベックという

全身防護服を来ての作業

その頃には、外気温も27度くらいになっていて、もう暑さや脱水症状との戦いだった記憶がある。

砂埃も凄くて、劣悪な環境だった。

もちろん毎日震度5強の揺れにさらされながら

感覚的には、船に揺られている感覚。

起きて、現場に行き作業して、帰ってきて

次の日の作戦に向け会議。

進捗、担当地域の問題点、重機運用、本日発見されたご遺体の数、次の日の目標、燃料の残量、飯の補給、被災者への支援(水、食料、毛布)←満たされてくると要望がどんどん増えてくる。

最初は、白米の塩おにぎり、汁が飲みたいと、味噌汁提供、水が欲しい、←水を提供、お風呂入りたい、お風呂提供、何か楽しみが欲しい、慰問演奏、しかしその間も、我々は簡易パックの白米おにぎりのみの食事。風呂は、三日に1回。

人的戦闘力の維持のために、戦力回復を計画し、実行できたのは発災後4週間後。

一番辛かったのは、ご遺族を亡くされた

家族さんへご遺体の確認をしていただく際に

1番辛いはずのご家族の方が

『本当にありがとう。見つけてくれてありがとうございます』

と言い終えてから悲しむ姿。

私達は、かける言葉すら見つからなくて

ただ、ただ頭を下げるだけで。

悔しさ、救えなかったと自責の念。

通信機からは、毎日毎日何十人ものご遺体(周りに配慮し、隠語でBODYを略してBと呼んでいた)の発見報告が聞こえてきていた。

数週間が過ぎて、現場にいる最中に

原子力発電所が爆発。

放射能が飛散

現場に、ガイガーカウンターと

個人被曝カウンターを渡され

毎日夜に 紙に記載する。

しかし現場は混乱していて

ガイガーカウンターの使い方がわからない。

被曝に関する知識がない

1,000分の1を意味するミリシーベルト(mSv)、100万分の1を意味するマイクロシーベルト

これが、わからないから

単位を間違える人が続出

正しく測れた人なんて居ないんじゃないかな。

しかし、作業が終わり緊張感と、疲労で帰ってきた所に

ガイガーカウンターの操作もわからない、被爆量の表示の仕方もわかはない。

担当者も知識がない

適当な鉛筆で記載された紙を上へ報告、一定数被爆すると作業に参加できなくなり、人的戦闘力が低下するので、被爆管理は、いじられて(操作されて)いた 文字数…

続きはあるんだけど

なんかなぁ。。。

やっと

最近は、東日本大震災の夢を見なくなった。

でも忘れたわけじゃないからね。

いつか続き載せるよ。

良かったらフォロー宜しくお願いいたします。

※https://x.com/xxhajixxx

※https://x.com/xxhajixxx/status/1767085006315569310

 

水木しげる氏による東日本大震災

ねずみいろの壜詰@84start84

水木しげるが東日本大震災の直後、ニューヨーク・タイムズに依頼されて描いた絵。

賛否はあったが、圧倒的だ。

当時から今に至るまで、さまざまなアーティストが震災関連の作品を描いてきただろうが、僕が覚えているのはこれだけだし、ちょっと忘れようがない。

以上

 

ご冥福をお祈り申し上げます。

 

ニセモノが天皇に即位?