皇室 乙辰の年生まれの秋篠宮文仁親王殿下

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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絶対勝者が終わる年

乙辰の年生まれの秋篠宮文仁親王殿下

みなさま、伏見氏の新刊本、もうお読みになりましたか。

※転載させていただきます

乙辰年生まれとは

絶対勝者が終わる年

285年 ローマ帝国の分割統治開始

535年 この年から、キリスト紀元(西暦)を使い始める。

645年 大化の改新、中大兄皇子、中臣鎌足らによる蘇我氏族滅

1185年 壇ノ浦の戦い、鎌倉幕府成立

1845年 米国テキサス併合、アイルランドでジャガイモ飢饉

1905年 日露戦争、第二次日韓協約

1965年 秋篠宮文仁親王殿下ご誕生

2025年

1月 ドナルド・トランプが米国大統領に就任

5月 7年半続いた黒潮大蛇行が終わった

以上

 

管理人は、「1965年 秋篠宮文仁親王殿下ご誕生」に注目しました。

やはり、皇統が元の北朝に戻るんだな、と。

やはり、文仁親王は、北朝の旧皇族の筋からの養子だったんだな、と。

 

乙辰の年、1965年 秋篠宮文仁親王殿下ご誕生

 

乙辰の年とは、大化の改新で蘇我氏から藤原氏の時代へ、壇ノ浦の戦いで平家から鎌倉幕府成立へ、日露戦争で初めて非白人国家が白人国家に戦争に勝つことで、白人の時代が終わったんですね。絶対勝者が終わる年っぽい。

秋篠宮さまは、蘇我氏、平家、欧州の絶対的な支配体制が終わる乙辰の年にご生誕。ご待遇の粗さから、早くから正田美智子の実子では「ない」といわれてました。

やっぱり、文仁殿下は、偽陸仁天皇(田布施の大室さん)から続いた、イギリスの傀儡王朝「田布施皇統」を終わらせるためにご生誕された親王なんですよ。きっと。

大正天皇の三男高松宮宣仁親王、四男三笠宮崇仁親王と同じく、旧宮家からの養子でしょうね。

「秋篠宮  山階宮」の画像検索結果

幕末、当時、「とりあえず大室を天皇として認めるが、大室の男系が断絶したら北朝に皇統を返す」「そのために北朝の親王を養子にする」という約束があったのだと思う。

 

日本の本当の黒幕(上)』鬼塚英明著より

公卿の三条実美と土方久元(土佐脱藩者)が計画し、中岡慎太郎と坂本龍馬が長州の輝度行員と薩州の西郷隆盛を動かした薩長連合は、大室寅之佑なる者を天皇として新政府を樹立するという密約でもあった。彼らは武士というよりも下層階級、郷士格であって、武家社会で大手を振っていきていける身分ではなかった。「西郷南洲」という芸名は、南朝の菊池氏からきているという。しかし、西郷、大久保利通、樺山資紀、大山巌たちは、鹿児島の加治屋町(現在は鹿児島市加治屋町)という部落で、汚物の処理や清掃、葬式を生業としていた。武士とは名ばかりの、最下層にいる人々であった。

薩長連合は、そうした彼らが長州、薩摩、土佐の大名とは別行動をとったクーデター計画であった。

島津久光は西郷と大久保利通が大室寅之佑を連れてきて、「この男が天皇になります」と告げられた時とき、刀で斬りかかりそうになった。しかし、西郷が「すでに睦仁は死んでおります」と告げたので刀を降ろした。

この逸話は、鹿児島の郷土史家から直接私が聞いた話である。真実だろうと思う。この薩長、そして薩土の秘密連合がクーデターを起こして明治政府が出来上がるのである。大室寅之佑は藩主毛利忠親の知らない間に天皇になっている。いわゆる事後承諾というやつである

(略)

明治の新政府ができてまもなく、十六歳の少年天皇が、我儘をして”元勲”たちのいうことをきかないと、西郷隆盛は「そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ」といってしかりつけた。すると天皇はたちまちおとなしくなったという話が伝えられている

転載以上

 

文仁天皇即位により、明治天皇から続いていた田布施の偽皇統から、維新以前の神武以来続くもとの北朝の皇統に戻るのだと思う

大正天皇の3男宣仁親王

わずか8歳で、有栖川家の財産と祭祀を相続

高松宮宣仁親王

1913年(大正2年)7月6日、大正天皇の第三皇子である光宮宣仁親王を初代として創設された。

高松宮の前身である有栖川宮は、17世紀初頭から続く由緒ある宮家であったが、1913年7月10日、10代威仁親王が嗣子なくして薨去。皇室典範では養子縁組が禁じられていたため、断絶する。

しかしこの時、宮家歴代の功から、大正天皇の特旨により、宣仁親王が有栖川宮家の祭祀を継承、宮家の土地などの財産、そして一部の旧臣(家来)を相続し、有栖川宮の旧称である高松宮を名乗った。また、威仁親王の外孫でもある徳川喜久子が、宣仁親王の妃となった。

宣仁親王に子がいなかったことから、2004年(平成16年)12月18日、喜久子妃の薨去をもって断絶。

 

大正天皇の四男・三笠宮崇仁親王

有栖川家の方々に似ていることからみて、有栖川家からの養子でしょうね。

「有栖川宮 三笠宮 でれでれ草」の画像検索結果

 

平成の明仁天皇の次男・秋篠宮文仁親王

「秋篠宮  山階宮」の画像検索結果

 

虐待に近い環境でお育ちになったけど、立派なお妃をお迎えになり、逆風の中で親王をもうけ

 

悠仁様は成年皇族に。これで、いつでも立太子できる、即位できる、摂政にもなれる。

 

来月9月、悠仁親王殿下は加冠の儀を迎えます。

今年は昭和100年、乙辰の年、

改元にぴったりのタイミング。

期待してるヨ!

 

ニセモノが天皇に即位?