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組織も国も、実際に運営する宰相や家老、役員ではなく、形だけでも代表として書類手続き上のトップにいる人の運気やカルマに連動するそうです。
ニセ南朝の田布施一派が日本を占領した後の、油断すると二極化が進み、支配層や財閥が朝鮮馬賊化する日本をみると、そうかもしれないと思うところがあります。
江戸時代・江戸の残照が残っている時期に来日した外国人たちがみた日本
※抜粋させていただいてます。※画像は管理人が貼ってます
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/edo_sanpu.htm
◎ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫(1994)
――です。
有名な本なので、ご存じの方が多いと思いますが、オロモルフにとって参考になる記述がたくさんありますので、【日本人の長所】を述べている部分をピックアップしてみます。
◎記述1
「地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。
・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。・・・また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行われるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、
・・・飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの(ヨーロッパの)人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。私は日本国民について、あるがままを記述するようにつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらその欠点をあげつらったりはしなかった。」
◎記述2
「このように極端な検査(長崎での持ち物検査)が行われるようになった原因は、オランダ人自身にある。・・・原因にはその上に、数人の愚かな士官が軽率にも日本人に示した無礼な反発、軽蔑、笑いや蔑みといった高慢な態度があげられよう。それによって、日本人はオランダ人に対して憎悪と軽蔑の念を抱くようになり・・・その検閲はより入念により厳格になってきた」
(長崎のオランダ人は、奴隷をたくさん連れてきてこき使っていて素行が悪く、密輸などやりたい放題で、そのため日本側は反感を持ち、必死で検査をしていたという話です)
◎記述3
「日本は一夫一婦制である。また中国のように夫人を家に閉じこめておくようなことはなく、男性と同席したり自由に外出することができるので、路上や家のなかでこの国の女性を観察することは、私にとって難しいことではなかった」
(これは長崎から江戸までどの地方でも同じだったらしいです。江戸時代から明治初期に日本に来た外国人は、日本の女性がシナや朝鮮の女性とはまったく違う扱い――つまり奴隷ではない扱い――を受けていることに驚いた記録を残しています。とくに朝鮮との違いに驚いたらしいです)
以上
※こちらから抜粋させていただいています。
https://thepage.jp/detail/20170612-00000004-wordleaf
ペリーが第二回遠征の際下田に立ち寄ったときも同じように「人々は幸福で満足そうだ」と記述している。
「この土地(筆者注:下田のこと)は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精いっぱいで、装飾的なものに目をむける余裕がないからである。それでも人々は楽しく暮しており、食べたいだけ食べ、着物にも困ってはいない。それに、家屋は清潔で、日当りもよくて気持がよい。世界の如何なる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい
http://www1.kcn.ne.jp/~kawamura/p1103.html
タウゼント・ハリスは貿易商としてインド、東南アジア、中国を6年にわたって経巡ってきた後、1856年初代アメリカ総領事官として来日した。
1856(安政3)年8月に着任したばかりのハリスは、下田近郊の姉崎を訪れ次のような印象を持った。
「姉崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」。
(中略)
ハリスは下田地方の全般的な印象として、
「下田の人々は、楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当たりも良くて気持ちが良い。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりも良い生活を送っているところはあるまい」。
さらに翌年、下田の南西方面に足を踏み込んだときにも、
「私はこれまで、容貌に貧窮をあらわしている人間を一人も見たことがない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきが良い。彼らが十分に食べていないと想像することはいささかも出来ない」。
オールコックは初代イギリス公使を勤めた。
彼の名著「大君の都」は、冷静・現実的・かつバランスの取れた目で日本に接していく姿勢が世界的に評価され、異文化対応の一つの範となっている。
オールコックは1859(安政6)年日本に着任したが、熱海にしばらく滞在した。
「これほど簡素な生活なのに満足している住民は初めて見た。農漁業を営む千四百人の住民中、一生のうちによその土地へ行ったことのあるものは二十人といないそうだ。村民たちは自分たち自身の風習にしたがって、どこから見ても十分に幸福な生活を営んでいる」
「平野だけでなく丘や山に至るまで肥沃でよく耕され、山にはすばらしい手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さにまで伸びている。住民は健康で、裕福で、働き者で元気が良く、そして温和である」
「確かにこれほど広く一般国民が贅沢さを必要としないということは、すべての人々がごくわずかなもので生活できるということである。幸福よりも惨めさの源泉になり、しばしば破滅をもたらすような、自己顕示欲に基づく競争がこの国には存在しない」。
そして彼は、まさに日本に相応しいものとして次の詩句を引用する。「日本人は気楽な暮らしを送り、欲しいものもなければ、余分なものもない」
長崎海軍伝習所の教育隊長で、2年余りを長崎で過ごしたカッテンディーケは、
「日本の農業は完璧に近い。その高いレベルの農業から推察するに、この国の面積は非常に莫大な人口を収容することができる」。オールコック「自分の農地を整然と保つことにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはない」。
ハリス「私は今まで、このような立派な稲、またはこの土地のように良質の米を見たことがない」。
イタリー海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨンは1866(慶応2)年通商条約締結の任を帯びて来日した、
「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国は他にない」
「日本の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階層にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである」
フィッセル、
「上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和」。
「身分の高いものが自分より下級のものと応対するときに役人風をふかすことも、はるかに少ない」。
「上司は下司に対して常に慇懃で穏やかな態度で話しかける」
「日本人は軽蔑や侮辱にきわめて敏感だが、他人を腹立たせたり、他人を気に触ることを避けるために、非常に気を遣う」
ヒュー・フレイザーの妻メアリは、1890(明治23)年鎌倉の海浜で見た網漁の様子をこう書いている。
「美しい眺めです。–青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を伸ばしている。その後ろに夕日の海が、前にはビロードの砂浜があるのです。
さてこれからが子供たちの収穫のときです。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいない哀れな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師たちの周りに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠を差し出すのです。そして食用にふさわしくとも市場に出すほど良くない魚はすべて、この人たちにわたるのです。
・・・物乞いの人に対して決してひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そして物乞いたちも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです」。
以上
そして、国体の中枢である天皇が、最下層の北朝鮮被差別民=大室寅之佑とすり替えられてしましました。
『日本の一番醜い日』 鬼塚英昭
P390
益田勝実は長州の国家老益田弾正の一族である。彼は山口県熊毛郡田布施町麻郷に生まれ、孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、のちに明治天皇となる「てんのうはん」のことを書いている。続ける。
天皇様をおつくり申し上げたのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされたことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたの喪ではなかった。かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和できるうちはよいとして、その矛盾が激化すると・・・・・・激化すると、天皇を取り換えてしまう他なくなる。
わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間が上手くいっていた、密月時代にもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1966年(慶応2)の暮れには、孝明天皇派、謀殺されてしまった。もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではなくい。志士側で、天皇が討幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう、公々然の秘密となっている。
以上
『日本の本当の黒幕(上)』鬼塚英昭著より
公卿の三条実美と土方久元(土佐脱藩者)が計画し、中岡慎太郎と坂本龍馬が長州の輝度行員と薩州の西郷隆盛を動かした薩長連合は、大室寅之佑なる者を天皇として新政府を樹立するという密約でもあった。彼らは武士というよりも下層階級、郷士格であって、武家社会で大手を振っていきていける身分ではなかった。「西郷南洲」という芸名は、南朝の菊池氏からきているという。しかし、西郷、大久保利通、樺山資紀、大山巌たちは、鹿児島の加治屋町(現在は鹿児島市加治屋町)という部落で、汚物の処理や清掃、葬式を生業としていた。武士とは名ばかりの、最下層にいる人々であった。
薩長連合は、そうした彼らが長州、薩摩、土佐の大名とは別行動をとったクーデター計画であった。
島津久光は西郷と大久保利通が大室寅之佑を連れてきて、「この男が天皇になります」と告げられた時とき、刀で斬りかかりそうになった。しかし、西郷が「すでに睦仁は死んでおります」と告げたので刀を降ろした。
この逸話は、鹿児島の郷土史家から直接私が聞いた話である。真実だろうと思う。この薩長、そして薩土の秘密連合がクーデターを起こして明治政府が出来上がるのである。大室寅之佑は藩主毛利忠親の知らない間に天皇になっている。いわゆる事後承諾というやつである
(略)
明治の新政府ができてまもなく、十六歳の少年天皇が、我儘をして”元勲”たちのいうことをきかないと、西郷隆盛は「そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ」といってしかりつけた。すると天皇はたちまちおとなしくなったという話が伝えられている。
転載以上
司馬遼太郎さんも、取材の過程で、このあたりのことは知ってるはずですが、、、。
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日本社会に蔓延した「絶対的な貧困」
『日本のいちばん醜い日』 鬼塚英昭
秘の章 天皇ヒロヒトは南進策をとった
P454
笠原和夫らの『昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫』の一部を紹介した。この本の中に書かれていることに注目したい。
笠原
そう。つまり絶対的な貧困なんですよ。努力して何とかすれば、もう少しいい生活が送れるというものじゃないんですよ、上に天皇制がある以上は!
天皇制があって軍部があって、軍隊に徴兵されちゃいえば何もかも全部パアになっちゃう。そういうものが頭にズシーンとのしかかっている中での貧乏というのは、そう呼んでいいのかわからないけれども絶対的貧乏なんですよ。それが今の人にはわからない。
絓
その「絶対」というものが、おそらく天皇制の絶対制とどこか通じるんだと思うんですよ。
笠原
そうです。通じるんです。で、もうどうにもならないというね。
私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていた過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。
以上
コメント欄より
>>「田布施」は朝鮮浮民の部落であり、そのルーツは匪賊であり、偽物の明治天皇=大室も堤家も、麻生家も、同じ場所から来たんじゃないでしょうか
何となく、上記の事を匂わせる記事が有りました。
「鮫河橋(さめがばし)」で検索してみました。。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/137000/122338/19887602
(参照、一部抜粋↓。)
『四ッ谷駅を出てまっすぐ南に歩く。
5分足らずで迎賓館を含む赤坂御所の広大な土地に至る。鮫河橋坂は赤坂御所の西側に沿うようにして走る坂で、現在新宿区と港区を分かつ境界線でもある。
四ッ谷駅から向かうと鮫河橋坂を下ることになる。下りきった場所が貧民窟が存在していた地点である。
ただ、それを匂わせるものは全く存在していない。おそらくバラック群があったと思われる場所には現在みなみもと町公園という公園がある。公園を道路一本はさんだ場所、最も低い場所に鮫河橋門という古びた門があるが、そこに地図上では皇宮警察という表記がされていて2人の警備員がいた。門は迎賓館に通じているようである。
(中略)
鮫河橋付近にあった貧民窟の大きな特徴は、士官学校があったことともうひとつ、隣接するように赤坂御所があったという点だ。その場所に、江戸時期には徳川家の藩邸があり、明治期には徳川家から皇室に献上された。
現在、赤坂御所には秋篠宮邸、三笠宮崇仁邸、寬仁親王邸があるが、明治期においても皇族の土地の目と鼻の先に貧民がたむろしているのは「きまりが悪かった」のではないかと想像する。』
赤坂御所には、鮫河橋門と言う門があります。
低湿地の貧民窟のそばに、京都から来られたはずのやんごとなき皇族方が、住まわれるのを嫌がられ無かった。
“偽物の明治天皇=大室も堤家、麻生家”にとってはそこは、とても馴染み深い景色だったかもです。
或いは、人が蒸発しても官憲が問題にしない地域で、偽物調達に便利だったのかもしれません。
すみません、もう一つ。
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/d07c7fa9eb4e669999121c4bd0ec0cb7
より、地図です。
若葉地区は貧民窟だったところとの事。
地図右下、東宮御所が隣接。
創価学会本部も隣接。
慶応大学病院も隣接。
東宮御所には、ここの川の水が流れてた(流れてる?)そうでゴミを堰き止める、堰き止め門があったそうです。
湧き水とかならまだしも、
ゴミが浮くような、貧民街を流れる水と同じ川水を御所内に入れてた‥。
本来「不浄」を嫌う方達には有り得ないと思います。
そのあたりの線引きが出来ていないのは、
そこに何の疑問を感じなかった明治皇室の出自が表れているのかもしれません。
もしかして、本当に、皇室劇場の舞台俳優調達地区だったかもしれません。
貧民窟の写真や状況に詳しい記事です。
http://www.tanken.com/hinminkutu.html
この様な風景が、東宮御所のすぐそばにあった事になります。
以上
ありがとうございました。
貧民窟の方々のための、士官学校などの残飯を売る商売があったのは知りませんでした。
東宮御所や、士官学校のまわりに固まって住んでいたのは、残飯を得やすいために固まって住んでいたんでしょうね。
鹿鳴館での舞踏会や、舶来ものに囲まれて優雅に暮らす洋装の皇族華族たちと、貧民窟とのコントラストがグロテスクですね。
共産主義は、結局すべての人民を貧困化させ、文明社会を退化させるという結果がでていますが、この格差の激しい当時、共産主義に感銘を受けた人が多かったのは理解ができます。
維新以前から貧困はありましたが、外人の証言を見ても、さほど身分さがないに等しく、仮に「絶対的な貧困」があったにせよ、それは、例えば、生産性のない被差別部落など、江戸時代ではごく限られた現象だったのではないのでしょうか。
ユダヤ革命=ロシア革命 ユダヤ人ゲットー化したソビエト
http://karapaia.com/archives/52241365.html
1921年~1922年のヴォルガの大飢饉によって、約5百万人が命を落とし、大勢の子どもたちが家庭を失った。莫大な数の子どもたちが棄てられ、あるいは自分から家族を棄てた
.1925年。 ホームレスの子どもたちがトランプで遊んでいる。
以上
話は少しそれますが、ソビエト連邦後のロシアはもとより、併合された後のウクライナなどの国々でも、ソビエト以前よりも貧困が広がり格差は広がりました。
ソビエト時代の衛星国のジョークで
ラジオの質問コーナー
質問「卵と鶏、どちらが先にできたんですか」
司会者「昔はどちらもありましたよ」
サハラ砂漠
赤軍がサハラ砂漠を占領したぞう。その後、どうなったか?
答え 3年たったら砂も不足する。
など、ようは、前よりひどくなったという事です。
ロシア革命は、ユダヤ人による革命だったといわれていますが、革命後は、共産国の支配層の中枢が成り上がりのユダヤ系か、その使用人だったために、国家や社会が支配層に合わせて、ユダヤ人ゲットー化したとおもえば、いろいろと腑に落ちることがあります。
アメリカ人に、我が国のスラムより酷い生活をしているといわしめたのが、ソ連の一般兵士の生活でした。
ユダヤ人は知の王といわれており、知能と霊性においては他民族を圧倒しますが、長年、他国に移住し、その文明に寄生して栄えてきた民族なので、国家運営などのセンスはゼロなのではないかと思うことがあります。
国体の中枢から病んでいく日本の近代
魚は頭から腐る、という諺が欧州にあるそうですが、日本の場合、人工的に無理やり天皇という国体の中枢部が、ひそかに北朝鮮系被差別民に変えられたため、徐々に上層部から朝鮮馬賊の生態や被差別部落の「絶対的貧困」に、染まってきたという感じがします。
財閥も、戦前、米を買い占めたり、戦後は戦後でパナマやスイスなどに税金を払わず、社会貢献もせず、ひたすら資産を隠匿しています。江戸時代から続いている三井にせよ、江戸時代はもっと品位があったような気がしますが、、、、。
日本において天皇制はすなわち国体そのものですが、最下層の朝鮮部落の被差別民が天皇=国体となったので、維新後、油断すると、国と社会が、ほんの一握りの支配層と他は奴隷という、未開な朝鮮半島的な社会=被差別部落化が進んでしまうのかもしれません。
よく明治維新をなしとげ日本を世界列強に押し上げたのは明治帝のおかげ、そして第二次世界大戦後、日本が復活したのは昭和天皇のおかげ、などと洗脳されてきましたが、真実は真逆じゃないでしょうか。偉大だったのは国民であり日本民族です。
ご病弱であっても、正統なる皇統の本物の睦仁親王が即位しても問題はなかったはずです。
本来、天皇には実務能力も政治能力も必要ありませんし、要求も期待もされていません。そうした実務は、維新前は幕府、その前は摂関家、近代以後は、宰相以下、適性のある国民が担うからです。
むしろ、日本史は天皇が政治に介入することで、国が混乱するという法則があります。
日本史は、摂関家や幕府などの行政が、いかにして、「空」の存在たる天皇から権力をむしりとり、祭祀と文化研鑽、そして、皇統をつなぐ繁殖以外はさせないように、封じ込めるかが、政権の長短をきめてきたことが立証されています。封じ込めに成功した平安時代も、江戸時代も、政権が長く続くと平和で民も健やかに栄えていきました。藤原家と徳川家は、天皇家を封じることに成功し勝ち取った成功例といえるとおもいます。
今は民主議会制度ですが、天皇家を封じる人間がいなくなってしまいました。戦前は特高警察が、戦後はマスコミの洗脳で、天皇側が国民を封じています。封じ込めるための批判装置がなくなったため、それゆえに、今の皇室の暴走と、それにともなう国の荒廃という惨事があると思います。
御子が仮になせなくても、睦仁親王など、北朝宮家の男系男子が皇統を継いでいれば、天皇家代々の皇祖たちや、「天照大神の子孫に従うと誓約した日本の神々」の御加護もあり、より日本は健やかに雑音無く繁栄したと思います。
日本民族の災禍を小さくし国運を健やかにするよう祈るべき祭祀王である天皇が、異教徒で外国人であり、敵国工作員であり、かつ犯罪性の高い最下層の賤民ばかりで構成され、彼らはお互いに同種の法則で引き合っては、皇族に化けて寄生し、馬賊のように盗みつつけ、国民をだまし続けながら、偽りの皇統を繋いでいっています。
もういい加減に、勘弁してほしいですね。
早く、国体の中枢である天皇と皇族を、日本人である北朝旧宮家の男系男子に戻し、元の日本に戻るべきです。