皇室|薩長土肥、肥前=佐賀の「タブセ町」⑧お由良騒動の謎

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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続きです。

wikiより

お由羅騒動(おゆらそうどう)は、江戸時代末期(幕末)に薩摩藩(鹿児島藩)で起こったお家騒動。別名は高崎崩れ、嘉永朋党事件。藩主・島津斉興の後継者として側室の子・島津久光を藩主にしようとする一派と嫡子・島津斉彬の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こされた。

後継者争いのため、薩摩藩が2つに割れて争った事件だそうですが、、司馬さんをはじめとする、今までの史観では、

①重豪・斉彬派

正室の子、斉彬公は英明なる君主。藩の希望の光。世襲したときは藩が歓喜に沸いた。まだ若くして惜しくも亡くなったのは残念無念。

斉彬公は若くしてマラリアで亡くなりますが、当時の薩摩の政情からみて、毒殺ではないかという疑惑が根深い。

「こちらが、正当、正義」司馬さんもそう書かれてますね。

 

②斉興・久光派

側室お由良の子。平凡な君主。生母のお由良は、君主の寵をいいことに、己の野心のため、久光公を藩主につかせるため、斉彬公の子女を呪殺した姦婦。

というのが通説になっているようですが、、、、

読者様の疑惑通りに、仮に、島津重豪が、「すり替わり」であるなら、そして、斉彬が重豪の実子であるなら、ちょっと、違った絵が見えてきそうです。

 

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wikiより

事件の名前になったお由羅の方は、江戸の町娘(三田の八百屋、舟宿、大工など多数の説がある)から島津斉興の側室となった人物である。彼女が息子・久光の藩主襲着を謀り、正室出生の斉彬廃嫡を目したことが事件の原因とされる。

しかし、これはただお由羅が望んだだけのことではなく、祖父・重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた斉興や家老・調所広郷などの重臣達の方が久光を後継者にと望んでいたとされる。

彼ら久光擁立派は、重豪同様の「蘭癖大名」と見られていた斉彬がこの頃ようやく黒字化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていたのである。

それに対し、斉彬の早期の家督相続を希望していた勢力もある。壮年の斉彬にいつまで経っても家督相続せず倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する阿部正弘である。

琉球を実効支配し、外洋にも面していた薩摩藩はこの当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれる事が多々あった。このため、西洋の事情に疎い斉興より海外事情に明るい斉彬の藩主襲封が望まれたのである。

 

薩摩藩の対立

①重豪&斉彬・グローバル派

「壮年の斉彬にいつまで経っても家督相続せず倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する阿部正弘である。」

もちろん、若手下級武士とは、鬼塚氏の検証通り「武士とは名ばかり」の「葬儀や汚れ仕事を引き受けていた、高麗町出身の朝鮮被差別部落」に代々住む、西郷隆盛たちを含む一派も含んでのことでしょう。

 

②久光・薩摩ナショナリスト派

「祖父・重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた斉興や家老・調所広郷などの重臣達の方が久光を後継者にと望んでいたとされる。

彼ら久光擁立派は、重豪同様の「蘭癖大名」と見られていた斉彬がこの頃ようやく黒字化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていたのである。」

 

家系図どおりに、斉興と斉彬が父子の関係であったとしても、対立の根幹は、のちのちの展開から逆算してみても、①重豪・斉彬=グローバル派と、②久光公=薩摩ナショナリスト派、の対立であり、それに、古くから外資が介入していた可能性は高いと思います。

8代目藩主となったのが疑惑の重豪、その長男が9代目斉宣。

9代目藩主・島津斉宣

安永2年12月6日、

第8代藩主・島津重豪の長男として江戸で生まれる。母は中納言堤代長の娘。

1787年1月

父・重豪の隠居により、家督を継いで第9代藩主となった。

しかし実権は父・重豪に掌握されていた。

1805年12月

『亀鶴問答』を著し藩政改革の方針を示したが、父・重豪との主導権争いが激化し、さらに薩摩藩の財政改革問題などから内紛(近思録崩れ)が起こる。

1809年6月

斉宣は重豪より近思録崩れの責任を問われ、長男の斉興に家督を譲らされて強制隠居させられた。

1841年10月

江戸の薩摩藩下屋敷にて死去。享年69。

・国学で有名な高山彦九郎と親交があった。

・江戸に重豪、斉宣の2人の隠居を抱える薩摩藩の出費は莫大なもので、斉宣は経費が少なくて済む薩摩での隠居を度々幕府に願い出たが却下される。そのため隠居後は一度も薩摩に帰国出来なかった。

・父・重豪が孫・斉興に出した手紙で「問題があった時、江戸にいる時には奥平昌高(斉宣の弟)に相談し、国元にいる時には島津忠厚(斉宣の弟)に相談するように」とあり、藩政からは徹底的に排除された模様である

代々、隠居した前藩主による「院政」みたいな状態が続いていたようです。

重いので別けます。

⑨へ続きます。

 

ニセモノが天皇に即位?