父・大正天皇、貞明皇后と牧野宮内相・クエーカー派のクーデター
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大正天皇を「新聞の飛ばし記事」「宮内庁の発表」で「御病状は重篤」との印象操作をもって、大正天皇を廃位にちかい状態においやり駆逐した一人が、宮内大臣の牧野伸顕でした。
平成の生前退位や、眞子様婚約のプロセスと驚くほどよく似ています。
牧野の娘の夫が吉田茂、
吉田の娘が産んだ子供が、元首相の麻生太郎と三笠宮信子妃殿下です。
そして、牧野は麻生元首相と、三笠宮信子妃の曽祖父にあたります。牧野の父が大久保利通。
大久保こそは、孝明天皇と睦仁親王を殺い奉り、朝鮮部落民の大室を睦仁親王とすり替えて明治天皇をつくった人です。
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『日本の本当の黒幕(上)』鬼塚英明著より
公卿の三条実美と土方久元(土佐脱藩者)が計画し、中岡慎太郎と坂本龍馬が長州の輝度行員と薩州の西郷隆盛を動かした薩長連合は、大室寅之佑なる者を天皇として新政府を樹立するという密約でもあった。
彼らは武士というよりも下層階級、郷士格であって、武家社会で大手を振っていきていける身分ではなかった。「西郷南洲」という芸名は、南朝の菊池氏からきているという。しかし、西郷、大久保利通、樺山資紀、大山巌たちは、鹿児島の加治屋町(現在は鹿児島市加治屋町)という部落で、汚物の処理や清掃、葬式を生業としていた。武士とは名ばかりの、最下層にいる人々であった。
薩長連合は、そうした彼らが長州、薩摩、土佐の大名とは別行動をとったクーデター計画であった。
島津久光は西郷と大久保利通が大室寅之佑を連れてきて、「この男が天皇になります」と告げられた時とき、刀で斬りかかりそうになった。しかし、西郷が「すでに睦仁は死んでおります」と告げたので刀を降ろした。
この逸話は、鹿児島の郷土史家から直接私が聞いた話である。真実だろうと思う。この薩長、そして薩土の秘密連合がクーデターを起こして明治政府が出来上がるのである。大室寅之佑は藩主毛利忠親の知らない間に天皇になっている。いわりゅる事後承諾というやつである
(略)
明治の新政府ができてまもなく、十六歳の少年天皇が、我儘をして”元勲”たちのいうことをきかないと、西郷隆盛は「そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ」といってしかりつけた。すると天皇はたちまちおとなしくなったという話が伝えられている。
転載以上
この大久保からはじまり、麻生太郎、三笠宮信子につながる系譜は、キリスト教徒の系譜であり、国際金融同盟の使用人の系譜であり、おそらくはルーツは北朝鮮系被差別部落からでたと思われる筋金入りの陰謀の家系とおもわれます。
こちらで取り上げています。
この牧野を父のように慕っていたのが昭和天皇でした。
父のように慕っていた牧野が辞職したとき、昭和天皇はそれを惜しみ涙を流したそうです。
父のような存在であると同時に、巨大な陰謀の共犯者同士の関係だったといえるのかもしれません。
牧野と貞明との関係について、鬼塚史観では「2人は親密な男女の関係であり、クエーカー教徒つながりの仲」と推測しています。
『日本の本当の黒幕(上)』鬼塚英昭から抜粋してまとめると、、
・牧野は明治4年、11歳の時、岩倉遺外使節団に同行して渡米した。
・同行者に、2歳年上の利俊、9歳の津田梅子、一つ年上の山川捨松がいた。
・山川捨松は、結婚後、大山姓となり、正体不明の九条節子(学習院の名簿に名前がない)を皇太子妃にするため活躍した人です。
・牧野はハドソン川流域のピークスキルという小さな町の幼年学校に入学、フィラデルフィアの西フィラデルフィア中学校に入学。
「フィラデルフィアはクエーカー宗徒の平和主義的な気分が強く、そこにいたのでアメリカは非常に平和的なピューリタン主義な国だという印象を受けた」(牧野の回想録)
・明治17年に渡米した三島弥太郎は牧野が入学した西フィラデルフィア中学校に入学、マサチューセッツ農科大学にに進学、キリスト教信者(クエーカー教徒)になった。牧野は三島弥太郎の妹の峯子と明治20年結婚した。
・マントア アカデミーに三年半在後、ほかの学校に入学したと思われる。
・明治7年秋に帰国。
・牧野は、文部大臣のとき、クエーカー教徒であり、クエーカーを日本に広めた新渡戸稲造を一高の校長に任命した。
P160
貞明皇后がクエーカー教徒として、その師としての牧野伸顕を尊敬していたのではないのか。そこから、大正天皇の権力を2人して奪おうとしたのではないのだろうか。
・関谷貞三郎について
・大正10年、牧野に強く押されて宮内次官になる。
・妻の衣子は日本聖公会聖アンドレ教会信徒。
・長男正彦は日本聖公会司祭として活躍。一次クエーカーとして普連土(フレンド)学園の校長を務めた。
・秩父宮妃勢津子は秩父宮と結婚する前に、ワシントン市内のアイ・ストリートにある私立のフレンド・スクール(クエーカーの学校)に通学。
・勢津子の父松平元駐米大使の前任者の息子の紹介であり、勢津子のフレンド・スクール入学にはクエーカーの外交官澤田節蔵の影響があった。
・澤田節蔵の妻は、大山巌の息子でイタリア大使となった大山綱介の長女・美代子。おそらくは帰国後は双葉女学院に学びカトリック信徒になっている。
・澤田節蔵の弟の廉三も日本キリスト教鳥取教会のクリスチャン外交官。妻は岩崎久弥の長女美喜。この縁談は加藤高明(元外相)が成立させた。
・加藤高明の妻は岩崎弥太郎の長女春路。
・昭和2年、樺山愛輔は貞明皇后に依頼され、ワシントンへゆき、駐米大使松平(会津藩主松平容保の4男)の娘の勢津子を秩父宮の妻にするため縁談の話をする。
貞明皇后と牧野宮内相・クエーカー派のクーデター
そつなく公務をこなす大正天皇
大正10年10月05日 四竃考輔の『侍従武官日記』
日本の本当の黒幕』鬼塚英昭 P153~
※画像は管理人が貼っています。
聖上陛下は海軍御通常礼服にて右覆奏を聞し召され、また午後平沼大審院長、鈴木健二総長の信認に臨御あらせらる。
是等の儀式新聞に発表ありたるを以て、昨日世人をして恐縮措く能わざらしめたる御容態発表の件も、大に其の危惧を解きえたるものの如し。宮中には天機奉伺者陸続参内せり。
右の文章を読んで読者は牧野伸顕宮内大臣をどのように思うであろうか。間違いなく大正天皇は正常だった。しかし、牧野伸顕は内閣総理大臣・子爵高橋是清とともに、大正天皇を追い込み、11月25日、「朕恒紀に亘るの疾患により大政を親らすこと能わざるを以て、皇室会日および枢密顧問の儀を得て、皇太子裕仁親王摂政に任ず」とするのである。これに対し、四竃考輔は次のように『日記』(11月25日)に記している。
嗚呼、なんたる発表ぞ。昨日までは叡慮文武の聖上と其の御聖徳を頌しつつ、今日俄然比の発表あり。宮内省の言う所、信を措くに由なしと世の攻撃ある場合、宮内大臣はいかなる釈明をなして世に謝するを得るべきか。
転載以上
1か月後の脳病の大正天皇 唯々アーアーと切り目切り目に仰せられ
大正10年11月20日の『牧野伸顕日記』
日本の本当の黒幕』鬼塚英昭 P161~
※画像は管理人が貼っています。
大正10(1921)年11月20日の日記は引用した。これと同じ時期、11月22日の『牧野伸顕日記』から引用する。
帰途内府を尾と訪い登城を依頼し、同伴聖上へ拝謁。
内府より、御容態 捗々しからず、此上は尚一層御静養を必要とするに付政務は皇太子殿下、摂政としてご代理遊ばさるることとし、今後は何等御煩い不被在(あらせられず)、御気儘にご養生あそばさるる様願上度し(ねがいあげたし)、幸いご回復被為在(あらせられ)るときは元のごとく御親裁あそばるる次第なり、此事については皇族方もご心配遊ばされ、夫々(それぞれ)適当の手続きをお調べ相成、皇族会議をお開きになり、次いで枢密顧問の会議も開くことに進むる事と致度(いたしたく)、まことに恐縮限りなき事ながら此段申上御許を願い奉る旨言上にお呼びたるに、聖上陛下には唯々アーアーと切り目切り目に仰せられ御点頭(てんとう)あそばされたあり。
本当に「唯々アーアーと切り目切り目」に、大正天皇は「仰せられ」たのであろうか。
10月5日にはまったく正常の天皇がいた。急にまた、脳病の身になったのだろうか。大正天皇が崩御する大正15年のなかでこのことは詳述する。
転載以上
節子皇后と牧野宮内相 「御落涙あそばされる」
同年同月23日 牧野伸顕の『日記』
日本の本当の黒幕』鬼塚英昭 P162~
※画像は管理人が貼っています。
出勤。皇后陛下へ拝謁。浜尾辞表のことを言上。多年御信任の事とて暫くご沈黙。何等おお言葉なく落涙遊ばさる。乍然(しかしながら)無言の御態度は却ってご聡明を伺い奉る。恐縮の至りなり。
陛下は稍々(やや)御落附き遊ばされたる後、皇太子殿下の尚大(なおおおい)にご修得を要せさせらるる事共を御話あり。
今後十分御助け申し上ぐべきことの多々あることをご指摘あり。よろしく頼むとの仰せあり。
故元田の明治天皇に捧げたる誠忠の臣は飽くまで御信任になり、厚く御用い遊ばされ、みだりにほかの中傷等に御迷い不被為在様(あらせられざるよう)申し上げている点にありと存ずる旨申上げ置きたり。
この牧野伸顕と貞明皇后は通常の仲ではなく、それまでも頻繁に会っていた様子が見える。文中、「何ら御言葉なくご落涙あそばさる」に注目したい。
貞明皇后は牧野伸顕に完全に心を許している。自然にこみあげてくる感情をストレートに牧野に伝えている。
牧野伸顕の同年11月5日の『日記』にもこの「御落涙」がみえる。11月4日、原首相が東京駅頭で狙撃されたが、その翌日、牧野伸顕は貞明皇后に会っている。
此日皇后陛下に拝謁。此度の出来事に付御機嫌を伺う。いつもながらのご聡明に奉驚。
陛下御仰せに、腹は何つもにこにこして能くあの様の襟度を保てるものと考え居たり。日常容易ならざる心配重なりたらんに実に珍しき人なりし、と御落涙ながらの御言葉を拝聴したり。
ここでも「御落涙ながらの御言葉を拝聴したり」とある。
皇后が宮内大臣の前でみだりに涙を流すべきではないだろう。この光景は異常である。
この二人は頻繁に会っている。貞明皇后は涙を流したり、大正天皇への”ぐち”をこれでもかと牧野伸顕に伝えている。牧野伸顕は当たり前のように貞明の私情を書き連ねている。
この二人の関係をこれ以上書かないことにする。この二人に何があったかは読者が判断すればいい。
ただ、私見を述べれば、貞明皇后の牧野伸顕への限りなき恋情がみえる、と。
転載以上
拒否の意志を示そうとしていた大正天皇
25日四竃考輔日記
日本の本当の黒幕』鬼塚英昭 P163~
ところが、侍従武官・四竃考輔の25日の日記には、次のような件がある。
此日、正親町(実正)侍従長は御前に罷り出て、摂政殿下に捧ぐべきを以て、御用の印籠(可聞、覧の御印のある)御下げを願いたるに、流石に聖上には快く御渡しなく、一度はこれを拒まれたりと漏れ承る。誠に恐縮の至り成り。
其の後まもなく、侍従武官長御前に出たるに「先ほど侍従長に此処にありし印をもちされり」と仰せありし由なり何とも申し上ぐるに言葉を知らず。
天皇は、病状が悪化する中で、なんとか拒否の意志を示そうとしていた。
四竃考輔の日記から推測すれば、天皇が牧野や松方の前で漏らした「アーアー」という言葉や、松方を呼び止めた言葉も牧野の解釈したように、ただ意味もわからず関係のないことを発していたと受け止めることはできなくなる。
天皇派全く逆に、もはや言葉の自由が利かない状況の中で、精いっぱいの抵抗の姿勢をみせていたからこそ、正親町は印籠を勝手に持ち出したのではないか。
朝香宮や山県らの不安は、じつは当たっていたのではないだろうか。
(略)
あれほど大正天皇を嫌った山県有朋さえ、大正天皇の代理、すなわち摂政をおくということを恐れていた。
私は牧野伸顕と貞明皇后の2人が、内府こと、内大臣松方正義を仲間にいれて大正天皇を追放したとみる。
転載以上
大正天皇は、仮に話せなくなっていたとしても、理性も知性も失ってはいなかったことがわかります。
もう一度転載させていただきます。
コメント欄より(一部抜粋)
もう一点。
その他の戦前でも早世された宮様、或いは“気の病”とされた宮様、が結構たくさんいらっしゃいました。
大蔵省を調べてましたら、戦前の専売局は大蔵省の管轄で、要するに、税収以外に自分達で富を生み出してました。
台湾統治運営や、日本本土にもたらした富のひとつに、防虫剤でも使われる『樟脳』の専売がありました。
樟脳は、プラスチックが発明されるまで、セルロイドの主原料のひとつとして、世界中に輸出されてたようです。
この『樟脳』ですが、、
wiki
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%9F%E8%84%B3
(参照)
《樟脳は皮膚から容易に吸収され、そのときにメントールと同じような清涼感をもたらし、わずかに局部麻酔のような働きがある。
しかし、飲み込んだ場合には有毒であり、発作・精神錯乱・炎症および神経と筋肉の障害の原因になりうる。
有毒物質を飲み込んでしまった際の応急処置として、消化器保護のため牛乳を飲ませる事があるが、樟脳は脂溶性であり牛乳に含まれる乳脂肪分との作用で体内に吸収され易くなってしまうため、樟脳誤飲に対して牛乳を飲ませることは禁忌である。》
突然亡くなられた方達や、気の病になられた方達の症状によく似てる‥‥気がします。
また、樟脳は心臓のカンフル剤でもあったようです。
と言う事は、量を間違えれば、心臓発作をおこせるのでは?と思います。
アヘンのルートを探っていたら、違うモノに、「あれっ?」
て感じです。
以上
続きます。