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秩父宮雍仁親王⑦父・大正天皇の死と柳原愛子(下)

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続きです。

柳原愛子の正体

昔の読んだ本のなかに、増上寺の改修にしたがい、納められている貴人の遺体、徳川7代目徳川家継の生母月光院、徳川家茂、徳川家茂に降嫁した和宮などの遺骨を検証したときの記録と写真が記載されていました。

徳川家茂は虫歯だらけで、実際に甘党だったらしく、京都で病床に伏したとき、正室の和宮からは葛、砂糖などの甘いものが見舞いとしておくられていたのがわかっています。

印象的だったのは、日本の貴族の顔のテンプレが決まっていたことですね。

・顔の幅が狭い、面長な顔立ち、

・鼻根がたかく鼻が高く通っている、

・顎が後退しがちで、奥歯の機能が劣化している(柔らかいものばかり食べるため)、

偽物すり替え説もある和宮の頭蓋骨と奥歯の劣化ぐあいをみるに、すくなくとも頭蓋骨の主は、代々貴族であった証だろうとのことでしたね。

初代の家康は肖像画をみるかぎり丸顔のおっちゃんでしたが、だんだん、地位が安定し貴族かするにしたがって徳川宗家も面変わりをし、将軍家の方々も徳川時代も後期になると、公卿のように、顔の幅が狭く、鼻が高く、顎が後退しているお公家さんの顔になってきていた、というのがわかり面白かったです。

左は孝明天皇、右は14代将軍徳川家茂。

 

左は伏見宮貞愛親王妃で有栖川宮幟仁親王の四女。出雲に嫁いだ女王さんにちょっと似ている気もします。

右は昭憲皇太后(一条美子)、肖像写真だとおもわれるので、どれだけ現実の皇太后にちかいかはわかりませんが、特徴は押さえて描いているはず。

 

7代将軍の生母月光院の頭蓋骨の鼻根は西洋人なみに高かったそうです。写真でみましたが、たしかに鼻根が高く盛り上がってましたね。

平民の出身でしたが、当時の美人の基準価値を抑えてた顔だったのでしょう。

天然痘で25歳で亡くなった家定の最初の正室の鷹司氏の頭蓋骨も、顔の幅が狭く、鼻根が西洋人波に高く盛り上がっていて、大変な美人だったのが頭蓋骨から伺えました。

顔の幅が狭く、顔がたてに長い長方形の形をしていて、浮世絵で書かれていた当時の美人そのまんまの頭蓋骨でした。

そういう形の美人がこのまれて権力者の寵を得て、子供を産んだんでしょう。

皇女和宮も、徳川家茂の頭蓋骨は、双方、同じように顔の幅が狭く鼻が高くとおっていて、、、という顔だったので、血縁関係はなかったでしょうが、風貌は夫婦で似ていたと思います。

 

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岩倉具視

岩倉具視。公家とされていますが、、、ほんとに公卿だったでしょうか。

岩倉とは関係ありませんが、当時の公家の慣習として3歳くらいまでは里子に出す習慣がありました。すり替えは簡単だったでしょうね。

 

貞明皇后の正体

貞明が、九条家の姫ではなく、中国人、朱貞明だったというのが妙に本当臭いのは、その気質や性質もさることながら、日本の貴族とはかけ離れた顔なんですね。この方。

この方も、身長の違う貞明が確認されるので、2人いる可能性があるのですが、、、

同じ人でしょうか

 

貞明皇后が中国人説

疑惑の一つが、貞明皇后が中国人ではなかったのかという疑惑ですが、そうかもしれないと思わせるエピソードがあります。

日本は大陸を開拓して投資し、満州国を世界一の工業地帯にしました。この満州国の皇帝として、清王朝の末である愛新覚羅溥儀をたてました。そして、満州の実権は日本が握りました。

満州皇帝溥儀の立場を、傀儡にされた皇帝とするか立憲君主とするかは微妙ですが、溥儀は不満をいだいてたようです。

愛新覚羅溥儀が日本に来たとき日本の皇族が歓待しました。このとき、貞明は息子と年齢の近い溥儀を、わが子のようにかわいがったそうです。秩父宮などの実子が、「おたあさまは、われわれより溥儀さんのほうが気があうようですから」と皮肉られるくらいでした。

溥儀には英国人の家庭教師がついていましたし、貞明皇后も英語が話せたと思います。たぶん。

しかし、貞明皇后が溥儀に自分は中国人であることを告げ、中国語を流ちょうに話すことができたゆえに、貞明と溥儀の2人の関係が母子のように親密になったのかもしれないと想像できます。あくまで想像です。

溥儀は日本が降伏したあと日本への亡命を希望し、弟の妻であった嵯峨侯爵家の令嬢の浩(ひろ)にも、「日本に亡命したい、皇太后に会いたい」と言っていたそうです。浩さんは、普段から溥儀が母のように貞明を非常に慕っていたことを著書のなかで触れています。溥儀は日本人が嫌いでした。が、貞明を100%信頼していました。それは、同じ中国語を話す中国人だったからではないでしょうか。

 

【皇室】朱貞明(貞明皇后)の朱姓と秘密結社・洪門と浩宮

 

 

柳原愛子

そして、大正天皇の生母・柳原愛子、、カメラ目線でメンチを切る公家の姫って考えられませんけどね。

丸いですね。顔。貴族のなかでもいろんな顔があるであろうことはわかるのですが、妙にカメラ目線なのが、今日の皇室コンパニオンに通じるものがある気がします。

wikiでは昭和天皇に風貌が伝えられていて、、、なんてことが書いてましたが、似ていません。

この方、公家の娘ではなく、貞明皇后=中国人・朱貞明と同じく、「千代田遊郭」出身で、出自ロンタリングして女官になったのではと想像しています。

正体不明の貞明皇后が皇太子妃になってから、ずっとサポートしたのがこの柳原愛子だったそうですが、柳原愛子がなくなるとき、愛子の手を握って、

「私がこれまでこれたのは、あなたのおかげ、、、」

と貞明が感謝していたそうです。一方では貞明皇后は、九条家の生母とされている母親の死去に関しては無感動無関心だったそうで、つまるところ、学習院の名簿に名前のない九条節子=貞明は九条家とは他人だったようです。

柳原愛子と貞明との綿密な連携と愛情がうかがえるエピソードが数多く残っていますが、その根幹は、病弱な大正天皇と皇室を支え合った仲間、そして姑と嫁の愛というより、同じ立ち位置から来て、同じ役割をし、同じ罪を背負う仲間だったからかな、と。あくまで想像ですが。

 

2人の大正天皇?

大正天皇も身長と顔の違う2人の大正天皇が確認されますが、

 

頭脳明晰な毒を飲まされていた大隈顔の大正天皇は左の①②③のかた、「羸弱で脳病」の傾向があったのは、右の大室顔の➃の人で⑤は肖像画ではないかな、と。

➃の人は、かなり前に亡くなっていたのではないかな、、、と。柳原愛子が産んだ子供は➃の人かもしれないな、、と。

そして、最後に「大正天皇」として亡くなったのは、①②③のひとではないかな、と。あくまで想像ですが。

 

貞明皇后の美談の一つに、大正天皇の病気がおもくなったので、「特別に」生母の柳原愛子を呼び寄せてあげた、やっと禁じられていた母子の体面がかなった、という美談になっていますが、素朴な疑問として、維新以後、慣例を次々に破ってきたのが維新後の皇室でした。天皇に生母が会おうとおもえば、会えるようにすることは可能だったんじゃないのかと思うんですが。

明治天皇は一度だけ、「生母」中山慶子に会ってますが、孝明天皇を暗殺し、息子の睦仁親王を殺して成り済ましている男との対面は、散々たるものだったと想像できます。中山慶子の墓には皇族の誰も詣でていません。このことから、明治天皇は中山慶子の実子ではなく、今の皇統もだれも中山慶子の子孫はいなかっただろうと思われます。明治帝が「生母」と、会わなかったのは、慣例のせいではなかったでしょう。

 

鬼塚史観による大正天皇の人生

どちらの大正天皇かはわかりませんが、漢詩を巧みにし繊細な感性をもった大正天皇が憧憬した美人は、鍋島伊都子、のちの梨本宮伊都子妃でした。

自由に妃がえらべるのなら、鍋島家の伊都子を皇后にしたでしょう。大正天皇が、結婚する直前に、鍋島伊都子を訪ね、連れてきた猟犬2匹を与えたとか、昔読んだ本で、そういう記載があったのを、ちょっと今、資料が探せませんが記憶しています。

しかし、妻として押し付けられた女性は、正体不明で性格がきつくて醜い、淫乱な中国女である朱貞明でした。

妻が産んだ長男の実父は、自らの同級生で友人だった西園寺八郎。妻にも友人にも、裏切られ続けます。

妻が産んだ子供(高松宮は有栖川宮家からの養子、三笠宮もそうだったかもしれません)を可愛がるも、親王たちは自らの実父と派閥をつくり大正天皇には冷酷でした。

冷酷どころか、長男は、皇后と宮内相と手を組み、大正天皇に「脳病」というレッテルを貼り、ついにはクーデターをもおこして廃帝同然に放逐します。

 

大正天皇は、毒を飲まされて話せなくなっても意識も知性もさえていましたので、牧野に対して貞明が垂れる自分に対する愚痴や罵倒も聞こえていたでしょう。

当時の事情を知る方の証言で、貞明皇后は堕胎した経験があったとされています。大正天皇が「ご病気」あるいは「崩御後」の妊娠だったと思われます。陵にある土饅頭が堕胎した子供のためのそれだとか。さらには、男児を出産もしており、戦後、寺崎太郎は「皇太后の息子」のための就職を頼まれていたことがわかっています。

 

大正天皇が、聡明な昭憲皇太后を実母と思いお慕いしてたけれど、実は柳原愛子が実母だと知ってショックをうけたことは有名な話ですね。

「あってはならないことだ、」と連呼していたとか。

睦仁親王の正妃・昭憲皇太后こそは、貴女中の貴女でした。しかし生母は柳原愛子でした。

大正天皇を介護し看取った柳原愛子と、介護を受けながら看取られながら崩御した大正天皇のと関係は、本当に実の母子だったかは、管理人にはよくわかりません。

いずれにせよ、柳原愛子の献身的な介護もむなしく、大正天皇の崩御となるのですが、、、

仮に鬼塚氏の検証が正しかったとして、はたして、大正天皇に毒を盛り続けたのは誰だったのでしょうか。

最後のひと押しをしたのは誰だったのでしょうか。

謎です。

 

るんるんるん

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4 件のコメント

  • 昭憲皇太后のお写真と比較されてます伏見宮貞愛親王妃利子様は、尾張徳川家へ輿入れされる予定が、藩主が18歳で夭折された為、伏見宮貞愛親王とのご結婚になられた方です。
    また、明治天皇の女御にと検討されていた方でもあります。
    多分、公家の子女としてご聡明だったと思われますが、
    第二子が1歳半で夭折してから、精神が錯乱気味になられました。
    ご長男の邦芳王(くにかおう)は、幼年時代はごく普通のお子様で、大正天皇の遊び友達でもあったようです。
    邦芳王は陸軍幼年学校時代は正常でしたが、北白川宮・能久親王が台湾で戦病死したあたりから精神に異常をきたし、父・貞愛親王の嫡1子として伏見宮を継ぐはずだったが「不治ノ疾病ノ故ヲ以テ」退き、兄で庶1子の博恭王が華頂宮から復籍して宮家を継ぐことになったそうです。
    http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssr/5h1/ha324001.html
    なので、有栖川宮家系統に、気の病のおそれ有り、、と言われるようになりました。

    しかし、精神が安定してない方を、尾張徳川家が婚約させるかなぁと。
    一時期は明治天皇の女御候補にもなってますし。
    邦芳王も、大正天皇の遊び相手に選ばれているし。

    史実に書かれてある通りかもしれませんし、
    含みのあるエピソードが残されているのは、周囲も釈然としなかったのかな‥‥と思ったりしてます。

    • ありがとうございます。
      皇族に化けて御所に住み着いていた方々の存在を考えると、幕末の睦仁親王や和宮の身体的疾患(小児麻痺)や、有栖川宮家の気の病、の要因は遺伝的なものではなく、人為的なものでは、、と思ってしまいますね。
      気の病に関しては、アラモードさんの推測の一つにありました樟脳などの薬物によるものではないかと考えてしまいます。
      大正天皇や秩父宮の死因も釈然としないものがありますね。

      • でれでれ草様、ご返信有難うございます。
        樟脳誤飲の症状。(成人で2㌘が致死量)
        【症状の概要】  摂取後5~90分以内に突然痙攣。吸入や経皮でも中毒症状が発現。
        6~8時間観察して症状が出なければ中毒の心配なし
         中枢神経 頭痛 めまい 興奮 錯乱 譫妄 幻覚 振せん てんかん様痙攣 意識障害 昏睡
         瞳孔      *
         呼吸器     呼吸抑制 呼吸不全
         循環器     ショック 頻脈
         消化器     口腔・咽喉部灼熱感 悪心 嘔吐
         電解質・代謝  *
         肝       *
         腎・泌尿器   *
         体温      *
         皮膚      皮膚の紅潮
         神経・筋    筋反射増大

        少量投与されていたとして、中毒になったら、
        経皮・吸入からも悪心・幻覚・てんかんの様な痙攣、他の症状が発現するとの事。

        最初は、大正天皇の煙草のエピソードから、阿片かしらと思ったのですが、
        大陸を調べていると、台湾統治とも関連性が高く、
        台湾統治の財源に産物の専売があり、、、。
        幕末期の1855年には、台湾の樟脳と生産とヨーロッパへの輸出に英国商人が関与していた事、
        薩摩で樟脳生産が奨励されていた事などから、
        「もしかして?」と思った次第です。
        http://www.celluloidhouse.com/salon2.htm
        ただし、中毒になったら、呼気や尿から樟脳臭がするそうです。

        NHKで放送されている「猫のシッポ・カエルの手」に出演されている英国貴族出身のベニシアさんや、
        浦沢直樹氏の漫画「マスター・キートン」で知りましたが、
        英国貴族にとって、ミントは大切な香りの様です。
        (知識はこれ2件しかないので、違ってたらすみません!)
        メンソールタバコを調べてみたら、やはり英国が最初。

        カンフル剤が注射でなく、経口でもOKなのかがまだわかりませんが、
        ミント(メンソール)の味のするものを口にして
        違和感ないのは、英国の生活習慣だなぁ、
        これって本当は中世ヨーロッパあたりでは、別の意味があったんじゃ‥‥(暗殺とか?)と、
        すみません、これについては私の妄想です。

        • ありがとうございます。
          転載させていただいてます。
          御推察通り、大正天皇の場合は、樟脳でズバリではないかな、、と思いました。
          昔の大名は、家臣が大名に拝謁するとき平伏してましたし、限られた人にしか顔を見せませんでしたから、すり替えも暗殺も、案外簡単だったのかな、と今になって思いました。
          立憲君主制の形をとっていたにせよ、明治以降から敗戦までは、もろに天皇親政で、天皇の個人的な考えがそのまま政治、外交、軍事にたいしてストレートに影響していたことに驚きます。
          大正が長く続いたら、太平洋戦争はなかったかも、と、短命だったのが残念です。

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