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秩父宮殿下について、wikiや出版された本などをざっとみて、管理人が、一番先に気になったのが秩父宮の遺言と葬儀なんですね。
秩父宮雍仁親王(wikiより抜粋)
遺言
薨去に先立ち遺書をしたためており、その中で「遺体を解剖に附すこと」、「火葬にすること」、「葬式は如何なる宗教にもよらない形式とすること」を指示していた。勢津子妃が勅許を求めたところ、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許可、皇族としては異例の病理解剖が行われた。
葬儀
1月12日、皇族として最低限の神道形式で行われ、皇族・各国大使・スポーツ関係者ら800人が参列した。
その後、無宗教での一般告別式が行われ、2万5000名あまりの市民が秩父宮の遺体に拝礼した。その後、午後1時から火葬された(皇族の埋葬は土葬が基本)。
遺骨は、同日午後4時20分に、豊島岡墓地の比翼塚形式の簡素な墓に愛用の品々とともに埋葬された。
この葬儀に、昭和天皇は出席しなかった。これは天皇が親王など「目下」の者の葬儀に出席した前例がなく、皇室喪儀令(廃止されたが、基準となっている)にも規定がないため、天皇が出席することで仰々しくなり秩父宮の遺志に副わないとの懸念から、出席を断念したものである。
ただし、天皇・皇后は何度も、遺骸と会いに行った上で、翌13日には墓参に訪れている。また秩父宮存命時の見舞いも、天皇が見舞うのは危篤の場合のみという前例から、結局果たせなかった。
42年後の1995年(平成7年)8月25日に、勢津子妃の薨去により秩父宮家は絶家となった。
以上
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いうまでもなく、秩父宮殿下は、神道の祭祀王である天皇家の皇位継承権を持ち、当然、生前は神道の祭祀にも参加したはずで、立場上は究極の公人である皇族でした。
結局、宮内庁は、皇族の葬儀として最低限のアリバイは確保しつつも、一切、宗教や神を介在させないという故人の意志を尊重したようにみえます。気のせいかもしれませんが。
無宗教もひとつの宗教であり、無神論もひとつの信仰
「勢津子妃が勅許を求めたところ、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許可、皇族としては異例の病理解剖が行われた。」
国民からみると、いくら本人や未亡人が希望していても、莫大な血税とおびただしい犠牲をもって維持されてきた天皇制の頂点にいちする皇族です。天皇家、および皇族の権威の損失につながりかねない葬儀や病理解剖を許可する昭和天皇もどうかと思うんですけどね。
生前、究極の公人として特権を享受してきた皇族が、「何が何でも、一人の人間としてあつかってほしい」といい、その平等性のたかい思想をあらわすためなのか、最後の最後で国民と同じところに降りてくるのは、勘違いであり我がままだと思います。権威が虚像であっても、あるいは仮に異教にひそかに改宗してても、日本の国体の構造をささえる階層と、階層のトップに位置するものとして、その権威に殉ずるべきではないのかなと。
いまさらながら、当時から皇族や宮内庁は、日本人ならもっている「穢れ」の観念や公人と私人との線引きの観念が欠落していたんでしょうか。
維新後、「便利だから」「大きいから」という理由で、軽々と、格下の将軍家の居住地であった江戸城を「皇居」にして住み着き、戦後は「便利だから」として、即位式も東京でやるという偽皇統ですから、不思議はないのかもしれませんが。
秩父宮の母上の貞明さんが会津閥でかつクエーカー教徒、妃の勢津子妃さんが旧会津藩主のお血筋で、最愛の息子である秩父宮の妃として貞明が見初めて決めたということは、勢津子妃殿下が、貞明さんとおなじクリスチャンの可能性もあるとおもいます。
クリスチャンに囲まれた秩父宮さんが、ひそかに洗礼を受け、薨去直後にキリスト教的な簡単な秘儀と葬儀をしたあとに、ご遺体を宮内庁がひきうけて、それなりの葬儀にした可能性もあるかと思いましたが、生前の秩父宮には、あんまり、クリスチャンの匂いがしない感じなんですね。
むしろ仏像をもって「これは石である」といいきった、知能と行動の天才・織田信長のニヒリズムに違いものがあると思います。
生前の宗教観や神との関係、死後の世界に関する観念は、その人の葬儀のありかたに現れるんじゃないかとかんがえると、秩父宮さまは、無神論者か無宗教者か、それに近かったのかな、、と。
なんとなくですが、無神論者で社会主義者だったというアインシュタイン博士と被りました。
アインシュタイン博士の葬儀
http://www.osohshiki.jp/column/article/68/
アインシュタインの遺体はプリンストンにある葬儀場へと運ばれ、
本人と親しかった12人が集まって短い葬儀を行いました。
その後遺骨は散骨されましたが、
参拝者が訪れることを防ぐために場所は公表されていなかったようです。
これらの葬儀様式に関しては、アインシュタイン本人の強い希望によるものでした。以上
最近は、少人数の家族葬、遺骨の散骨は珍しくなくなりましたが、アインシュタイン博士が亡くなったのは、1955年でした。なんだかんだで、まだ保守的なキリスト教の影響の強いアメリカのこの時代での散骨は、珍しかったんではないでしょうか。「生き物は死んだら物体である」という考えは科学者には珍しくないのかもしれませんが。
秩父宮さまの場合は「現人神」の一族であり、継承権をもち、神族として扱われてきた皇族です。自らの権威を否定して、死後、遺体を病理解剖にするよう強く望み遺言し、遺族が「強い意志」で実行する。
秩父宮さまにおかれましては、よほど、皇族として、自らの身分の神聖さをあえて否定する意志と、なんらかの信仰がないとできないんじゃないかと思うんですが、秩父宮は、無神論者か、それに近いお考えの方だったのかな、、、と、思ったりしまいた。はい。
『日本の一番醜い日』鬼塚英昭 P375 ~
私には、松浦総三のような「斬れば血が出る体験的天皇批判」を書くべき”体験”がない。しかし、私は別の意味で””精神的体験談をもとうと努力してきた。私は”天皇タブーを見続けて平成の世を生きている。私はこの”天皇タブー”を撃つべくこの本を書いているのである。
転載以上
次回からは、鬼塚史観のフィルターを通して秩父宮さまをはじめ貞明さんの息子たちをみてみることにしましょ。
史実の点をつないでいくと、明治大帝・維新神話とおなじく、聖帝裕仁天皇神話とはちがう絵が完成します。
いたわりと愛を感じます