皇室|薩長土肥、肥前=佐賀の「タブセ町」⑥そして島津家

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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本日もお越しいただきありがとうございます。

・薩長土肥の薩長肥は「タブセ」つながり。土佐は、外資系つながりで協力し合った。

・イルミちゃんの資金と技術協力により、朝鮮系、あるいは白人との混血児が工作員となってい動いた。

・朝鮮系+被差別民による「皇統簒奪」「階級革命」「日本乗っ取り」でである「明治維新」をやってのけた。

のかな、と。

 

やはり、外資系の介入による維新は仕上げであり、その活動はかなり前、江戸時代から始まっていたと思います。

そして、本番の維新(密かに天皇殺しとすり替え国を乗っ取る)のリハーサルとして、プレ維新があったと思うんですね。

かなり前に戴いたコメントですが、掲載するタイミングを逃したままになっていました。掲載させていただきます。

いつもキレキレのコメントを戴きありがとうございます。御礼申し上げます。

 

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コメント欄より

でれでれ草様。記事に書かれていらっしゃる内容とは関係無い事柄なので、公開・非公開はお任せ致します。

今現在、様々に画策されている事柄等は、誰かが急に思いついたり、裏組織の独創的な一か八か的な計画であったり、、、では無いと、多分にお考えであると思います。

いくつかの試験的行為をした上で、実行する側が、まるで会社での日常業務を遂行する様に、確実に成功するフローチャートにのっとって動いているのだと思います。

江戸末期・明治初期の福岡藩黒田家を調べていて、薩摩藩島津家の藩主・島津重豪(しまづ・しげひで)が、そもそもの始まりではないか‥と感じております。

学校で習った近現代日本史は、私が知らなかっただけかもですが、本当に上っ面だったようです。

『蘭癖(らんぺき)』と言う言葉からです。

蘭癖

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E7%99%96(Wikipediaから参照↓)

「鎖国」等と同様に、明治以降になって普及した後に、それ以前の「蘭癖」的人物もこの語で形容されるようになったものであろう。

吉雄耕牛・平賀源内・大槻玄沢らは、オーストリア領オランダ(ネーデルラント連邦共和国)が滅亡した1795年正月に、オランダ正月と呼ばれる太陽暦で祝う正月行事等の西洋式習俗を恒例行事としてスタートし、欧州にオランダが存在しない事を日本国内で隠し続けた。

そして、蘭癖の上級武士は、雇い主を失ったオランダ商館の存続を偽装し、さらには滅亡したオランダ国旗をアメリカ船に掲げさせて入港させ、オランダ国が存在しない期間、他の日本人を欺いて日蘭貿易を偽装した(詳しくは黒船来航を参照)。

このような蘭癖の存続と拡大は、オランダ商館長と最も密接な関係にあった島津重豪(しげひで)の画策を助けた。

その画策とは、オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフ著『日本回想録』によると、娘を将軍の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようというもの[1]。

【蘭癖大名の分布としては、主に九州の外様大名が多い。これはオランダに開かれた港・長崎が近く、蘭書や輸入品の入手が容易だったことと無縁ではないだろう。その点、関東に所領を持つ譜代大名の堀田正睦はかなり例外的である。

このような蘭癖大名の典型例として知られる代表的な人物として、シーボルトと直接交流のあった長崎警固を勤めた福岡藩主の黒田斉清や薩摩藩主・島津重豪が挙げられる。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬もまた、重豪の影響を受けたためかそれぞれ蘭癖大名と称されるほどであった。】

(参照終わり。)

 

まずは、長崎のオランダ貿易のオランダ東インド会社が、1795年のオランダ連邦共和国滅亡の後、解散しているのに、それを隠していたのが日本人側だった事が驚きでした。

そしてキーパーソンの島津藩主重豪(しげひで)

島津藩主・重豪

老いてますます盛んな重豪は、曾孫の島津斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。なお重豪は斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。

ちなみに重豪は、ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。

会見したシーボルトは、「重豪公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。

天保3年(1832年)夏から病に倒れ、天保4年(1833年)1月、江戸高輪邸大奥寝所にて89歳という長寿をもって大往生を遂げた

 

“シーボルトは、「重豪(しげひで)公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。”

この、島津重豪(しげひで)のWikipediaに出ている単語・人名を検索してみたら、この島津重豪(しげひで)「ものすごく若すぎ」記述はあちこちにあります。また、若干、出自がはっきりしてないようです。(両親共に早死。)

美智子さんの様に複数の島津重豪(しげひで)がいたか、途中で誰かと入れ替わった感があります。

性豪で、側室も多く、とりあえず数えたら庶子男女26人はいましたが、奥平昌高は、重豪(しげひで)の息子が養子に入り、大分県中津藩藩主になりました。『蘭癖(らんぺき)』検索にも、出てきますが、昌高は、オランダネームまで持ってました。

 

また、中津藩は福沢諭吉の出身地です。

黒田長溥は、同じく重豪(しげひで)の息子が福岡藩へ養子縁組。同じく蘭癖(らんぺき)です。

黒田長溥

http://nagaoka.blog.jp/archives/2308384.html

海防の見張り所を置き、志賀島など10カ所に砲台を急造して自家製の大砲を据え、守りを固めた。軍艦も大小130余隻をそろえ、これに大砲を積んで“無敵艦隊”を編成した。ところが、相次ぐ軍備拡充で兵隊が足りない。目をつけたのが無給で使える農民だ。かり集めてにわか兵士に仕立て、連日大砲射撃の猛訓練を始めた。

 

島津家や、島津家から養子に行った福岡藩黒田家は、財政苦しい中、精錬所や近代軍隊を編成、訓練をしてました。その為、藩の武道師範・指南役の多くが職を失いました。そして多分、

“相次ぐ軍備拡充で兵隊が足りない。目をつけたのが無給で使える農民だ。かり集めてにわか兵士に仕立て、連日大砲射撃の猛訓練を始めた。”

とあるように、これが、先祖を遡れない“下級藩士”なのではないでしょうか。

財政逼迫で、石高も上げたいのに、農村にそんなに余剰人員がいるはずもなく、、近代軍隊のにわか兵士は、剣道の心得が無くてもなれるので、被差別部落民が多かったのでは、と想像します。

多分佐賀県鍋島藩ほか、外国からの脅威を感じて(表向き)近代軍備に走った諸藩は多かったのではと思います。

これを(表向き)としたのかは、多分、来るべき体制大転換に備えて、確実に江戸幕府を倒す為に国内有志を武装させておこうと、海外プランナーがそそのかしたと思ってます。

また、このブログ記事の下の方に、戦後、恨みに思っていた人達から、福岡市千代にある黒田家の墓が荒らされたとありますが、そこには、トタン屋根に石を乗せた住宅が広がる、「明日のジョー的」風景・世界が最近まで残ってました。

続きます。重いので別けます。

ニセモノが天皇に即位?