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皇室|薩長土肥、肥前=佐賀の「タブセ町」⑦そして疑惑の藩主・重豪

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コメント欄より 続き

曾孫の島津斉彬は、、、その可愛がり様から、本当は島津重豪(しげひで)の息子ではないか‥‥と思います。

69歳になっても子を成したとありますし。

 

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そしてWikipedia他、参考文献にありますが、

ヨーロッパ人から見た島津重豪(しげひで)wiki

オランダ商館長であったイサーク・ティチングの日本についての情報収集に貢献していた事が、フランスの博物学者で旅行家のシャンパンティユ・コシーニュ著「ベンガル航海記」に記載され、オランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。

そこには、将軍の義父がティチング氏と始終文通を行い、ティチング氏の目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある[5]。

島津重豪は、娘を将軍の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようと企てていることが、オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフ著『日本回想録』に記されている】

 

島津重豪(しげひで)、ほぼほぼ、売国スパイ活動に思えます。

時の将軍・徳川家斉の正室の茂姫(広大院)も島津重豪の娘。(でも、母親は家臣の武家のお手伝いさん)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2

検索の枝葉を進めると、、陰謀を感じますが、島津重豪(しげひで)一人のアイデアでは無いと感じます。プランナーがいて、仕込まれてる感じです。

 

後に、久邇宮家に俔子(ちかこ)妃が島津家から嫁ぎ、良子(ながこ)様がお生まれになりました。

鹿児島県の方々や誇り高い歴史をおとしめる意味ではなく、突然変異的な島津重豪(しまづしげひで)は島津家らしくない感じです。

薩摩藩は他国人や国境警備に厳しいところと思ってましたら、重豪(しげひで)がどんどん他国人を入れ、女も他国からどんどん嫁にもらえとか、急にちょっとあり得ない政策を取っています。まるで竹中平蔵のようです。

その後の調所広郷笑左衛門(ずしょひろさとしょうざえもん)の藩財政立て直し策、、も竹中平蔵っぽいです。

英米は、まず、九州の諸藩の背乗り→乗っ取りをしていたのではと思います。

西郷隆盛も二人説がありませんでしたか??

長い長い戦いのようです。

今になって、出口わ王仁三郎氏の日月神事の言葉が理解出来ました。

以上

 

ありがとうございました。

当時の藩主の場合、直接拝謁し、声が聴くことのできる人間が限られていましたので、側近と大奥の一部だけを抑えれば、クーデターやすり替えは簡単だったと思われます。さらに、皇族、公家の場合里子にだすという慣習があるので、すり替えは簡単だったでしょう。

いちおう公家となっていますが、風貌といい、性格といい、怪しいのが岩倉具視。

背乗りした京都担当の工作員じゃないでしょうか。そして、島津重豪の娘、広大院。

wiki

広大院(こうだいいん、安永2年6月18日(1773年8月6日) – 天保15年11月10日(1844年12月19日))は、江戸幕府の11代将軍・徳川家斉の正室(御台所)。

実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方(慈光院))。

市田氏は薩摩藩大坂蔵屋敷の足軽から下級武士階級に昇進したとされるが異説もある。

養父は近衛経熙。実名は寧姫、篤姫、茂姫。後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかったものである。弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に敬姫(奥平昌男婚約者)がいる。

直接関係のない話ですが、将軍の正室となった広大院の顔ですが肖像画では、顔の幅の狭い、鼻根が高い、顔として書かれていますが、管理人が昔読んだ本では、増上寺の改築時に、遺骨の検証をしたところ、丸顔で非常に眼の大きい女性だったことがわかってます。

印象としては、公家顔というより、ハーフ顔でしたね。遺骨から見て、「宮沢りえに似た人だったのかな」と思った記憶があります。もちろん、薩摩の方は風貌が南方系で、目が大きく丸い顔の方が多いので、薩摩顔ともいえると思うのですが。

ただ、当時の美人の基準は、浮世絵の美人画や、歌舞伎役者のように、顔の幅が狭く、鼻筋が長く高く通り、目の細い女性でした。

多くの貴種が、そういう風貌の女性を好み、そういう顔の女性を母として生まれる場合が多かったせいだと思いますが、6代将軍の側室で7代将軍の生母の月光院、そして、14代将軍と和宮夫妻の遺骨からうかがえる風貌は、みな、兄弟のように酷似していました。高貴な方々は、食事の関係から、顎が後退している場合が多かったようですが、広大院のアゴは、後退していなかったように記憶しています。

 

幕末の島津家で御家騒動がありましたが、見方を変えると、全然ちがった風景が見えてきますね。

続きます。

 

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1 個のコメント

  • derederegusa さま

    更新ありがとうございます。
    朝晩の寒暖差が激しくなりましたね。
    体調にお気をつけてくださいませ。

    さて島津家は、もともと鎌倉幕府から任命されて現在の宮崎県都城市に島津荘という荘園を管理していたのが、南九州での歴史の始まりです。
    それ以前は、越前に島津家がありました。
    幕末で西郷隆盛とツノ突き合わせていたことで有名な島津藩主の国父 島津久光(生麦事件で西洋人が横切ったのはこのかたの大名行列)が治めていた重富郷には、越前島津家から移ってきた方たちの墓が大切に守られています。

    島津家は「暗君なし」と呼ばわれる家系で、島津義弘(関ヶ原の戦いで、家康の本陣に向かって敵中突破した大将)の時代には九州を平定する一歩手前で、秀吉に阻まれ従うしかなかったという歴史もあります。

    特に江戸時代は外様大名として扱われ、悔しさと無念さを長年にわたり持ち続けてきたと思われます。

    数年前の某局大河ドラマ「天璋院篤姫」がヒットした頃、島津家を知りたいと思い少し歴史書を読んだことがありました。

    特筆すべきは、「島津重豪」が特に長生きしてしていたこと。
    徳川家との繋がりを強化するために、たくさんの子どもや孫たちを養子や嫁入りさせ、全国に広がるネットワークを作っていたこと。
    驚愕した記憶があります。

    「江戸の仇を長崎で」という諺がありますが、その後の歴史的な動きを見ると、「もしかしてこれって『関ヶ原の仇を明治維新で』ということだったんじゃないのー?」とつくづく思いました。

    自分は鹿児島生まれの鹿児島育ちですけれども、derederegusaさまの記事で鹿児島が貶められたなどとは、全く感じておりません。

    島津重豪も島津斉彬も、薩摩藩の藩主ではありますが、江戸に生まれて江戸で育っています。
    「入り鉄砲と出女」に注視していた時代ですから、藩主の妻や妾と子どもは江戸で人質暮らしが当たり前のこと。
    薩摩の国への御国入りは、藩主になってからです。

    一年おきの参勤交代には、莫大な費用がかかるうえ、蘭癖と呼ばわれていた藩主は金遣いが荒いために、家来たちも評価が分かれていたようです。

    鹿児島市の仙巌園は、島津氏の別邸で現在の大河ドラマにもロケで使用されました。
    見学に行くと、島津斉彬の時代の日本の先進的な産業革命の名残りを感じます。

    お金を湯水のように使ってんだーと肌で感じます。

    その金の出所はというと、琉球を支配下に置いた密貿易、奄美の黒糖地獄、藩内の農民は生かさず殺さず米を納めさせる…そして、調所広郷の借金踏み倒しか?とも思わせるほどの財政再建策。

    薩摩七十七万石と言われども、七十七万石の石高は元々無かったというのが定説です。

    誰かのシナリオに沿って、誰かの利益のために都合よく歴史はつくられてきた…否定できません。

    今更ながら、目から鱗が剥がれ落ちた気分です。

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