美智子皇后の真実②皇太子妃時代、
いじめにあう「可哀想な」美智子様
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皇太子妃時代
1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚、明治以降初めての民間出身の皇太子妃となる。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まり、皇太子および同妃を熱烈に祝福した。
第二次世界大戦が終わったあと、 新たな「目に見えない」戦争が始まりました。
アメリカとの戦いのように、倒すか倒されるか、ではなく、日本というアイデンティティを持ちこたえるか、内部から溶解され食いつぶされるかの戦いでした。
病に似ています。
体内に入り込んだビールスが、中枢を狙って進み寄生し支配し違う波動で人間の体を違うものにしてしまうのを防ぐ守りの戦いに似ています。
日本の中心部の皇室には、戦前から、すでに多数のカトリック、左翼、解放同盟とかかわる人たち、また、かつてのGHQにつながる人たちが跋扈して、美智子さんをバックアップしていました。
入江侍従長、明仁さんの教育責任者の小泉信三、北白川女官長はもとより、徳仁親王の侍従であった浜尾さんもカトリックでした。
やり方は朝鮮が中国の王朝を食いつぶしたのと同じ方法ですね。
・中国皇帝の後宮に宦官をまず送り込んで、宮中で勢力を確保する。
・その後、貢女を送りこみ、全力でバックアップして后妃に押し上げる。
・ライバルはつぶす。
・真に中国帝国のことを思う国士は、皇帝の権力でもって獄死させ潰す。
中国という巨大な帝国を支配し、乗っ取り私物化するためには、皇帝一人をおさえれば、いいだけの話。
なんども、同じパターンで中国の帝国は弱体化し、白蟻みたいに食い尽くされた家屋のように倒れました。
日本も、いま、おんなじことされていますね。
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晴れがましいご成婚のパレード・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の“お嬢様”がいたことなどの理由から、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからも一挙手一投足に至るまで非難され続けたが、一切の反論をしなかった。
「本人の口からは公表しなった」
が、週刊誌、マスコミを使って被害者と加害者をすりかえて、気に入らない相手をバッシングするのが、一貫した美智子さまの方法です。
松平女史や牧野女官長が、
「美智子さんが、皇太子さまの負担になってはいけない」
ということで、宮中のしきたりや作法を、お教えするも反抗する美智子さん。
松平女史
「わかったわよ。すべてが。母親の冨美さん、上海育ちだったので、彼女は大陸夫人です。だからよ。」
宮妃が、美智子さまの御帽子のゆがみを直して差し上げても、すぐにもとに戻してしまう。衣装の約束事が一切守れない。自己中心的な美意識とこだわりがあるらしく、それにそって行動するのでマナー違反が続き、海外王族とのお付き合いにも障りが出始めるのね。
サッシュが素肌にかかるのはルール違反なのに、もろたすき掛け。
ティアラに着物
英国王太子の結婚式に、白いドレスに白いベール付き帽子をつけての参列。
「めだってよかった」とデザイナーをねぎらう。
皇室に泥を塗り恥をぬりつづけた「お美しい美智子様」でした。
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一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる、東久邇成子より自宅のホームパーティーに招かれるなど、好意的な旧皇族も存在した。
成子さまが、5人の御子さまをのこして病を得て崩御されたのは36歳。
戦後、宮家や華族が零落て経済的な困難がきわまり、お庭に御芋をうえても、うまくいかない、とかたられてた成子さま。
49日もしないうちに、明仁皇太子一家は、笑顔で軽井沢へ出発。
※雅子様大好き様よりお借りしてます。
http://masakosamalove.blog.fc2.com/
さらには、入江侍従長の記録によると、第一皇女を喪って悲しみに沈んていたご静養中の両陛下を、「つまらないことで」文句を言うために、押しかけてきて、がみがみ文句を言ったのは美智子さま。
昭和天皇は「わかった」とだけおおせになり、皇后は沈黙したままだったという。
上のお写真は、経済的に困窮してた長姉をよそに、贅沢三昧にくらしているさまが、よくわかるお写真ですね。
そして、成子さまの三回忌。
一人だけ和装で参加。
週刊誌に「肩を落とされた美智子さまが印象的だった」とかかせています。
演技、カメラの前で演技すること、タレント化した皇族です。
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またパレードの際にも暴漢が馬車を襲撃して取り押さえられる事件が起こるなどもあって苦難の日々が続いたが、皇太子および同妃は努めて献身的に公務をこなした。
これも不思議な事件ですね。お酒を飲んでよっぱらった男性がパレードに闖入したのですが、警備が機能していなかったのが謎です。
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このような状況にあって、皇太子明仁親王の弟宮にあたる常陸宮正仁親王は常に美智子妃を庇い、よき相談相手だった。
弟宮の妃には平民からむかえるべきって、明仁皇太子を使って、昭和陛下に言わせたのは、美智子さまでした。
候補には味の素の社長の娘があがっていたとか。粉屋の次は味の素かと、反対派は罵倒したそうな。
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そして、1960年(昭和35年)2月23日に第一男子浩宮徳仁親王が誕生した。
出産後、昭和天皇、香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」とねぎらいの言葉をかけられた。
宮内庁病院で、午後4時15分に男児を出産。
・予定日より8日早い。
・2540グラム、身長47センチ。
・標準より少し小さい。
・ 徳仁さまは、促進剤を入れて御誕生。
たいてい、こういう処置がとられるのは、予定日を過ぎても出産の気配がないから、という理由が多いと思うのだけど、もしかして、本当の出産予定日は、とっくにすぎてたので、無理やり出したのではありませんでしょうか。
きになるのは、美智子さまの、御里帰りは頻繁で最初の年で10回を超えること。
5月の初旬が最初の御里帰りの日ですね。
2月23日から、受精日は逆算すると5月の半ば。でももっと早い段階で受精した場合は、2月23日だと育ちすぎてい時期なのかも?
お忍びで、お出かけになったことも、しょっちゅうらしいですね。
そのなかでのご懐妊です。
正田家は美智子以外の人はみな長身が多いのですが、実物の徳仁親王を見たかたによると、徳仁親王は150㎝そこそこの身長で、高く見積もっても155センチくらいだそうです。
そして、成人した親王はなぜか朝鮮人に似てます。
本来の顔、は天皇家の誰にも似ていない徳仁親王。
でも、美智子さまと親しかった新聞記者に似ているのが不思議です。
佐伯氏の歯並びを治すと、徳仁さんと似た顔になりますね。
下の画像の左側の徳仁さんは耳が低い位置にある徳仁さんです。佐伯氏の歯並びをきちんとすると15歳の皇太子に似ています。
複数の徳仁さんがおり、ダブルを含めて、御成人まえは3人、御成人後は新たに2人確認されています。
※「皇太子の影武者」で検証しています。
同じ時期に2人のナルちゃん。2人の美智子。
上)徳仁1号・佐伯徳仁、下)徳仁2号・入江徳仁
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また、浩宮徳仁の命名は昭和天皇が行った。
祖父・昭和天皇が浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)と命名した。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。
疑問に思いますよね。
なぜ、将来の天皇になる親王に「徳」という漢字を与えたんだろうと、普通はありえない感じなのですが。
皇室において「徳」という名前は「怨」を封じる「呪」に値します。
猪瀬氏の逆転の日本史に詳しいのだけど、「徳」と言う字がついた天皇、上皇というのは、祟り神になりかねないくらい、無念のうちに亡くなった方たちばかりです。
そして、子孫も絶えます。
徳のつく皇族天皇たち
聖徳太子
推古天皇の皇太子及び摂政。
622年に斑鳩宮で倒れて2月22日に薨去。
諡号が聖徳太子。生前時は厩戸皇子と呼ばれていた。
太子の死後、その皇子である山背大兄王は一族もろとも蘇我入鹿によって滅ぼされた。
孝徳天皇
大化の改新後に即位した天皇。
皇太子を中大兄皇子に定めてた。
遷都をめぐって、皇太子と対立が深く、皇太子をはじめ、皇族たちは、勝手に倭京へ遷都してしまう。皇后も兄の中大兄皇子についていってしまい、置いてけぼりにされてしまう。
失意の中、白雉5年10月10日(654年11月24日)に崩御。
孝徳天皇の皇子である有馬皇子は、658年、中大兄皇子によって謀反の疑いで絞首刑に処された。
称徳天皇
聖武天皇の内親王。
即位後、退位して孝謙上皇を称するが、淳仁天皇を廃して重祚。
769年、寵愛する僧侶の道鏡に皇位を譲ろうとしたが、和気清麻呂に阻まれて失敗した(宇佐八幡宮神託事件)
770年8月4日に病気で崩御。
病気回復を願う祈祷が行われた記録がないことから、医療行為を施されず見殺しにされた可能性が高い。独身であったので、お子様はない。
文徳天皇
842年、承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父藤原良房にも推され代わりに立太子。
850年、仁明天皇の譲位により即位。
寵姫の生んだ第一皇子・惟喬親王を皇太子にしたかったが、即位するにあたって功績のあった藤原良房の娘の生んだ惟仁親王を皇太子にする。
藤原良房との葛藤が続き、嵯峨上皇の離宮だった冷然院などに居住し、以後、引きこもる。寵愛する惟喬親王を皇太子にする条件で、皇太子に譲位する運動をするも、858年、突然に崩御。暗殺説の噂が高い。
崇徳天皇
鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、崇徳に譲位を迫り、体仁親王を即位させた(近衛天皇)。
その後、1156年の保元の乱に破れ、讃岐に配流。
同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房のみ。
舌を噛み切って写本に
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向(えこう)す」
と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉ような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。
配流8年後の1164年8月26日、46歳で崩御。
安徳天皇
父は高倉天皇で、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)。
祖父は、平清盛。
生後まもなく立太子。2歳で即位。
政治の実権は清盛が握った。
1185年の壇ノ浦の戦いで平氏の滅亡と共に入水。短い生涯を閉じた。
順徳天皇
1200年4月に立太子。
1210年11月土御門天皇の譲位を受けて即位。
後鳥羽上皇の討幕計画に参画。
1221年5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗。
乱後の7月21日、佐渡へ配流。
在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御。
以上
死後、祟りが強いものだから、恐れて諡号擦る問う感じが普通だったようです。
「徳」という諡号は、無念になくなった天皇、上皇、たちが祟り神になり、その怨念を封じるための、懐柔するための、呪の字としてつかわれいたはず。天皇である、昭和天皇が知らないはずないわけで、あえて、選んだのはナゼ??
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親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。
美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのような時でも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。
語っただけで実行していないません。
皇太子の姉が亡くなっても、ご静養。
飛行機が落ちても、火山が噴火しても、ご静養。
何があっても御静養。
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同年9月22日 – 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待された。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。
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1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ。
1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同月中旬の美智子妃の生い立ちを書いた女性週刊誌連載の小説に絡む小説問題が起こった直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、翌23日の午後に流産の処置手術が行われた。
初夜の秘儀のことなど、皇室の人でないと知らない内容が書かれていたため、大問題になりました。だれかが、伝統や秘儀をリークしないと書けない小説だったそうです。
流すのは、美智子さん以外になくて、非難ごうごう。窮地にたたされた美智子さん。
生涯に置いて、美智子さんを助けてくれたのは、いつも、ご病気。
ときには仮病を使うんだけど、このときは、第二子をご懐妊したものの、胎児に奇形がみつかり掻把の手術をすることになりました。
手術で人工的に胎児を掻把したのだけど、バッシングによるストレスによる流産という印象を定着させるのに成功した美智子さん。
奇形とストレスは関係ないのに、大衆の同情をあつめて、まんまと被害者になり切り静養に逃避成功。
もちろん、週刊誌に情報を流したこともチャラ。
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その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった。
7月上旬から皇太子・浩宮とともに軽井沢で過ごした後、9月1日に帰京し、9月13日の山口国体から、段階的に公務に復帰した。
なお、根拠のない中傷に対して一切非難することなく沈黙を守り、その気品ある態度に多くの国民が感銘を受け、週刊誌等の誹謗記事も終熄に向かった。
根拠のない中傷ではなかったから、反論のしようもなかったわけです。
結局、まっとうな記者さんが処分されて、美智子さまマンセーな記者だけがのこっていゆきます。
美智子さまがマスコミの寵児だったときと、マスコミと週刊誌が神託だった時代とが、ちょうど重なりますね。向うところ、 怖いものなしになった美智子さまでした。
週刊誌は、なんでも好きなことを書かせれば、それが事実として世間が信じるという魔法のタブレットだったみたいですね。
美智子の背景にはGHQと、そのながれをくむCIAおよびアメリカが控えていました。美智子の周りには不審死した人間が多いのです。
564 名前:朝まで名無しさん投稿日:2011/07/31(日) 15:00:47.56 ID:0IJywSMz
(略)
喜久子妃殿下の件は他に言える方がいなかったし、わざわざ言う気もなかった。
御生家も、勢津子様百合子様よりはるかに高く、終戦直後もキーナン相手に丁々発止。
鎌倉節長官も喜久子妃殿下を頼りにして、天皇家の孤立を何とかしようと橋渡しをお願いした。
紀宮御婚儀の件も、「どうしておあげにならないの」と何度も陛下を詰問された。
他の宮家はだんまり。
難癖付けられ書きかてられるのは御免だったから。
(ここまで)
平民の美智子さんの、やりたい放題が始まるのよ。