文献を検証・・・弥助は力士の可能性があるかもしれない
信長公記
信長が弥助に太刀、屋敷、扶持を下付したことを理由に侍認定している方がおられるのですが一言。信長は気に入った者に平素からそのような行為をしていた事例だけ置いておきますね。信長は天正6年8月15日(弥助召し抱えの3年前)、京都、江州中の相撲取り1500人を安土に召し寄せ、相撲を取らせています。
この日、14人の力士に熨斗つき太刀脇差、裃、扶持100石宛私宅まで下賜しています。
右御相撲取被召出何れものし付之太刀脇差衆御服かみ下御領中百石宛私宅等まて被仰付都鄙之面目忝次第也
この14人の相撲取りも織田家の士分格のある侍だったと認定するのでしょうか🤭
※信長公記 巻11
たいとう づかう 妙仁 ひし屋 助五郎 あら鹿…
名字無し、しこ名みたいな人もいますけどねww
弥助以上の物を拝領していますが、この力士たちも小姓かなにかに格上げするんですか?
彼らは武家奉公人、「寄子」、御伽衆の類だと思います。弥助もそのうちの一人に過ぎなかったと自分は考えています。
力士・青地与右衛門も鯰江又一郎と共に1570年に行われた相撲会でこの両名が勝ち残り、褒美として信長から熨斗付きの太刀と脇差を賜っていますね
この日、14人の力士は信長から裃も下賜されていますが、江戸期の場合ですと、幕府が呉服師・後藤縫殿允家に依頼し、端午は帷子、重陽と歳暮の際は綿入が大量に時服として用意されていました。刀剣類も同様に下賜を前提に予め用意されていたと思います。
以上
Hal 9000@zuleomega
だと思いました。ありがとうございます。印象でしかありませんが信長などからの褒賞品は正確に記録されたように思います。と言いますのも誰にどのくらいの褒賞を与えたかは重要な情報です。あいつはあんなに重用されているんだとか。ですから、普通は太刀なら省略せず太刀と書くと思います。
以上
塩ばにら@vanillasiosio
弥助が下賜されたのはのし付き鞘巻なのでさらに一段待遇が落ちているくらいなんですよね
以上
たろすけ@tarosuke75
これ見て「弥助は相撲取りだ」と、ピンときました。侍や中間とかなら、残された弥助の資料を見ても違和感しかなかったのが、相撲取りとして召抱えられてたら、全て合点がいくのですよ。
以上