美智子様の真実@「英国紳士のような」佐伯記者

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


※影武者制度、タブーなど、皇室記事一覧

※最近の皇室記事一覧

本日もお越しいただきありがとうございます。

小和田家に戻る前に、、、

佐伯晋 朝日新聞記者と正田家のひとびと

 

転載します

このように正田家の人々は自分で判断したうえで行動し、そのうえで責任をもつという英国風の自由主義を身に着けている。
父親にといわれる恵美子さんが”理想の男性”として、英国◯紳士を脳裏に描いているといわれているのも、この辺に理由がありそうだ。

 

佐伯記者とのエピソード

そこで、今まで彼女が会ったうちで、理想に最も近い条件をそなえた一人の青年の名前が、大きくクローズアップされてくることになる。
その人の名は佐伯晋氏。現在、朝日新聞社会部(最高裁詰め)に勤務する有望な若手新聞記者だ。
”正田家ブーム”たけなわのころ、佐伯氏をライバルとして、取材合戦に火花をちらした各社のお妃記者たちの談話をまとめてくると、恵美子さんが彼を知ったのはもう一年ほど前。

当時佐伯氏は宮内庁詰めの”お妃記者”の一人として、いち早く美智子様をマーク。
正田家の周辺に取材のアミを貼った。そして、同家の人たちから直接、情報を聞き出すため、正田英三郎氏や、富美夫人に近づき、その後、恵美子さんとも知り合った。

激しい仕事に生命をかけながら、しかも”英国風”のキチンとした礼儀を忘れない佐伯記者に、彼女はしだいにひかれていったようだ。
「あの方、すごく素敵だわ。彼こそ紳士の中の紳士、ジャーナリストの中のジャーナリストよ」と、夢中になって家族に推薦するので、美智子様をはじめ、ご両親や兄弟も思わず微笑を誘われたという。
もちろん、同家の人たちはすえて、佐伯氏のすぐれた点をみとめていた。
大勢の報道関係者が入り乱れるなかで、彼だけは特別に扱われ、しまいには家族同様の待遇をうけるようになった。

去年の9月、美智子様をかこんで、皇太子妃をおうけするかどうか、正田家の最後の親族会議が箱根でおこなわれたときも、佐伯氏は、外部の人間としてはたった一人、その席につらなっていたと告叔父の同僚記者は語っている。恵美子さんの推せ、、

ここまで、

 

 

まとめると

・英国流自由主義をみにつけている正田家の次女恵美子が、理想の男性、紳士的だと惹かれたのが朝日新聞の佐伯晋。

・「佐伯さんは紳士のなかの紳士、ジャーナリストの中のジャーナリスト。でとっても素敵」と夢中になる恵美子に家族は微笑む。

・徐々に正田家に認められて佐伯記者は特別待遇を受け、家族同様にあつかわれるようになり、正田家の最後の家族会議、箱根会議にただ一人外部の者として参加した。

 

いったい、誰が信じるんじゃという内容ですが、、、、

バリバリの左翼系大学で、同和出身が多いとされる一橋の卒業生が英国流の紳士の中の紳士といわれても、、、

「激しい仕事」なのは、政治部、社会部担当であって、皇室担当なんて誰もが嫌がる窓際族のつまらない部署ときいてますけどね。

朝日新聞記者の佐伯氏と関係あるかどうかは不明ですが、日清製粉の歴代社長の中に、佐伯姓の方がおられますね。

 

日清製粉グループ本社の歴代社長

http://rekidai.blog.fc2.com/blog-entry-216.html

初代:根津嘉一郎(1906年~1924年)
2代:正田貞一郎(1924年6月~1936年12月)※創業者
3代:星野唯三(1936年~1945年)
4代:正田英三郎(1945年6月~1973年11月)※皇后美智子の父
5代:石井良雄(1973年~1981年)
6代:佐伯孝(1981年~1986年) 
7代:正田修(1986年6月~2004年6月)※正田貞一郎の孫
8代:長谷川浩嗣(2004年6月~2007年10月)
9代:村上一平(2007年10月~2011年3月)
10代:大枝宏之(2011年4月~2017年3月)
11代:見目信樹(2017年4月~ )

以上

 

6代目に佐伯孝さんとあります。1981年から86年まで。ごくわずかな期間ですね。御身内の方でしょうか。

直ぐ後の7代目が、正田富美と英三郎の次男が社長になっています。

 

一橋大学出身一覧

http://d.hatena.ne.jp/wikipediamobile/%88%EA%8B%B4%91%E5%8Aw%8Fo%90g%82%CC%8Co%8D%CF%90l%88%EA%97%97?page=17正田

経済人

・正田英三郎 – 元日清製粉社長、皇后美智子の父
・松本秀夫 – 元日清製粉副社長、正田貞一郎の元秘書
・佐伯孝 – 元日清製粉社長

一橋大といえば、例のキムコムロは、ここの大学院に入っている設定でしたね。そして、石原慎太郎や、シールズの奥田愛基、そして、佐伯晋氏も一橋大学の出身でしたね。この大学は、バリバリの左翼系と聞いています。

佐伯孝さん。探しているけど拾えないんですよね。

もしかして、佐伯家と正田家とは、代々の付き合いなのではないのでしょうか。

 

正田家と佐伯氏

高級住宅地にあったとはいえ、正田邸は豪邸とはいえないサイズのお家。

この小さな家に、自由に出入りができたのが佐伯さんだったのね。

正田美智子の多くのプライベイトな写真を残しているかた。

カメラマンに対して寛いだ表情を見せている美智子。

 

このご成婚した美智子が生んだ、徳仁1号と佐伯さんがにているのがね、、、、、歯並びをきちんとしたら、15歳の浩宮に似ると思う。

不思議なことです。

少し前までは、皇宮警察の警備の記録があれば、ナルちゃんのパパの特定もできるかと思いましたが、雅子も美智子も複数いるので、非番の人は自由に外出し外泊してたでしょうから、記録を調べても無駄ですね。

 

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再載になりますが、、、

すくなくとも「テニスコートの恋」より4年前に皇太子妃は決定していた。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/792.html

■「テニスコートの恋」の真実

1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピットが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇(迪宮裕仁 1901-1989)、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶應義塾塾長を務めた小泉信三(1888-1966)、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田 茂(1878-1967)

(略)

■皇太子妃を巡る暗闘があった

10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888-1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。

この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。

注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。

この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。

(略)

さて、宮内庁次長の瓜生順良(うりゅう のぶよし ?-1957)が、記者会見でお妃問題に対して初めて公式に言及したのは1955年(昭和30)年9月である。

この時、瓜生は「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、出来るだけ広い範囲から選ぶ方針である」と述べている。

1972年発行の『毎日新聞百年史』にも「宮内庁が皇太子妃の本格的選考に入ったのは(昭和)30年頃からである」と書かれている。

しかし、こうした通説が誤りだったことを『吉田 茂書翰(しょかん)』(中央公論社 1994年刊行、加えて『吉田 茂書翰 追補』吉田茂国際基金 2011年刊行)が見事に証明している。

女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」会長で東宮御教育参与を務めていた松平信子(1886-1969)が、皇太子妃は旧皇族または華族から選ぶべきだと主張、愛国団体を動かしての御婚儀反対工作を行うまでしながら、正田美智子(1934-)との結婚に反対していた。

不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。

旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。

 

吉田茂・小泉信三・松平信子の暗闘

吉田 茂と小泉信三と松平信子の3名は、間違いなくこの対立を知っていた。

吉田からすると、「何故か松平信子に情報が漏れていた」といった感じだったのかも知れない。10日に一度くらいの割合で吉田に会っていた昭和天皇も、当然、知っていたであろう。

何とも不思議な『吉田 茂書翰』はまだ続く。(中略)北白川宮家側に常盤会会長の松平信子や娘の秩父宮妃勢津子(松平節子 1909-1995)がいたことが、この手紙から明らかになる。

吉田自らがこれだけ慌しく動いているところを見ると、恐らく吉田が北白川宮家を訪問した5月2日前後には、皇太子妃が正田美智子に絞られていたと推測される。

そして、この3カ月後に、現在の天皇皇后両陛下は軽井沢で「出会う」ことになる。

結局、それは偶然でも運命でもなく、予(あらかじ)め吉田や小泉は、皇太子妃最有力候補として正田美智子に絞り込み、「テニスコートの恋」のシナリオが綿密に描かれていたのだ。

新聞各紙の中で『吉田 茂書翰』にある小泉信三宛手紙の不思議に気付いて、内容まで紹介していたのは読売新聞だけである。それ(読売)にしても、軽井沢での「運命の日」以前であることの重要性については何一つ言及していない。

三谷隆信宛の手紙に到っては、内容まで紹介した記事は全く無い。数多い研究者も含めて、吉田 茂が皇太子妃選びにまで関与していたことをこれまで見過ごしてきたのだ。

※明仁皇太子妃候補筆頭だった旧宮家の北白川肇子さま。

こうしてシナリオ通りに事が進んでいく中で、もはや北白川宮家側が入り込む余地は無かった。それでも「悲劇の宮家」返上を目指す北白川宮家の情念は凄まじかった。

小泉側に牧野伸顕(まきの のぶあき 1861-1949)の娘婿の吉田がいることに気付いた北白川宮家側は、巻き返しを狙って牧野伸顕の長男・牧野伸通(1889-1941)の夫人で、常盤会の重鎮でもあった牧野純子(1900-1990)を巻き込む。

昭和天皇が父のように慕った牧野伸顕の家を2つに引き裂きながら、北白川宮家から皇太子妃を誕生させようと最後の最後まで粘りに粘る。

しかし、吉田や小泉らが描いた見事なまでのシナリオに屈する。

(転載以上)

 

 

しかし、手紙が書かれた8年前の1952年ではなく、少なくとも1946年には「正田家から皇太子妃」は確定していた

左から・佐藤首相(田布施に戸籍がある)、池田隼人(敗戦前に皇室財産を隠すため活躍)、吉田茂、堤康次郎、

・1945年 8月、終戦、GHQの占領がはじまる

・1946年 5月 カトリック教徒を妻に持つ吉田茂が首相に

・同年7月 美智子の祖父、正田貞一郎が勅撰で貴族議員に。

8年前ではなく、少なくとも、1946年の時点で「正田家から皇太子妃」、しかし実際は堤康次郎の娘を皇太子のツマにすることは、決まってたんでしょう。

吉田首相が、貴族議員が廃止されることがわかっていたので、正田貞一郎をねじ込んで「正田家から皇太子妃」の下地を作っています。

もっとも、正田美智子は、テニスコートの出会いの前に、別人に入れ替わってます。別人が皇太子の妻になるという事情が雅子と似ていますね。

 

・「ヤンキーミッチー」。

額の生え際がまばらで面長、顔のパーツが中心によっています。聖心女学院にかよった、正田家で育った人だと思います。

 

・富士額で顔幅が平たく広い、小鼻の張りがめだつ「オカメ顔ミッチー」。

何らかの理由で、ヤンキーミッチーといれかわりテニスコートに派遣され、ご成婚しました。

 

2人いた正田美智子

ともに、耳にピアスをしています。

正田家の長女として育ったのが、目つきの悪い生え際のまばらなヤンキーのほうで、何らかの理由で(例えばあまりにヤンキーミッチーが下品すぎて皇太子妃は無理という判断がされたとか、、)、オカメ顔が正田美智子としてテニスコートに送られ、謀略どおり、ご成婚したのだと思われます。明仁さんからのプロポーズを受ける前に、聖心女学院世界大会のために渡欧した美智子もオカメ顔のほうでしょう。

 

堤家利権の土地 軽井沢、箱根

「テニスコートの出会い」があった軽井沢も、「箱根会議」のあった箱根もまた、堤家と関係が深い土地ですね。箱根には、堤古墳を有する墓地があります。正田家の墓地もここにあります。

歴代の美智子と、堤家の人々との容姿が似ていることもあり、やはり美智子は堤家の落胤の一人だと思います。

 

もともと、佐伯記者は、この壮大な「美智子入内」プロジェクトのメンバーとして用意されていた、”内部”の人間だったんでしょう。

正田家の次女にとって「紳士的」「理想的な男性」だからといって、赤の他人の青年が突然、家族同様に信用され扱われるということはないでしょう。佐伯記者が、田布施や堤など朝鮮系の黒い家系に所属する人だったのではないでしょうか。

佐伯氏は、社会部出身にもかかわらず、朝日新聞の役員になっています。異例のことだそうです。

 

カメラマンに微笑む美智子

徳仁親王を出産し退院するおり、取材でおしよせる新聞記者のために車の窓を開けて赤子を見せていますが、もしかしたら、「知り合いの新聞記者」にむかって新生児をみせ、ニタリ「うまくやったわ」と、蛇の笑いでほほ笑んだのかもしれません。

 

無題 Name 名無し 17/03/29(水)18:57 ID:EtXAUIfk No.1950988  

一人旅のはずなのに・・・ だれが写真をとってくれたの?

ポーズつけて明後日向いて・・・プロがとってみたいねw…

以上

 

欧州訪問時の「一人旅の美智子様」とされているこの写真。妙に寛いだ表情をしています。

ちなみに、同行してこの写真を撮ったのは、もしかして、佐伯さんでしょうか。

 

ニセモノが天皇に即位?