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正田富美の謎
謎の多い美智子の母
正田美智子の母・正田富美。謎の多い方ですね。
伏見氏の検証など合わせてをまとめると、、、
・皮膚の白さと170センチちかい身長の高さ(1948年の日本女性の平均身長は152センチ、男性は160センチ)、顔立ちからみて白人とアジア人のハーフではないのか。
・実子であろう、長男、次男、次女がいずれも西洋人なみの長身。英国人に血が入ると長身になるらしい。
・大陸夫人、上海夫人といわれていたが、富美は、上海にいた日本人ではなく、中国人、あるいは、中国朝鮮族ではないのか。
・正田家の家族写真を見るに土足で生活していたようだ。上海租界の生活スタイルではないか。
・正田家での食事会は、いつも中国料理だったらしい。
・皇室にたいして敬意なるものがみじんもない。「いいたいことを言わせてもらいました。あちらがよく辛抱されたと思うくらい」。
・幼い正田美智子の耳にピアス、学生時代の正田美智子の耳にもピアス。この時代、耳に穴が開いていたのは中国系か、あるいはパンパンとよばれる進駐軍を相手にした女性だけ。
ピアスホールがありますね(左)
女学生がピアス、
・女性は16歳で婚姻可能だった時代、15歳の正田美智子を竹山パーティーなるエリートのための婚活パーティーに参加させていた。良家とは思えない。
・正田美智子の特技は英会話、ダンス、テニス。西洋人あいての妓生ならこれでもいいとおもうが、日本の良家の未婚の子女がたしなむはずの、茶道、華道、料理、などの花嫁修業は一切させていない。教育方針が水商売臭く、日本の家庭のものとはかけ離れている。
・あれだけの美人なのに、富美の若いころの写真がでてこない。富美の女学生時代の写真もでてこない。若いころは金髪に染めたりして、上海で舞台女優、あるいは高級コールガールなどをしてたのではないか。
・富美の言動を見るに、日本人らしいことろがない。
などなど、、、
上海と佐賀と正田富美
そしてこちら、『上海に生きた日本人』という本があります。
上海支店長だったという富美の父の情報を得られるかと思って期待して読んだのですが、この中には副島の名前は出てこなかったですね。
皇太子妃、皇后となった美智子の母と祖父母が、上海に駐在していたことがあるとなると、そのことについて触れているんじゃないかと思うのですが、日本人租界の世話役などをみても副島姓の方は見当たりませんでした。
伏見氏のブログで、伏見氏の読者様から、正田富美が佐賀の副島家に「戸籍を売ってほしい」と談判にきたというリークがありましたね。
すくなくとも、富美とその両親は、佐賀の士族の副島家とは関係ない人のようです。
無題 Name 名無し 16/12/26(月)23:02 ID:O/IoBGSU No.1860659
写真の公開は宮中三殿をお参りしてからという、皇室のしきたりがあったそうでこれは守らねばならない信仰の話ではないの?
そうしたら、牧野女官長のお怒りももっともだよ
ミテ子は、風邪をひくと叱られたとか本質を隠してこの話をわざと矮小化している
… 無題 Name 名無し 16/12/26(月)23:09 ID:UfQf.ZDQ No.1860665
悠仁様ご誕生にあわせて宮中三殿を改築し参拝させなかった基地外女。この女の強い意志を感じる。
以上
しっかり、霊写真が写ってますね。ああ、怖い。
無題 Name 名無し 16/08/13(土)00:56 ID:YFe7T21U No.1724462
>ナルちゃんは小さいころ「うちのままをいじめるな」と女官の前に仁王立ちになったそうですね。
牧野女官長に散々いじめられたって週刊誌で宣伝していましたね。
この女官長が良子さまや高松宮妃秩父宮妃にすぐにちくるって書いてありましたね。
… 悪役は、皇族.華族!…by.上海母娘 Name 名無し 16/08/13(土)01:59 ID:mQtzS5DY No.1724548
河原敏明の本でしたか…三婆(香淳皇后、喜久子様、勢津子様)と牧野女官長がいつも集まって、若く、美しく、人気者の美智子さまの悪口を言っていた…と書いていました。
ストラッグル富美に「牧野さんをどう思うか?」と河原が尋ねたら、心の広い富美さんは、「あちらも、私の実家と同じ《佐賀の葉隠れ》(士族)ですから。」と、庇ったとか….。
聖女の母娘でいらっしゃいます。(吐き気)…
無題 Name 名無し 16/08/13(土)02:08 ID:CXYEG2IA No.1724551
わらっちゃうわね、佐賀藩藩主のお嬢様つかまえて「同じ」とはね。
自称士族の実はなんだかよくわからない佐賀のエタ部落の小娘がw
以上
旧主の姫を「あちら」よばわりしていますね。本物の佐賀藩士の士族では無さげですし、言動が日本人の常識とかけ離れています。
やはり、小泉家のように、勝手に士族の姓を名乗ったのでしょう。
富美の行きつけの美容室
富美は、与儀美容室に通っていたみたいですね。
与儀美容室さんは、ホテルオークラに入る前は、王長徳さんという中国オーナーのビルに入っていたようです。
王さんのビル内に美容室があったころ、富美が定連として通っていました。皇室ご用達になったのはその縁でしょうか。
富美は上海夫人といわれていましたが、ビルのオーナーの王長徳さんは、上海から日本にやってきた方です。
富美が髪を結っている間、美智子は、ビルのオーナーの王さんの応接間で時間をつぶしていたそうな。普通の御客とは違うあつかいだったのかもしれませんね。
中国人のオーナーとは、中国語で会話できるので、気安かったのかなとおもいますし、美容院がいわゆる仲間であり、中国系工作員どおし連絡する場であったのかもしれず、、、。
闇市の帝王 七尾和晃
第五章 封印された「戦後」P208~
ところで、虎ノ門のホテル・オークラにテナントを構えている与儀美容室も戦後の一時期、王の黄色合同会館に店を構えていた。
与儀美容室は現在も、皇室ご用達として日本でも有数の格調高い美容室である。王は回想する。
「与儀八重子さんは沖縄の出身で、そこで銀座で沖縄料理屋を3件も経営していた宮城あきこさんの紹介でうちに入ってきたの。昭和27年から33年くらいかな。ワンフロアを月に35万円くらいでかしていました。髪を結わう女の人の椅子が10くらいあったんじゃないですか。
結婚する前の正田美智子さんのお母さんもきてましたよ。で、美智子さんは待っている間、私の部屋であそんでおったわけ。三階の社長室は応接間がでかいから、そこに座ったり、本を読んだり、雑誌を読んだり。
その美容室には秩父宮勢津子さんもきていて、そうしたら勢津子妃が『あの子を皇后(※原文ママ)にするから』って言って、そんな話がでて1年か2年くらいしたら、本当に婚約しちゃったの。
だから、美容室にもこれなくなったわけよ。皇后(※原文ママ)になるものだから、護衛が付いたっているから」
婚約が発表されたのは1958年11月27日だった。
この与儀美容室を語るときの王は、なによりもそれがわが身の誇りであるかのように懐かしんでみせた。
2006年、王はあるとき、ホテル・オークラの与儀美容室まで出向いたことがあった。
「娘さんたちとはなしたら、母親から聞いたことがあるといって、昔、私のところに入っていたのを覚えていましたよ」
転載以上
「そうしたら勢津子妃が『あの子を皇后(※原文ママ)にするから』って言って、そんな話がでて1年か2年くらいしたら、本当に婚約しちゃったの」
ここ、気になりますね。正田美智子の入内には勢津子妃をはじめ旧華族は反対してましたね。
外人である中国のかたの記憶から引っ張ってきたものですがから、語彙や意味が実際は微妙に違っていたかもしれませんが。
皇太子ご成婚までの時系列
1958年
08月19日 明仁皇太子と正田美智子が軽井沢のテニスコートで「出会う」
1959年
11月17日 ニューズウイークが皇太子妃決定の配信「テニスコートの恋」
11月24日 宮内庁公電をもって館林=正田家に通知
11月27日 皇室会議
1960年
2月6日 国会 昭和34年内閣委員会議事録より
「国会も何ら御結婚について知らされておりません。」
1959年
4月10日 明仁皇太子ご成婚
1960年
2月23日 第一男子浩宮徳仁親王
宮内庁から、皇室会議より先に正田家に決定の通知を出してますね。
つまり、明仁皇太子が私的に結婚した貴賤婚だったということです。なので、美智子は明仁さんの妻という扱いで、妃としてみとめられていませんでした。
ベルギー王葬儀のおりのテロップ 明仁天皇の妻ショーダ・ミチコ
話を美容室に戻しますが、、、
皇室ご用達美容室
与儀美容室:ttp://www.yogi.co.jp/concept/index.html
ようこそ与儀美容室へ。
「その人本来の美を引き出し、その日の元気と生きる勇気を与えるのが美容の真髄です。」
これは創業者与儀八重子が最も大切にした言葉です。
1948年、銀座に開業してから60余年。
多くの賓客の皆様に支えられながら、ここホテルオークラ東京の開業と共に道を歩んで参りました。
変わらぬ理念は、「私たちは美の職人である」という言葉。
一見華やかな世界ではありますが、ずっと変わらない美しさのスタンダードを追求し、
伝統と先進を見据えながら、大切に守ってきた本物の技術こそ、他に比類なきものと考えています。
それは表情として見えてくる美しさはもちろん、
お客様のお人柄や内面からくる美しさも引き出すことにつながっていく。
それが私たちの願いでもあり、自信でもあります。
何代も大切に受け継がれてきたもの、そして多くの賓客の方々を大切に、
これからも守っていくべき美のスタイルがここにはあります
転載以上
皇室ご用達の与儀美容室。
敷居が高そうですが、価格表を見ると、場所も格式も高いのに意外に安いんですね。
今でも、佳子様、眞子様がお出ましになるというご用達の美容室ですが、、、。
しかし、ここで違和感がでてきますね。
・美智子は複数いた。
このことに気が付いていないはずないと思うんですが、、、、。
ナルちゃんのご成婚式のおりの雅子の髪を結わえたのも、ここの美容室だそうでで、雅子とは面識がなかったので、報道されていた雅子の写真をあつめて研究したそうです。
ちなみに、ご成婚後も、子供や夫を連れて正田美智子が頻繁に通ったとされるのが、聖イグナチオ教会でした。
三笠の宮信子(旧姓麻生)さんもミサに通っているというリークをコメント欄にいただきました。
美智子も信子さんも、ともにバリバリのクリスチャンの家系であると同時に代々、敵国工作員の家系です。
こうした「お仲間」どうしの連絡場が、聖イグナチオ教会だったのかなと思う節がありますが、闇市の帝王といわれた王氏のビルに入っていた美容室など、ほかにも、不思議なスポットがあちこち探せば見つかりそうです。
2人の正田美智子
オカメとヤンキー・2人の正田美智子
なんどもご紹介させていただいてますが、御成婚前の正田美智子は、少なくとも2人いるんですけどね。
・富士額で顔幅が平たく広い、小鼻の張りがめだつ「オカメ顔ミッチー」。
こちらは、「ヤンキーミッチー」。額の生え際がまばらで面長、顔のパーツが中心によっています。
ともに、耳にピアスをしています。
正田家の長女として育ったのが、目つきの悪い生え際のまばらなヤンキーのほうで、何らかの理由で(例えばあまりにヤンキーミッチーが下品すぎて皇太子妃は無理という判断がされたとか、、)、オカメ顔が正田美智子としてテニスコートに送られ、謀略どおり、ご成婚したのだと思われます。
明仁さんからのプロポーズを受ける前に、聖心女学院世界大会のために渡欧した美智子もオカメ顔のほうでしょう。
無題 Name 名無し 17/03/29(水)18:57 ID:EtXAUIfk No.1950988
一人旅のはずなのに・・・ だれが写真をとってくれたの?
ポーズつけて明後日向いて・・・プロがとってみたいねw…
無題 Name 名無し 17/03/29(水)19:22 ID:WPytAxZo No.1951006
すげーな。この当時、外国に行ける金持ちのお嬢様 恋に悩む乙女ドラマ仕立てで国民は熱狂したんだね。
華子さまはフィーバー起きないように五輪の騒ぎの間御成婚。
… 無題 Name 名無し 17/03/29(水)19:26 ID:E24hWAek No.1951014
ミテコさんの人生はドラマみたいですもんね。
長男の嫁とりさえうまくいっていれば、私らネット民だって一生だまされてたかもしれない。
以上
ご成婚前の美智子のご用達の美容室
東京・川島美容室
そして、もう一つ美容室があります。東京にある川島美容室。
以上
記事を抜粋すると、、、、
・東京芝白金台町・川島美容室、開業して24年目。
・従業員は4人、住居の2階にちょっと手を加えた、古めかしい建物。
・ご婚約発表の前日、川嶋美容院へ来店された正田美智子さん。後ろが川島さん。
・聖心女学院に在住のころから熱心に通っていた。
・正田さんのお母さんも、月に2~3回通ってくる。
・下のお嬢さんは最近お客さんになった。
白金の川島美容室で髪を結ってもらっている正田美智子は、絶壁の頭部と耳からみて、おそらくはご成婚したオカメ顔ミッチ―ではないでしょうか。
川島美容室に通ていたのが、オカメ顔で、与儀美容室に通っていたのが、ヤンキーのほうのミッチーだったのかなと。
オカメ顔が皇太子の妻になることに内定したので、正田富美や次女も通うようになったのかな。
愛子さんのダブルたちは、学習院の行事にその姿がみられるので、複数いるダブルたちは学習院の同級生でしょう。
ともに、聖心女学院の写真がのこっているので、オカメ顔とヤンキーミッチーは、愛子さんと影子たちのように、おなじ学校の同級生だったかもしれません。
まとめしだい、UPしていきます。