秩父宮雍仁親王⑧東久邇稔彦王の生涯

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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本日もお越しいただきありがとうございます。

鬼塚史観では、秩父宮の実父と推定されている東久邇宮稔彦王に触れてみたいと思います。

東久邇稔彦 wikiより抜粋編集

生い立ち

1887年(明治20年)誕生

久邇宮朝彦親王第九王子として誕生。学習院初等科の同期生には異母兄の鳩彦王、有栖川宮威仁親王第一王子の栽仁王、北白川宮能久親王第三王子の成久王、同第四王子の輝久王などのほか、里見弴もいて親友となる。

1906年(明治39年)東久邇宮家設立

宮家の末子として本来ならば成人ののち臣籍降下して伯爵となるところだったが、明治天皇の第九皇女泰宮聡子内親王の降嫁先を確保するための特例措置として、東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。

 

陸軍軍人としてのキャリアがスタート

1908年(明治41年)

12月、陸軍士官学校(20期)卒業

1914年(大正3年)

11月、陸軍大学校(26期)卒業。

1915年(大正4年)結婚

予定通り聡子内親王と結婚。

 

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留学

妃を日本に残してパリをご堪能遊ばす

1920年(大正9年)から、1926年(大正15年)

フランスに留学した。サン・シール陸軍士官学校で学ぶ。卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ広く学んだ。

この留学時代、フランスの自由な気風に馴染み、画家のモネや元首相のクレマンソー、そして第一次世界大戦の英雄として知られたジョフル元帥やペタン元帥と親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。

この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる。

なお、東久邇宮は、ヨーロッパへの長期に渡る滞在に至った理由について

①山縣有朋元帥陸軍大将と上原勇作元帥陸軍大将ら陸軍上層部から「なるべく永く外国に滞在し、向こうの知名の人と親しくなるように」言明されたこと、

②滞在地フランスで、「はじめて自由を味わい、また人間としての個人的自覚を獲得した」ことを挙げている。

 

欧州かぶれに御成り遊ばす

ヨーロッパ留学の経験から欧米と日本(をはじめとするアジア諸国)の技術力格差やアイデンティティの違いを感じた東久邇宮は、海軍の永野修身元帥や教育学者の小原國芳博士、そして哲学者の西田幾多郎博士らと共に、

①国家枢要の人材養成、

②アジア諸国の技術力の向上、

③世界文化への貢献などを目指して1942年(昭和17年)、興亜工業大学(のちの千葉工業大学)の創設に尽力。

大正天皇の容態が思わしくなくなったという報が遊学中の稔彦王に入ったが、稔彦王は息苦しい日本に戻るのを嫌い、一向に帰国の素振りを見せなかったため、日本で留守宅を守っていた妻の聡子内親王が「私の面目は丸つぶれである」と稔彦王の従者に手紙を送りつけるほどだった。

稔彦王は権威主義や形式主義を重んじる大正天皇とは馬が合わず、不仲だったともいわれる。結局稔彦王の欧州滞在は7年間にも及んだ。

 

軍人生活 和平派の首班候補に

帰国後には第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任した。ヨーロッパ留学の経験から陸軍の近代化案を提唱するようになった。
日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。

自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入にはきわめて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部というポジションにもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。

 

1941年(昭和16年)昭和天皇との会談

8月5日、昭和天皇と会談した際、天皇は

「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない、作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうも本当のことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。

 

これに対し、宮は

「現在の制度(明治憲法)では、陛下は大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、立憲君主の枠を越える危険を冒してでも天皇の大権によって陸軍を食い止めた方が良いと助言したという。

しかし、英国訪問時に感銘を受けた立憲君主制への拘りは強く、昭和天皇に宮の助言は届かなかったという。

 

日米開戦直前に首脳候補に御成り遊ばす

1941年(昭和16年)

10月、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がったが、結局、首相は東条英機に決まった。

対米戦争回避派として活動。同志と戦争回避を模索するも開戦にいたる。

 

1941年(昭和16年)蒋介石との和平を模索

9月、頭山満に蒋介石との和平会談を試みるよう依頼。

蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條英機に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった(自著『私の記録』)。

 

1942年(昭和17年)

元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に高松宮宣仁親王との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情をはじめて知ることになる。これを受け、日本の先行きに対し一層不安を覚える。

太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将に就く。

大戦中は海軍の高松宮宣仁親王と共に大戦終結のために奔走した。

大戦末期に起きた宮城事件では、鈴木貫太郎首相らと同様、断固交戦を唱える「国民神風隊」によって私邸を焼き討ちされている(宮城事件)。

 

内閣総理大臣にご就任遊ばす

東久邇宮稔彦王(最前列)と内閣の閣僚

 

1945年(昭和20年)敗戦処理に奔走

ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後の8月17日に、東久邇宮が内閣総理大臣に任命。

日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。

東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。

東久邇宮は日本領や占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。
また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。

9月2日には東京湾沖のミズーリ号上で日本の降伏文書に調印がされ、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。

 

「一億総懺悔」をするべきとのたまう

8月17日

日本人記者団との初の記者会見において、国体護持の方針、敗戦の原因論に触れるとともに、

「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた。

 

9月5日 国会でものたまう

国会で行われた施政方針演説においても次の様に発言した。

「事ここに至ったのは勿論政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。(中略)敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります」

 

首相辞任後、臣籍降下あそばす

1945年(昭和20年)

11月11日、東久邇宮稔彦王は、皇室の「敗戦の責任を取るため」として、皇族の身分を離れる意向であることを表明、賀陽宮恒憲王などがこれに同調した。

 

1946年

2月、東久邇宮は、「宮内庁の某高官」として、昭和天皇が自身の戦争責任をとるため退位する意思があること、これへの賛同者は天皇が「道徳的、精神的な責任」があると考えていることをAP通信記者に述べている。

東久邇宮は早くから天皇退位が必要であると考えていたとみられる。既に戦犯裁判における昭和天皇免責を決定していたGHQでは、退位論の進展が天皇の責任問題につながりかねないとして警戒し、日本政府および宮中と連絡してこれに対応した。

 

1946年(昭和21年)貴族院皇族議員を辞職

5月23日、貴族院皇族議員を辞職。

 

1947年(昭和22年) 11宮家が皇籍離脱

10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして皇籍を離脱し、以後は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。
臣籍降下後公職追放を受け[8](1952年解除)、その後の生涯は波乱に満ちたものであった。

 

臣籍降下後はご苦労遊ばす

最初に新宿西口に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後も喫茶店の営業や宮家所蔵の骨董品の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。

その理由は東久邇宮本人が曲がった事が大嫌いで、闇市で商売をしているにもかかわらず、他の商店とは異なり、正規品を正規のままの値段で取扱い、一切不正をしなかったことが原因だった。回想録によると宮は、貧しかったが国民と共に必死に働いたことではじめて国民生活を知り、充実した人生を送れたと語っている。

 

1948年(昭和23年)

尾崎行雄、賀川豊彦、下中弥三郎、湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現世界連邦運動協会)を創設。

 

世界連邦建設同盟とは、、

http://www.wfmjapan.org/

 

日本では終戦直後に尾崎行雄ら有志の議員が「世界連邦建設に関する決議案」を国会に提出。

1948年

「世界連邦建設同盟」が結成され尾崎行雄が会長に、賀川豊彦が副会長、名誉会長には戦後初の総理大臣東久邇稔彦が、第五代会長には湯川秀樹が就任。「世界連邦建設同盟」は現在「世界連邦運動協会」と名を変えて活動している。

 

2005年

8月2日、衆議院に「国連創設及びわが国の終戦・被爆六十周年に当たり、更なる国際平和の構築への貢献を誓約する決議案」を、川崎二郎外20名が提出し可決。

本決議の中に「世界連邦実現の道の探求」という部分があり、本決議を受けて、麻生太郎外務大臣の指示により、2005年12月14日に、外務省総合外交政策局・政策企画室に世界連邦運動の窓口を設置することが決定。

世界連邦日本国会委員会の歴代会長
初代 松岡駒吉
第2代 片山哲
第3代 北村徳太郎
第4代 笹森順造
第5代 清瀬一郎
第6代 益谷秀次
第7代 船田中
第8代 福田篤泰
第9代 櫻内義雄
第10代 植木光教
第11代 村田敬次郎
第12代 石川要三
第13代 森山眞弓
第14代 中野寛成
第15代 鳩山由紀夫

第16代 横路孝弘(現職)

 

教祖に御成り遊ばす

1950年

東久邇稔彦が新宗教「禅宗ひがしくに教」を作る

1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。その後もいろいろな事業を行なうものの、いずれも成功はしなかった。

 

フリーメイソンに御成り遊ばす

1950年

フリーメイソンに入会(=initiated)。

1957年

6月、東京の友愛ロッジにて「メイソン」になる。

1960年(昭和35年)

十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山、片山哲とともに三元首相の連名で時の首相の岸信介に退陣を勧告。

 

1964年(昭和39年)

4月29日、菊紋の銀杯一組を賜る。

 

1971年(昭和46年)

桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。

http://www.nihonbunka.jp/

 

1979年(昭和54年)見知らぬ女性が勝手に入籍、裁判に

聡子夫人と死別。同年暮れ頃から、「東久邇の妻」を自称する女性がいるとの噂があったため戸籍を調べたところ、知らぬ間に入籍されていたことが判明。

「東久邇紫香」と名乗る女性(増田きぬ)を相手取り、結婚無効の調停を起こした。調停が不調であったため民事裁判となったが、一審判決は婚姻は有効、高裁判決は無効とし、1987年(昭和62年)最高裁が上告を棄却したため婚姻の無効が確定した。

 

死去

1990年(平成2年)1月20日

102歳で死去。従二位に叙せられ、特例として豊島岡墓地に葬られる。

続きます。

 

ニセモノが天皇に即位?