(鬼塚史観)秩父宮の実父?・東久邇宮稔彦
『日本の一番醜い日』鬼塚英昭 P375 ~
高松宮と三笠宮の父親は誰であるのか、私は今のところ確信がもっていえない。しかし秩父宮の父親については間違いなく東久邇宮である、と思っている。
その証拠の一つは『西園寺公と政局』の中に発見できる。秩父宮と東久邇宮が、いつも行動を共にしている様子が克明にかかれているからである。秩父宮が過激な連中と交わると西園寺公望が東久邇宮に注意せよ、と説得する。この逆の場面も書かれている。秩父宮は昭和天皇と会う場面が非常に少ない。
兄弟としての親しみを見せつけられる場面を探しても困難である。彼らが父親がちがうのはこの面から見て取れる。
転載以上
左)秩父宮、中央)昭和天皇、右)高松宮
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『日本の一番醜い日』鬼塚英昭 P407 ~
さて、私は東久邇宮稔彦について書こうと思う。彼は田中光顕の闇の部分につながる男として後章で登場する。彼は幕末期に孝明天皇の側近であった朝彦親王の息子である。その彼が明治天皇の内親王聡子と結婚し、東久邇宮と名乗るようになった。明治天皇には15人の皇女がいたが、4人しか成人にいたらなかった。何か発表できない病気をもっていた可能性がある。この15名の皇女も、巷間判明しているだけの数字で会える。
さて聡子内親王と結婚した東久邇宮稔彦は晩年、次のように語っている(『週刊読売』昭和30=1955年5月29日号)。
陽気で闊達な大正天皇では、これからの日本の将来に不安であるという空気が濃くなっていく。オーストリア、ハンガリーの王室も潰れていく。この時代を別の角度から見ることにする。
『昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫』という本がある。笠原和夫、荒井晴彦、絓(すが)秀実の三人の対談からなる本である。笠原和夫は東映で時代劇、戦争もの、やくざ物を手掛けた脚本家である。
映画「日本暗殺秘録」が1969年に東映で制作された。監督は中島貞夫、脚本は笠原和夫、
笠原和夫は「日本暗殺秘録」のシナリオをかくにあたり、いろんな人物に会い、それから物語を構成する。2・26事件の関係者に会う。笠原の”弁”に耳を傾けられ余。世にも恐ろしき真実が語られる。
笠原
『日本暗殺秘録』は昭和44年でしょ。その5年後の昭和49年の12月に、街頭でバッタリと河野司さんに会って、「実はちょっと話したいことがある」といわれてバーに連れていかれたんですよ。「潜水艦」という軍関係のバーなんですけどね、このバーなら大丈夫だと河野さんが話し出したんですけど、「実は今、東久邇さんと会ってきたんだ」と。
東久邇さんは戦後最初の首相だった人ですけど、その人に聞いてやっと事件の真相がわかったと、つまり河野さんとしては、なぜ、弟たちがああいう事件を起こしたのかをずっとしらべていたわけですよね。
で、それは何だったかというと、結局2.26自県というのは壬申の乱だっただと。つまり大正帝に子供が出来なくて、貞明皇后に何人か男をあてて、それで子供を産ませたといったというんだね。「だから、ずいぶん、あの兄弟は顔が違いますよ」と。
それで貞明皇后なんだけど、女というのは最初に押し付けられた男を嫌がりますわな。それで、ものすごく長男——裕仁さんに拒否反応を持ったらしいんですよ。で、誰かはわかりませんけれど秩父宮のお父さんが貞明皇后のハートを射止めていて、それで秩父宮さんを溺愛したらしいんです。だから貞明皇后としてはなんとしても裕仁さんをハズして、第二子の秩父宮を天皇の座に送りたいというのがあったんですね。それをが策したのが山形有朋でね。だから、昭和天皇の妃を決定する際、色盲問題があったでしょ。
(中略)
笠原
それで、秩父宮さんもそういう自負を持っていたわけですね。若いときから、兄貴よりも時分が皇位を継ぐべきなんだと。それで自分に協賛してくれる人がほしいということで陸軍の中に入っていくわけですよ。彼は陸軍の将校でしたけれど、例えば安藤輝三退位は非常に秩父の宮に恩恵を受けたりしてね。
転載以上
226事件で逮捕され射殺された安藤さんの最後の言葉は「秩父宮殿下、万歳」だったそうな。
昭和7年 右傾団体にかかわる東久邇宮を案じる秩父宮
『日本の本当の黒幕』 鬼塚英昭
昭和7年(1932年)8月25日の『木戸日記』については2度引用した。あまりに長い。ここで引用しつつ解説する。
木戸幸一は背後関係を調べようとする。山本達雄内務大臣や松本学警保局長に会う。松本警保局長は木戸幸一に次のように語る。
「而(しか)して此背後に何等かの勢力があるにあらずやという点については確乎たる見当はつかざるも、どうも柴田徳次郎一派の団体及び軍人も総統田中邸に出入りし居り、且つ先般水戸の記念館が財団法人となりたる祝賀会の際、東久邇宮が赴かれ、当時、田中と同路、愛郷塾へ赴かれたりとの話もあり、相当右傾団体の手先となれるにはあらずやと思われる。この点は余程注意すべき点だと思う」
(中略)
ここでまた、秩父宮と東久邇の関係がみている『日記』がある。『原田日記』「昭和7年9月12日」である。秩父宮が原田熊雄に、木戸幸一から田中問題について聞いてくれといっている。秩父宮は東久邇宮が重大な事件の容疑者の主宰する愛郷塾にいったことは遺憾であると心配している。
2人が父と子であることがこの一件でもわかるのである。
続きます。