秩父宮雍仁親王⑤父・大正天皇と山県有朋の死闘

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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➃からの続きです。

大正3年(1914年)7月28日、第一次世界大戦が勃発

『日本の本当の黒幕』鬼塚英昭

P151~

私は明治天皇は明治大帝といわれるほどの人格ではなく、凡庸な人間にすぎなかったと書いた。伊藤博文や山県有朋が芝居がかった演出を氏、彼の出自を隠すために、誇大に大帝としてまつりあげただけの人物であったと。

では、大正天皇はどうか。彼は明治天皇や後の昭和天皇よりも英邁な天皇であったと思っている。

大正3年(1914年)7月28日、第一次世界大戦が勃発した。

「日英同盟」に基づく参戦要請がイギリスより会った。時の首相・大隈重信、外相・加藤高明は、8月15日の御前会議で参戦が決定した。

山形有朋が反対したにも関わらずだ。

大正天皇は大隈重信の決断に応じた。「元老に憲法上も法規上も、この首相の決断を拒否する力無し」と。

いわゆる「加藤外交」である、しかし山形有朋は「短見外交は国家の前途を憂慮に堪えぬ」と非難、痛罵の声を荒げた。それでも天皇派この内閣を支持し続けた。

転載以上

 

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明治以降の偽皇統の事情を知り尽くしている山県有朋にしてみれば、手駒にすぎなかった天皇が、暴走しはじめたと危惧した可能性がありますね。

通説では、

・大正天皇は出生時、難産で逆子だったため息も絶え絶えの状態でお生まれになった。

・後遺症の為か、お体が弱いうえに、奇矯な御振舞いがおおく、明治天皇や妻の皇后を悩ませていた。

・即位されたものの、御病状が進み、ついに寝たきりになり、皇太子ヒロヒトが摂政となった。

 

もし、生まれつきご病気がちだった、心身ともに弱かった「大正天皇」がいるとしたら、この方かな、、、と。

大室顔の大正天皇です。左の少年時代の大正天皇は肖像画、右は写真だと思いますが、、

 

Aは大室顔の大正天皇、Bは肖像画、Cは大隈顔の大正天皇。AとCは身長もちがうので別人かな、、と思うんですけどね。

明治天皇=睦仁天皇も、

①体の弱い歩行困難だった睦仁親王、予防接種を受けた、直ぐに泣きじゃくるひ弱な気質だった、

②180センチを超す巨体の睦仁親王、予防接種を受けなかったため顔にあばたがあった、

など、当時の記録が二重になっていますね。

 

大正天皇も、

①大正天皇が初めて議会に行幸の時、お手元にあった、勅語の紙をくるくる撒いて、会場をお眺めになった。

②和歌、漢詩を巧みに詠み、政治では大隈内閣を支持し、山県有朋と対立した。

愚昧なエピソードと英邁なエピソードがないまぜになっているように見えます。

 

徳仁も幼少時より複数いましたし、、

※掲示板よりお借りしています。

左:徳仁2号、右:徳仁1号、同じ時期に複数の美智子、徳仁が確認されてます。

 

成人後と比較してみます。

上:徳仁1号、下:徳仁2号、

 

愛子さんも生誕時より少なくとも2人のダブルが用意されていました。

まあ、こういう偽皇統ですから、皇族にダブルを用意するのは伝統だったのかもしれません。

 

日本は、天皇親政でも政党政治の国家ではなく、山県有朋の独裁政治の国家だった

『日本の本当の黒幕』鬼塚英昭

 

私は「オレンジ計画」について後述するが、大隈内閣は「英米協調主義」をとった。一方、山県有朋は「オレンジ計画」をアメリカに推進させるような、黄色人種連合を中心とする範英米協調外交を撮った。大正天皇はこの外交に日本の危険きわまる未来を意識し、山県有朋を政治の中枢から遠ざけようとした。

大隈重信は山県有朋の辞任要求を受け、加藤高明を首相にし、自分は引退すると、山県有朋に言った。

日本人は知らなければならない。伊藤博文が死んだあと、最終的な首相任命権は山県有朋が持っていたことを。明治大帝といわれた男はマリオネットであったということを。日本は、政党政治の国家ではなく、山県有朋の独裁政治の国家であった。

山県有朋は、元老松方正義、大山巌、西園寺公望の同意を得て、

後継首相に寺内正毅を任命する。

大山巌はこの後、大正5年(1916)12月10日死亡している。このときから、日本は中国という国家に深くかかわっていくのである。それはまた、玄洋社=黒竜会の右翼団体が政治の中枢と複雑にからみあって飛躍していくのだった。

 

私は大正天皇は英断力をもった天皇だったと思っている。鈴木壮一の『アメリカのオレンジ計画と大正天皇』(2012年)から引用する。

山県有朋が「元老主権」の圧倒的な腕力をみせて寺内正毅を後継者首相に据えると、大正天皇は「天皇主権」を侵犯した山県有朋を嫌悪。大正5年12月以降、3回にわたり、山県有朋に、

「ところで、枢密議長の辞表は、いつ提出するのか?」

と枢密院議長辞任を勧告。逆襲に出た。その後、対しょつ延納は首相寺内に対して、

「山県有朋は人望を欠くのではないのか」

と尋ねている。

転載以上

 

・大正天皇、大隈「英米協調主義」

・裕仁皇太子、山県、西園寺、牧野など「反英米協調主義」

の対立があり、大正天皇派が破れることにより、第二次世界大戦につながっていく道ができたのかもしれません。

大隈重信は大正天皇の実父ではないのかという説もあり、、、

 

裕仁皇太子派の元老・西園寺公望の系図は、、

・東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━政煕━政通━徳大寺公純━西園寺公望

となっており由緒ある公家さんなのですが、西園寺公望の養子の一人が旧長州藩主毛利元徳の八男八郎。鬼塚史観では、貞明皇后の「お相手」であり昭和天皇の実父ではないかと推測されています。

仮に西園寺八郎が昭和天皇の実父であるという鬼塚氏の推測がただしいとして、なぜ、華族の毛利家出身の西園寺家の養子を、次期天皇となる皇太子の種親に選んだのかは不明です。八郎という平民臭い名前のこのかた、毛利家の出身でなく例の田布施のかたなのかもしれませんね。

噂や推測がじじつなら、通説とは違った絵が見えてきそうです。

 

1918年(大正7年)11月11日第一次世界大戦が終結。

日本は戦勝国側にありました。日本の国際的地位がますます固まります。

 

1921年 大正天皇の御容態にかんする発表

当時の宮内庁は、大正天皇が御容態がよくないこと(歩行困難、記憶力の減退など、)を発表していますが、実際の大正天皇はそつなく公務をこなしておられました。

しかし、牧野宮内大臣(麻生太郎、三笠宮信子の曾祖父)は、何らかの形で大正天皇を追い込み、「疾患のため皇太子裕仁を摂政にする」と発表します。平成の生前退位のクーデターと酷似しています。

『日本の本当の黒幕』鬼塚英昭

P153~

四竃考輔の『侍従武官日記』(1980年)から引用する。

大正10年10月4日

聖上陛下ご容態第4回発表あり。次の如し。

陛下御容態は本年4月の発表の当時にありては御栄養其他ご神体の御模様御よろしき方にあらせられしが、其後引き続き御静養中にして、ご体重、御寝食等は依然御変わりなく、入御後の御運動は日々遊ばさるるも其の時間減少し通常歩行の場合にも側近者の扶助を要せらるることあり。其つ御態度の弛緩および御発語の故障も近頃其度を増させられ、また動(やや)もしれば御倦怠起こり易く、御注意力、御記憶力も減退し、要するに一般の御容態は時に消長を免れざるも概して快方に向かわれざる様拝察し奉る。

 

 

 

・大正天皇の御容態について、歩行困難、態度の弛緩、発語の故障、などの症状は隠しようもなくなったと言う内容の4回の発表があった。

 

続きます。

陛下はご幼少の時、脳膜炎様の疾患に罹らせられご成長の時機よりご成年後に於いても屡々御大疾をご経過遊ばされし為め、御摂生を専一としご健康を害せられる様と注意申し上げ、爾来ご健康を保たれらるるに至れるも、大典の頃より御政務多端と相成、内外御診稔あそばさるること大きに従い、ご心身ご過労のため御精力幾分衰えさせられ近時においては前記の御容態を拝するに至れるは誠に恐縮にたえざるところなり。

右に付号外を発したる諸新聞あり。特に読売のごときは御容態をご重体と誤りたるを以て世情を騒がしたること甚だしく、或る株式のごときは為めに暴落せるものさえ生ずるに至れり。

 

・大正天皇は、幼少時に脳膜炎様の疾患にかかり成長期より成年後おしばしば大病を患った。天皇は、即位後は心労と過労のため消耗し、前記の御容態にいたる、と号外を出した新聞がでた。

・読売新聞は御容態を重体との誤報をもって世間を騒がせ、そのせいである株式が暴落した。

 

10月05日

聖上陛下は海軍御通常礼服にて右覆奏を聞し召され、また午後平沼大審院長、鈴木健二総長の信認に臨御あらせらる。

是等の儀式新聞に発表ありたるを以て、昨日世人をして恐縮措く能わざらしめたる御容態発表の件も、大に其の危惧を解きえたるものの如し。宮中には天機奉伺者陸続参内せり。

 

右の文章を読んで読者は牧野伸顕宮内大臣をどのように思うであろうか。間違いなく大正天皇は正常だった。しかし、牧野伸顕は内閣総理大臣・子爵高橋是清とともに、大正天皇を追い込み、11月25日、「朕恒紀に亘るの疾患により大政を親らすこと能わざるを以て、皇室会日および枢密顧問の儀を得て、皇太子裕仁親王摂政に任ず」とするのである。これに対し、四竃考輔は次のように『日記』(11月25日)に記している。

 

 嗚呼、なんたる発表ぞ。昨日までは叡慮文武の聖上と其の御聖徳を頌しつつ、今日俄然比の発表あり。宮内省の言う所、信を措くに由なしと世の攻撃ある場合、宮内大臣はいかなる釈明をなして世に謝するを得るべきか。

転載以上

 

「嗚呼、なんたる発表ぞ。昨日までは叡慮文武の聖上と其の御聖徳を頌しつつ、今日俄然比の発表あり。宮内省の言う所、信を措くに由なしと世の攻撃ある場合、宮内大臣はいかなる釈明をなして世に謝するを得るべきか。」

この憤慨は、平成の世の、生前退位、皇太子に小和田雅子内定、眞子様と小室圭との婚約、などに通じますね。

独裁者山県と対立するほど気骨のある英邁な大正天皇が、脳の病であるとさかんに拡散され、宮内省から正式に「御容態について発表」がありました。管理人は、「平成の生前退位」に似たクーデターだったと思っています。

 

そして、大正天皇は、宮内庁の発表通りの症状になっていくのですが、、

コメント欄より(一部抜粋)

もう一点。
その他の戦前でも早世された宮様、或いは“気の病”とされた宮様、が結構たくさんいらっしゃいました。
大蔵省を調べてましたら、戦前の専売局は大蔵省の管轄で、要するに、税収以外に自分達で富を生み出してました。
台湾統治運営や、日本本土にもたらした富のひとつに、防虫剤でも使われる『樟脳』の専売がありました。
樟脳は、プラスチックが発明されるまで、セルロイドの主原料のひとつとして、世界中に輸出されてたようです。
この『樟脳』ですが、、

wiki
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%9F%E8%84%B3
(参照)
《樟脳は皮膚から容易に吸収され、そのときにメントールと同じような清涼感をもたらし、わずかに局部麻酔のような働きがある。
しかし、飲み込んだ場合には有毒であり、発作・精神錯乱・炎症および神経と筋肉の障害の原因になりうる。
有毒物質を飲み込んでしまった際の応急処置として、消化器保護のため牛乳を飲ませる事があるが、樟脳は脂溶性であり牛乳に含まれる乳脂肪分との作用で体内に吸収され易くなってしまうため、樟脳誤飲に対して牛乳を飲ませることは禁忌である。》

突然亡くなられた方達や、気の病になられた方達の症状によく似てる‥‥気がします。
また、樟脳は心臓のカンフル剤でもあったようです。
と言う事は、量を間違えれば、心臓発作をおこせるのでは?と思います。
アヘンのルートを探っていたら、違うモノに、「あれっ?」
て感じです。

以上

 

ズバリかもしれませんね。

大正天皇が、クーデターのあと、樟脳のような何らかの毒物を盛られていた可能性は十分にあったと思います。

続きます。

 

ニセモノが天皇に即位?