秩父宮雍仁親王⑦父・大正天皇の死と柳原愛子(上)

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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※画像は管理人が貼っています。

一般的に流布されている貞明皇后像

『秩父の宮と昭和天皇』(1985年) 保坂正康

貞明皇太后は、4人の皇子を生んだ自信とともに、天皇家に伝わる人格を無視した側室、局制を形骸化させ、天皇家の婚姻を一夫一婦にしたことは特筆すべきことであった。同時に病弱の夫を支え、4人の皇子達との家庭的な語らいを大切にしている点も、それ以前の天皇家の歴史にはないことである。

近代天皇家の<表>の顔の確立者を明治天皇とするならば、めいじてんのうの息子の嫁、つまり貞明皇太后こそは、近代天皇家の<裏>の顔を確立した人ということができるのではないだろうか。天皇家に息吹を持ち込んだ人とともいえる。

大正天皇の死の枕頭に柳原愛子を呼び寄せたことや、摂政宮、秩父宮の妃殿下選びに率先して口をはさみ、自らの指導で結婚を実らせたこともそのいい証左となるだろう。

転載以上

 

「脳病」とレッテルを貼られた大正天皇はすべての決定から除外されており、皇室の実権を握っていたのは貞明皇后でした。

 

大正07年1月14日皇太子妃内定

『天皇のロザリオ』 鬼塚英昭

1918年(大正7年)の一月のある夕べ、15歳の少女が皇太子裕仁と宮中の庭を約30分ほど散策した。

(中略)少女の名は良子女王といった。皇族の一人久邇宮邦彦親王の長女であった。

その前年の11月、貞明皇后は、当時学習院女学部の中等科3年生の良子女王に会っていた。その年の12月末、宮内大臣波多野敬直は、皇太子冊立の内諾を得るために久邇宮邦彦親王に会う。裕仁、良子初見合いの後の1918年(大正7年)1月14日、皇太子妃内定。2月4日、新聞紙上での発表となった。

この内定に裕仁の父、大正天皇はかかわっていない。すでに大正天皇の脳病は進行中であったからである。

転載以上

 

しかし、大正10年10月05日には、ごく普通にご公務をされています。

 

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しかし、大正10年10月05日には、ごく普通にご公務をされています。

大正10年10月05日 正常だった大正天皇

四竃考輔の『侍従武官日記』 

日本の本当の黒幕』鬼塚英昭 P153~

聖上陛下は海軍御通常礼服にて右覆奏を聞し召され、また午後平沼大審院長、鈴木健二総長の信認に臨御あらせらる。

是等の儀式新聞に発表ありたるを以て、昨日世人をして恐縮措く能わざらしめたる御容態発表の件も、大に其の危惧を解きえたるものの如し。宮中には天機奉伺者陸続参内せり。

 

右の文章を読んで読者は牧野伸顕宮内大臣をどのように思うであろうか。間違いなく大正天皇は正常だった。しかし、牧野伸顕は内閣総理大臣・子爵高橋是清とともに、大正天皇を追い込み、11月25日、「朕恒紀に亘るの疾患により大政を親らすこと能わざるを以て、皇室会日および枢密顧問の儀を得て、皇太子裕仁親王摂政に任ず」とするのである。

転載以上

 

同年11月20日 「アーアーと仰せになった」脳病の天皇

『牧野伸顕日記』

日本の本当の黒幕』鬼塚英昭 P161~

大正10(1921)年11月20日の日記は引用した。これと同じ時期、11月22日の『牧野伸顕日記』から引用する。

帰途内府を尾と訪い登城を依頼し、同伴聖上へ拝謁。内府より、御容態 捗々しからず、此上は尚一層御静養を必要とするに付政務は皇太子殿下、摂政としてご代理遊ばさるることとし、今後は何等御煩い不被在(あらせられず)、御気儘にご養生あそばさるる様願上度し(ねがいあげたし)、幸いご回復被為在(あらせられ)るときは元のごとく御親裁あそばるる次第なり、此事については皇族方もご心配遊ばされ、夫々(それぞれ)適当の手続きをお調べ相成、皇族会議をお開きになり、次いで枢密顧問の会議も開くことに進むる事と致度(いたしたく)、まことに恐縮限りなき事ながら此段申上御許を願い奉る旨言上にお呼びたるに、聖上陛下には唯々アーアーと切り目切り目に仰せられ御点頭(てんとう)あそばされたあり。

 

本当に「唯々アーアーと切り目切り目」に、大正天皇は「仰せられ」たのであろうか。

10月5日にはまったく正常の天皇がいた。急にまた、脳病の身になったのだろうか。大正天皇が崩御する大正15年のなかでこのことは詳述する。

転載以上

 

同年11月25日 宮内省の言う所、信を措くに由なし

四竃考輔の『侍従武官日記』 

日本の本当の黒幕』鬼塚英昭 P153~

これに対し、四竃考輔は次のように『日記』(11月25日)に記している。

 嗚呼、なんたる発表ぞ。昨日までは叡慮文武の聖上と其の御聖徳を頌しつつ、今日俄然比の発表あり。宮内省の言う所、信を措くに由なしと世の攻撃ある場合、宮内大臣はいかなる釈明をなして世に謝するを得るべきか。

転載以上

 

大正天皇と貞明皇后の懺悔の歌

『日本の本当の黒幕』 鬼塚英昭 P192~

大正天皇は英邁で心優しい天皇であった。しかし、子種がなかった。

それでも貞明皇后が生んだ4人の息子を可愛がった。しかし、貞明皇后は天皇のその優しい心を理解せず、男狂いであった。

それだけではない。権謀術数に長け、反長州ゆえに、薩州閥に近づくのである。自らクエーカー教徒となり、山川捨松(後の大山捨松)と牧野伸顕とともにクエーカー人脈を作り、日本を敗戦に導くのである。

読者はここでも知るはずである。今まで貞明皇后について書かれた本のすべては、貞明皇后賛美の本ばかりであったことを。彼女の出自に疑問をもつことなど決してなかったのである。

(略)

ひとつだけ貞明皇后の「ざんげ」の歌を記す。

 

いかにせむ ああいかにせむ

くるしさの やるせだになき

わが思ひ川

 

ここで私説を書いておきたい。三笠宮の父親、そして戦後に、寺崎太郎に自分の息子の就職の世話を頼んでいるが、この2人の父親を牧野伸顕であるとする。

その理由は、牧野伸顕は宮内大臣になり、さらには内大臣になるあg、彼の『日記』をみても数え切れないほどあっている。田中光顕は特別の場合以外には貞明皇后に会わなかった。美子皇后(明治天皇妃)は用事があると、香川敬三皇后大夫に会っていた。

問題がおこると、すべて牧野伸顕正が相談役となっていた。

私は大正天皇は脳病ではなく何者かに薬を飲まされて、しゃべれなくなったと思っている。その背後に、貞明皇后と牧野伸顕がいるとみている。

私の貞明と牧野伸顕の関係を問う説は、私の独断ではない。ねずまさしの『現代史の断面』(1991年) に次のような記述がある。

 

皇道派は、元老、重臣の暗殺計画を正当化するために、あらゆる口実をつかった、事実かどうか確かめないで、貞明皇后と牧野伸顕正、あるいは西園寺八郎(元老の養子)とのスキャンダルがあるように、噂を流した。

転載以上

 

 

大正14年06月04日 天皇の脳はやられていない

侍従武官長奈良武次の日記

『日本の一番醜い夏』 鬼塚英昭 P429

侍従武官長奈良武次は、死の直前の大正天皇に幾度も(毎日のように)会っている。彼の日記を再び見ることにする。

 

大正14年(1925年)6月4日

御前10時20分聖上(大正天皇)出御、拝謁、御変わりなくお元気なき様拝す。

——西園寺(八郎、式部次長、東宮職御用掛)、阪口(鎮雄、皇宮警視、東宮職御用掛)と協議し午後5時半に到る。

 

西園寺八郎は式部次長となり、東宮職御用掛けとなっている。

11月になると大正天皇は歯痛を訴え続けている。頭痛ではない。脳はやられていないのである。

転載以上

 

大正14年11月20日 親王との関係

侍従武官長奈良武次の日記

『日本の一番醜い夏』 鬼塚英昭 P429

11月20日

聖上、別にお変わりはあらせられず、三人の御扶助にて室内御歩行御練習の由。

 

8月10日に大正天皇は葉山へ行幸する。私は奈良武次の日記を読んでいて、不思議に思えてならなかった。彼は天皇に連日のように会い、会話をする。しかし、重病になっても、皇太子も高松宮も三笠宮も、大正天王を見舞っていないのである。(秩父宮はイギリス留学中)

皇太子は葉山に行く天皇に会っている。それも一時間ほどだ。奈良武次はその時間も克明に記している。葉山へ車で宮城を出るときもこの3人の皇太子達は見送りもしない。葉山には2回ほど東宮が訪れる。この時も一時間ほどしか大正天皇に会っていない。

私は彼の日記を読みつつ思った。この4人の子供は大正天皇と全く関係がないと。そして思った。たとえ血がつながっていなくても父子の情が少しくらいあってもいいのではないのかと。

また、こうも思った。大正天皇は、脳病で死んだのではなく、何か妙な薬を飲まされ続けてしゃべれなくなったのではないかと。死ぬまで脳は冴えていたのだと思っている。奈良武次の『日記』がその証となろう。

転載以上

 

保坂正康氏は雑誌の対談で、生前の昭和天皇は、記者から質問されれば門切形の返答をするが、自ら大正天皇を触れて語った記録がひとつもないと指摘しています。

「冷たい人だなあ」と思ったと。

大正天皇と、4人の親王たちとの「家庭的な語らい」というものがあったとは思えません。親王同士は、ほとんど会うことがなく、会うときは義務的な儀礼の場だったり、必要があって会うときは、たいてい口論していた傾向があるようです。

大正天皇が重篤な「脳病」になられたあと、妻の貞明皇后は宮中で実権を握り采配を振るっていましたから、当然、夫は放置。女官、侍従まかせ。

皇后は、生母の柳原愛子を呼び寄せ看病させますが、、、

長いので別けます。

 

ニセモノが天皇に即位?