正田美智子と美智子の母と中国
正田美智子と台湾人女性との交流
美智子さま “交流33年”女医が明かす「極秘相談」(女性自身 12月27日(火)8時12分) Name 名無し 11/12/30(金)11:15 ID:TuAH3YCI No.394117
美智子さまと台湾人女医・荘淑旂さんの交流は33年前にさかのぼる。1978年、皇太子妃だった美智子さまが、荘さんを東宮御所に呼ばれたのだ。当時、健康を損なわれ、体重が激減していた美智子さまは、荘さんの著書も読まれ、彼女に助言を求められた。
さらに1993年に美智子さまが失声症になられたときにも御所から連絡があり、荘さんはすぐに駆けつけ、ストレス軽減の方法を提案している。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111227-00000306-jisin-peo
左:1993年9月15日、ドイツ、ベルリンのブランデンブルグ門にて。両陛下の浪費(吹上新御所建設)について、叩かれていた頃。失声症を患う一ヶ月前。
右:皇后さまの健康アドバイザー、台湾人女医・荘淑旂。
以上
「1978年、皇太子妃だった美智子さまが、荘さんを東宮御所に呼ばれたのだ」
・・・・まだ、正田美智子の母・富美が生存していたころですね。富美は、中国人でイギリスのスパイだった疑惑のあるかたです。
正田美智子の母・富美は、中国人が経営するビル内の美容院に通っていた
闇市の帝王 七尾和晃
第五章 封印された「戦後」P208~
ところで、虎ノ門のホテル・オークラにテナントを構えている与儀美容室も戦後の一時期、王の黄色合同会館に店を構えていた。
与儀美容室は現在も、皇室ご用達として日本でも有数の格調高い美容室である。王は回想する。
「与儀八重子さんは沖縄の出身で、そこで銀座で沖縄料理屋を3件も経営していた宮城あきこさんの紹介でうちに入ってきたの。昭和27年から33年くらいかな。ワンフロアを月に35万円くらいでかしていました。髪を結わう女の人の椅子が10くらいあったんじゃないですか。
結婚する前の正田美智子さんのお母さんもきてましたよ。で、美智子さんは待っている間、私の部屋であそんでおったわけ。三階の社長室は応接間がでかいから、そこに座ったり、本を読んだり、雑誌を読んだり。
その美容室には秩父宮勢津子さんもきていて、そうしたら勢津子妃が『あの子を皇后(※原文ママ)にするから』って言って、そんな話がでて1年か2年くらいしたら、本当に婚約しちゃったの。
だから、美容室にもこれなくなったわけよ。皇后(※原文ママ)になるものだから、護衛が付いているから」
婚約が発表されたのは1958年11月27日だった。
転載以上
正田家と満州
上海租界で誕生と書いてますね。正田富美は、大陸夫人、上海夫人と呼ばれていました。
伏見氏は、富美がこの年代の女性にしては異様な長身であること、美智子以外の子供たちもまた長身であること、そして、富美の白人とのハーフのような顔立ちからみて、富美が上海租界のイギリス人と現地人の子供ではないかと推測されています。
wikiより
1909年(明治42年)9月29日、中支那振興の常務理事であった副島綱雄の長女として生まれる。出生時の名前は副島富美。上海の日本人北部小学校に通学をしていた[4]。その後、麹町区の雙葉高等女学校を卒業した。
しかし、過去記事にも書きましたが、当時の上海の日本人名士の中に副島の名前がないのです。
コメント欄に読者様より、皇太子妃に内定する前に正田富美が、「戸籍を売ってほしい」と佐賀の名家の副島家を尋ねてきた。しかし副島家は断った、というお話をいただいたことがありました。
・美智子は幼少時よりピアスをしている。耳に穴が開いているのは、パンパンといわれた米軍専用の娼婦か、中国人だけ。
・新婚のころ、美智子は皇太子のために餃子を作った。
・正田美智子が通った美容院のオーナーは、美容院が入っているビルの所有者であり、上海と関係の深い中国人だった。
・富美と同年代の日本男子の平均身長が153センチ前後、富美は170センチちかい長身。
・白人の血が入っているような顔立ちで、皮膚の色がアジア系としては異様に白い。
・富美の生んだ長男、次男、次女は、いずれも日本人ばなれした長身、顔立ち。
・富美は「上海婦人」「大陸夫人」と呼ばれていた。
謎の多い人です。履歴のほとんどが嘘だと思います。耳が耳たぶのないとがった朝鮮耳なんですね。中国朝鮮族か、半島から大陸に流れてきた人かもしれません。
あれだけの美人なのに、若いころの写真が出てきません。例えば、髪をブロンドに染めて芸能関係の仕事をしていたり、高級コールガールなどの職業についていた可能性もあると思います。
正田富美が、中国人であることは間違いないでしょう。
そして、スパイだった可能性が高いと思います。