㈠ 国体明微維神の道を立つるには、高松宮殿下を擁立しなければならぬ。
裕仁さんはダメなので、高松宮でいかないとダメ、ということなんでしょうが、、、
何故、東久邇家の血を引くとされている秩父宮が無視されているのか、仮に秩父宮が大正天皇の実子だったとしても、やはり無視されています。
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確実に正統な皇統の血を引いていた養子・高松宮
㈠ 高松宮の生霊——宮様の御生母である大正天皇の女官の死霊。山内源作、小森雄介等よりきく云々。
鬼塚史観では、高松宮が有栖川宮家からの養子だろうとされています。これには納得がいくことが多いです。
有栖川宮家は断絶するのですが、
・有栖川宮の祭祀および財産は、大正天皇の特旨によって第三皇子の光宮宣仁親王により引き継がれ、宣仁親王には有栖川宮の旧称である「高松宮」の宮号が与えられた。
・第二皇子の光宮宣仁親王は20歳になったとき、秩父宮家を創立。しかし、第三皇子の光宮宣仁親王が高松宮を創設したのは、3つ年上の兄の宮家創立より9年前の1913年(大正2年)のことである。
・宣仁親王が旧有栖川宮家の祭祀を継承するため、最後の有栖川宮威仁親王の薨去直後に宮家を創設したことによる。
実父が大正天皇、東久邇宮、どちらであっても、皇統かどうかは秩父宮は怪しい?
仮に、鬼塚氏の推測通り、東久邇宮稔彦さんのお子さんだったとしても、朝彦氏の65歳の時の子供が、東久邇稔彦さんとなると、かどうかちょっと微妙ですね。
仮に、稔彦氏が久邇宮朝彦氏の実子でなかったとしたら、秩父宮の立ち位置はずいぶん変わってきます。
『日本の一番醜い日』鬼塚英昭 P407 ~
笠原
『日本暗殺秘録』は昭和44年でしょ。その5年後の昭和49年の12月に、街頭でバッタリと河野司さんに会って、「実はちょっと話したいことがある」といわれてバーに連れていかれたんですよ。「潜水艦」という軍関係のバーなんですけどね、このバーなら大丈夫だと河野さんが話し出したんですけど、「実は今、東久邇さんと会ってきたんだ」と。
東久邇さんは戦後最初の首相だった人ですけど、その人に聞いてやっと事件の真相がわかったと、つまり河野さんとしては、なぜ、弟たちがああいう事件を起こしたのかをずっとしらべていたわけですよね。
で、それは何だったかというと、結局2.26自県というのは壬申の乱だっただと。つまり大正帝に子供が出来なくて、貞明皇后に何人か男をあてて、それで子供を産ませたといったというんだね。「だから、ずいぶん、あの兄弟は顔が違いますよ」と。
笠原
それで、秩父宮さんもそういう自負を持っていたわけですね。若いときから、兄貴よりも時分が皇位を継ぐべきなんだと。それで自分に協賛してくれる人がほしいということで陸軍の中に入っていくわけですよ。彼は陸軍の将校でしたけれど、例えば安藤輝三退位は非常に秩父の宮に恩恵を受けたりしてね。
転載以上
226事件の首謀者として処刑された安藤大尉の最後の言葉は「秩父宮万歳」だったとか?
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昭和7年 右傾団体にかかわる東久邇宮を案じる秩父宮
『日本の本当の黒幕』 鬼塚英昭
昭和7年(1932年)8月25日の『木戸日記』については2度引用した。あまりに長い。ここで引用しつつ解説する。
木戸幸一は背後関係を調べようとする。山本達雄内務大臣や松本学警保局長に会う。松本警保局長は木戸幸一に次のように語る。
「而(しか)して此背後に何等かの勢力があるにあらずやという点については確乎たる見当はつかざるも、どうも柴田徳次郎一派の団体及び軍人も総統田中邸に出入りし居り、且つ先般水戸の記念館が財団法人となりたる祝賀会の際、東久邇宮が赴かれ、当時、田中と同路、愛郷塾へ赴かれたりとの話もあり、相当右傾団体の手先となれるにはあらずやと思われる。この点は余程注意すべき点だと思う」
(中略)
ここでまた、秩父宮と東久邇の関係がみている『日記』がある。『原田日記』「昭和7年9月12日」である。秩父宮が原田熊雄に、木戸幸一から田中問題について聞いてくれといっている。秩父宮は東久邇宮が重大な事件の容疑者の主宰する愛郷塾にいったことは遺憾であると心配している。
2人が父と子であることがこの一件でもわかるのである。
以上
226事件の意味
226の真相は、「正統な皇統である次男殿下を天皇にするための「壬申の乱」だった」、と、いわれた226事件でしたが、秩父宮が皇統でもなんでもないのなら、秩父宮の正統性が失われます。
秩父宮が、226で反乱をおこした将校たちに対して約束していたこと、、、、
・クーデターが成功したら、天皇制は廃止する。
・自分はしばらくは大統領のようなものになる。
・その後は、国民がきめるべき。
と、言っていたそうで、秩父宮の出自の怪しさを考えると秩父宮の言動が理解できます。
ようは、秩父宮は、なにもかも更地にして終わりにしたかったんじゃないでしょうか。
さらに、気になるのは、226の決起が失敗したとわかったとたん、決起した将校兵士にたいして、「自害せよ」と通達を出しているとされてます。こういうのは、公家的じゃあないなあ、と。
表向きの系図は、、
鬼塚史観による裏の系図は、、
西園寺八郎
・1881年(明治14年)、旧長州藩主・公爵毛利元徳の八男として誕生。
・1899年7月、学習院中等科を卒業。同年、伊藤博文、井上馨らの仲介により、公爵西園寺公望の養子となった。
毛利 元徳は、天保10年9月22日(1839年10月28日)生まれですので、42歳の子供でしょうか。
しかし、8男とはいえ、八郎という武家でも公家でもなさげな名前を通した理由って何でしょうね。
この方、やっぱり、例の陰謀の里「田布施」の人なんじゃないでしょうか。
「光宮」宣仁親王
ちなみに、例のタブセと隣接している「光市」という地名があります。
1 1889年 光井村を形成
光井村(みついそん)は、山口県熊毛郡にあった村。現在の光市大字光井などにあたる。
2 1939年 島田村+浅江村+光井村が合併し、周南町→光町に改称
3 1943年 室積町+光町→合併して光市
秩父宮は「光宮」でしたが、「光」が、田布施のあたりの土地と関係があるのかないのか、ちょっと不明です。
再度掲載しますが、、
鹿児島の田布施出身の小泉純也(元首相の父)
ちなみに、小泉純一郎の父の純也は、鹿児島の士族鮫島家だと勝手に名乗っていますが、鮫島家とは何の関係もない人で、実際は、市町村合併して名前が変わる前の名前は「田布施」の「番世」の出身でした。「田布施」はなにか朝鮮語で意味があるのでしょう。「番世」は「万歳」マンセー、朝鮮語からきてるんでしょうね。
秀吉の明征伐のおり、日本連合軍は朝鮮半島に上陸して戦争になりましたが、帰国するとき、陶工のほかに荷駄を運ぶ奴隷のような扱いで捕虜を連れてきました。
陶工は朝鮮半島では奴隷であり軽蔑される存在でしたが、日本では最新技術を持つ技術者として尊ばれ、下級武士と結婚もできたし、士族に近い身分で扱われ大事にされていましたが、技術をもたない一般朝鮮人捕虜は、そうはいかなかったようです。
陶工の家系でもない小泉純也が朝鮮人が住んでいた部落は、大事にされていない朝鮮人の部落だったそうです。身分のやかましい土地でしたから、日本人との混血通婚はありえず、小泉純也の出身部落は、純度の高い朝鮮の血統により構成されていた純粋な朝鮮部落だったそうですね。
・そこからでたヤクザが、横須賀の政治家に化けた極道の小泉家の婿養子になり、防衛大臣になる。
・その息子が総理になる。
・その息子も総理になろうとしている。
旧時代の被差別民が出世するのは、民主主義の時代ですし、それは別に問題はないのですが、そういう隠しておきたい過去や出自を持つ人間が権力を握ると、小泉家や、竹中平蔵はじめ、なぜか、国と国民に害をなす例が多いのがもんだいです。
「たぶせ」という土地の名前は、朝鮮語から来ていそうな感じですね。意味はわかりませんが。
話がそれましたが、まだまだ、続きます。