【皇室】(4)岩崎弥太郎にしかみえない明治天皇の肖像画

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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続きです。

戦前生まれのかたの回想をよむに、大正から戦前までは、格差はあれども、階級の上下を問わず風紀はゆるやかだったようにみえますね。

 

貧しい朝鮮の家に生まれ、16歳で日本へ渡り苦学して東大へ入学したあと官僚になり、戦後は大韓民国につかえたエリートの自伝です。大日本帝国といわず、日本帝国としているところに、イラっときますが、、、、

こちらの自伝を読むと、当時は、上流の子女でも、独身の男女の軽い意味での交際も普通に認められていて、日本人と植民地人である朝鮮系の方との交際や結婚も普通に認められていたのがわかります。

明治以降、歴代の首相は同和系だったとされる人が多いのですが、そのひとつ鳩山家の嫁の使命は、息子を東大に入れることだそうです。ようは、勉強ができて、東大にはいりさせすれば、旧被差別階級だった家の子でも、朝鮮系、中国系など外国からきた人たちも、支配層の側の人間になれて、出自ロンタリングが可能だということだと思います。

実際、この作者さんは、日本に渡り、苦学して東大へ入り、エリート官僚となるのですが、上流のお嬢さんと、観劇にいくなどの軽いデートを楽しみ、上流のお嬢さんとの縁談を持ち込まれています。ご縁談を受け入れれば、婿養子として代々日本人の家の戸籍が手に入り、ロンタリングが可能だったのですが、結局、朝鮮人として生きることを選びます。

 

レビューより

著者は日韓併合時代に日本に渡り、牛乳配達や人力車夫などで生計を立てながら、学問を修め、官僚へと栄達する。

著者は、本書に書かれる著者自身の事を、あたかも他人のように突き放し、バクトウと三人称で書いている。悲惨さのなかにも客観に徹しているので、なぜかユーモラスに人生を楽しんでいるように読める。

出身地の朝鮮半島では、日本人から不平等な扱いを受けるものの、内地では学費の援助等、岩波茂雄をはじめとして多くの日本人に助けられて、学問を修める事が出来た事、日本人の友人との切磋琢磨する様子が美しく描かれている。

虐げられている朝鮮人民の生活が少しでも助けになるように、著者は朝鮮総督府の官僚として活躍する。

やがて敗戦を迎え、著者は日本に協力した人間として苦しい立場となっていく。

朝鮮動乱の描写や、李承晩の人物像も書かれている。特に日本の敗戦から、朝鮮の独立に向けての様々な派閥、有力者の動きと挫折。李承晩政権に落ち着くまでが、興味深く読めた。朝鮮総督府の元官僚から見れば、稚拙に思えた事だろう。また、ソウルが陥落し、共産党支配下での逃亡劇は、恐怖である。

著者は、地上戦を経験する事の恐ろしさを何度も繰り返し指摘している。お互いを信頼できなくなる恐怖。読みながら、地上戦を経験した沖縄と「本土」との微妙な温度差が埋まらないのは、地上戦経験の有無かも知れないと感じた。

日本統治時代について、何事も悪し様に記すのではなく、是々非々で評価している。あの時代を実際に体験した人の記録として、本当に価値のある本だと思う。

以上

 

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日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想  任文桓

※画像は適当に管理人がはっています。

P205~

 

愛と星と民族

岡山の六高にかよっていたときから、教会の関係で岡山高女の生徒であった酒井美智子嬢と知り合い、バクトクが親しく交際していたことはすでに書いた。酒井嬢はゆったりした性格の割合に学校の成績はよく、容姿も端麗で、女生徒の中では目立つ方だったが、人前に出しゃばるのが嫌いで、しとやかで口数の少ない女人だった。

バクトクが東大にはいった年に、彼女も東京の音楽学校に入学した。寛恕は葛飾にある結婚した姉の家からやはり省線電車を利用して、音楽学校へかよった。2人が御茶ノ水駅で落ちあい、神田あたりをぶらつき、食事をしたり映画を見たりして楽しい時間を分け合うことが、月に2,3回はあった。洋装を嫌い、和服に紫色の袴をきちんときこなして現れる彼女は、みるたびに女に成熟していき、バクトクの眼を眩しくした。

(中略)

バクトクが丸坊主になって、その年の9月に東京へ戻ったとき、彼女は一目で事の成り行きを察した様であった。何も問われないのに、バクトクが進んで「全ては終わった」と知らせたとき、彼女の顔には一瞬、光が走ったようであった。

(中略)

バクトクが東大三学年の3月に、6月にあるべき高文の筆記試験に備えて、勉強のため千葉県太海にあるお寺に向けて出発するときは、彼女は上野駅まで見送ってくれた。

バクトクが6月の筆記試験に合格し、10月の口述試験にも合格して行政科合格者70余人のうち、彼の席順が16番であることをしらせたとき、彼女の顔は珍しく明るかった。そしてその次にあったとき、どこでどう調べたのか、彼女は「16番ならば、大蔵省を除いて内務省か商工省に入れば、同僚の内トップを走ることができるそうです」といった。バクトクは、これに対して何も答えずただ笑ってわかれた。

美智子さんの話は本当であろう。今までのバクトクの努力をもってすれば、同僚中のトップを走ることもできよう。そのための手段も、目の前に待ち構えていた。バクトクを久しく待っていた酒井嬢と夫婦になり、婿養子として姓を酒井に買えさえすれば、植民地人の名は消え、日本人として法律上一人前の人権が備わる。それに、己の身を民族という血のつながりに固く縛り付けている彼ではあったが、それでも、彼の魂は6年の歳月を通じて深く知り合った異民族の女性を欲しがっていた。それに加えて「日本の役人になって朝鮮で働くことが兆戦の独立に役立つかね」と岩波茂雄先生にたしなめられて以来、彼が中学時代に過去帳に書き込んだ立志は、その後絶えず不安んに戦き、割れ目もでき欠けていた。今、彼が選択しさえすれば、一生の舞台を日の当たる南向きに転換させることが出来そうだし、そうすることを久しく待ち望んでいる一人の淑やかな日本女性がすぐそばに立っている。

(中略)

「いったい、法律上の日本人になれるからといって、社会的にも一人前の日本人になれるだろうか。恐らく、世俗の風習はこれを見逃そうとはすまい。この不評の嵐は、日本人と彼故国人との両側から吹き付けてくるに相違ない。そればかりではない、いったい全体、幼いころ食事を忘れるくらいに駆け巡るのが好きであった故郷の山河とそこに住む人に背を向けて、日本の中央政府の役人として植民地搾取の立案に平然と判子が捺せるであろうか。それはできない。できないことをしようとすれば、外部からはとにかく、己の内部からの自己破壊が急になろう」

バクトクは己の良心に背を向けて、生き続けるほどの大人ではない。彼の道ずれとなるべ女人の幸せを、このような荒波の中で守り抜くこともおそらくできまい。

彼には、生まれた身分を改造することはできそうにもなかった。仮に暗闇の中の牛のように足をむくまま改造するにしても、自身のはもとより、心から愛する美智子さんの生涯の幸福を保証できそうにもなかった。彼女は植民地と植民地人については何も知っていない。ただ、バクトクを愛するばかりに、実を深淵のなかに投げ入れ、日本人として生まれながらに備わる立派な一人前の人権を、半人前に切り下げようとしているのだ。バクトクのどこかに、彼女をそうさせるだけの権利や価値があるのか。

転載以上

 

バクトク青年は、東大を卒業し、拓務省を志願して採用が決まり、彼の立志したとおり拓務省から朝鮮総督府への出向事例をもらいました。いよいよ故国へ帰る日が迫った日に、美智子嬢から自宅へ食事に招かれます。しかし、結局、2人は別れることになります。

そのあと、バクトク青年は、京都と神戸行き、お世話になった家にあいさつを済ませます。お世話になった島村家では、岡山の資産家の照代嬢をお嫁にもらってほしい、と持ち出されます。照代嬢の家は資産家で、バクトク青年が苦学生だったころ、照代嬢の家に牛乳を配達していた時期がありました。照代嬢の兄は、岡山一中、六高、東大と名門校を卒業を控え、高文にも合格し朝鮮総督府の事務官となっていました。

こういう家から「娘をもらってほしい」といわれますが、バクトク青年は辞退します。

 

P210~

この話を断るのには、美智子さんの場合と異なり彼はなんら心の負担を感じる必要はなかった。話さなくてもすむことであったが、照代嬢の名誉をまもってやるために、美智子さんの長かった交際の結末をかいつまんではなした。

そして、照代さんがどうだこうだというのではなく、バクトクの生まれたところが悪いからだと、納得のいくよう説明した。それでも、翌朝出発するとき、照代さんと別れの挨拶を交わした時はつらかった。結婚はできないにしても、彼の価値を認めてくれた女人と、あるいは永久にあえない別れを告げたからである。

転載以上

 

こういう時代でしたから、あるいは、貧乏な皇族の女性が、学習院の生徒とはいえ平民の学生と交際していたのも不思議はないかもしれません。

 

『日本の本当の黒幕』鬼塚英昭

P137~

私はここで、貞明皇后が生んだ(産んだとされる)4人の皇子のことについて書くことにする。

『木戸幸一日記』昭和11(1936年)6月29日、「10時半廣幡大夫来・島津の件につき相談す」

「月日不明」(昭和11年12月31日の日記の後ろ記載されている)、「島津治子聴取書」とある。木戸幸一は、重要書題として後世に残すために特別に「月日不明」としたとみられる。

 

島津治子(本名・はる、1878~1970)は、島津久光n長男珍彦と、島津斉彬の四女典子の間に生まれる。

島津治子は18歳のとき島津長丸男爵(のち貴族議員)と結婚する。

大正13年(1923)2男4女の母としても家庭を守る。

昭和2(1927年)2月1日、夫長丸が急死し、依頼免官となる。

島津治子はこの後、角田つねちおう霊媒師の女性と出会い、新興宗教にのめりこんでいく。

「きよめの会」や「神政竜神会」などの新宗教に出会っている。

『木戸幸一日記』には島津治子の生地が多くみられる。ここでは全部省略する。

では「月日不詳」の「島津治子聴取書」のごく1部、もっとも重要であると判断したところをいかに記す。

 

㈠ 難波大助の死霊——許嫁の処女を奪う云々。

㈠ 秩父宮の生霊

㈠ 高松宮の生霊——宮様の御生母である大正天皇の女官の死霊。山内源作、小森雄介等よりきく云々。

㈠ 大正天皇の侍従の死霊——皇后のお相手——–八郎氏。関谷次官の談、九条家より質ねらるる云々。

㈠ 国体明微維神の道を立つるには、高松宮殿下を擁立しなければならぬ。

 

文中、「大正天皇の侍従の死霊——–皇后のお相手の八郎氏」とあるのは、西園寺八郎である。

転載以上

 

そして、鬼塚史観では、

㈠ 高松宮の生霊——宮様の御生母である大正天皇の女官の死霊。山内源作、小森雄介等よりきく云々。

このことから、高松宮の生母が女官であり、貞明の実子ではないこと。高松宮や、少年のころに断絶した有栖川の宮の財産を相続して宮家を創立したこと。大正天皇から、有栖川宮にゆかりのふかい「高松宮」を与えられたこと。などから、高松宮は有栖川家の養子であると推論しています。

㈠ 大正天皇の侍従の死霊——皇后のお相手——–八郎氏。関谷次官の談、九条家より質ねらるる云々。

貞明皇后のお相手の八郎氏は、西園寺八郎であり、昭和天皇の実父と推測しています。

この霊媒の霊言だけではなく、西園寺八郎と昭和天皇のエピソードや、当時の人たちの言動からみて、昭和天皇の実父は西園寺八郎だと結論付けています。

㈠ 難波大助の死霊——許嫁の処女を奪う云々。

難波大助の許嫁なる女性が、久邇宮良子女王だったとされています。

続きます。

 

ニセモノが天皇に即位?