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虎ノ門事件
※素朴な疑問として、なんで皇太子暗殺未遂の碑なんかが、堂々とあるんでしょうね。
1923年(大正12年)12月27日
日本の東京市麹町区虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた。難波大助は逮捕。
1924年11月13日
難波大助、死刑を宣告
同年11月15日
難波大助 死刑執行
虎ノ門事件の余波
・第二次山本権兵衛内閣は即座に総辞職
・警視総監、警視庁警務部長は懲戒免職
・山口県知事は二か月の玄昉
・大助が上京する際、立ち寄っただけの京都府の知事も譴責処分
・難波大助の父は参議院議員を辞職。門に青竹を結び、以降、一歩も外へ出なかった。
・周防村は喪に入った。
・大助の卒業した小学校の校長と教員も辞職。
コメント欄より
難波大助の兄は、虎ノ門事件当時、「岩崎小弥太」の元で働いており、直ちに辞表を提出したが、なぜか「その必要はない!」と小弥太に拒否されたと聞いたことがあります。小弥太の御先祖は・・・
以上
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『日本の本当の黒幕』 鬼塚英昭
P206~
この『別冊宝島』を引用したのは理由がある。平成25年の時点においても、1世紀もたっているのに、虎ノ門事件は事件発生当時とまるで同じように語り継がれていることである。
「1,難波大助の死霊——許嫁の処女を奪う云々」
私は田布施麻郷に近い地に住む松重揚江を訪ねたとき、この難波大助の件について聞いてみた。
大室寅之助を初めて世に問うた史家は私に次のように語った。
難波大助と良子女王が恋仲だったことは間違いのない事実だ。私が若いころ、難波大助の友人がたくさんいた。私は彼らに会うたびにこのことを聞いた。彼ら友人は皆、「裕仁に良子を奪われた」という難波大助の言葉を私に伝えてくれたんだ。間違いはない。難波大助は友人たちに「復讐してくる」と言って東京に出たんだ。
この「処女を奪われた」とする噂は全国津々浦々に出回る。警察は噂を伝えたとして多くの人々を留置場に入れたり、刑罰を与えても、噂は一向に収まらず、むしろ増加していった。どうしてこんなうわさが拡大したのか。
多くの日本人が、明治、大正、そして昭和と続く三代の天皇に、何かしらぬが”胡散臭さ”を感じていたにちがいないからである。
難波大助は大室寅之助が明治天皇になったことを知っていたと私は思う。そこに彼は日本という国家の悲劇を見て育ったのである。「あの大室寅之助の孫めが」と口に出せず、あらぬ言葉を口にしたと私は思っている。
転載以上
「裕仁に良子を奪われた」、、、
田布施閥の難波大助にとっては、明治以降の天皇家の正体を知っているからでしょうが、天皇家の皇太子といえども、「裕仁」とは、その程度の存在で、難波大助は、裕仁親王を下にみていた感じがしますね。畏敬も遠慮もありません。
「多くの日本人が、明治、大正、そして昭和と続く三代の天皇に、何かしらぬが”胡散臭さ”を感じていたにちがいないからである」
戦後より戦前のほうが、皇室に関する情報は拡散してた感じですね。普通にお年寄りが銭湯で、明治天皇がすり替わったことを話題にしていたそうです。
さらに、伊藤博文を暗殺した朝鮮人テロリストによる、伊藤の罪状の一つに、「孝明天皇を毒殺した」ことをあげています。
転載続きです。
難波大助の父作之進は山口県でも有数の地主で参議院議員であった。
久邇宮邦彦王は貧乏な華族だった。
大助と良子の間になんらかの接点があっても不思議はない。私はたぶん、両家の間では「ゆくゆくは、、、、、」との約束があったとみている。
そこに、岩崎小弥太と
田中光顕が久邇宮に話を持ち掛けた。
欲深い久邇宮はこの申し出を受け入れた。
何よりも貧しい生活を改善してやらねばならない。そこで、「花御殿」を三菱が作ることになった。
貞明皇后が田中光顕からの申し出を受けれいた。
会津魂がよみがえったのである。「長州憎し」である。難波家との縁談はなかったことになった。
転載以上
前回にも書かせていただきましたが、ユダヤ系ゴールドスミスの実子・ダイアナ妃と、ウィンザー王家のチャールズ皇太子と同じく、久邇宮家の良子女王と田布施の難波太郎のご縁談も、表と裏の「血の契り」だったのではないでしょうか。
いったい、田布施がどういうものかがわかるのが、ここから共産党の書記長を40年つづけた宮本顕治がでていることです
ネコ対ヒツジ