『日本の本当の黒幕』 鬼塚英昭
P202~
ここで、難波大助について描くことにしよう。私は前章の「貞明皇后の子供たち」の中で、木戸幸一の「日記」の中に、
「1,難波大助の死霊——許嫁の処女を奪う云々」
とあるのを書いた。この難波大助が皇太子を襲った「虎ノ門事件」について書くことにする。木戸幸一がこのことを『日記』に記したのは昭和11(1936)年3月31日の日記の後である。難波大助が皇太子裕仁を虎ノ門で仕込み銃でねらい撃ち、未遂に終わった事件は、大正12(1923)年12月27日であったから、13年の年月が流れている。それでもなお、この事件は語り継がれてきた。近代テロ事件の中でも最も謎に満ちた事件だからである。
転載以上
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「1,難波大助の死霊——許嫁の処女を奪う云々」
の難波大助の許嫁が、昭和天皇の皇后となった久邇宮良子女王だったとされています。
転載のつづきです。
P202~
大正12(1925)年は、すでに大正天皇は病気とされ、皇太子裕仁が公務を務めていた。摂政・裕仁親王として12月27日の第48帝国議会の開院式に出席することになっていた。皇太子を載せた自動車は議場に向かっている。
午前10時40分ごろには虎ノ門へ車が差し掛かった。
一方、難波大助は同日、午前8時20分、東京駅に降り立った。ステッキ銃を持っていた。この銃は伊藤博文がヨーロッパで購入したもので、難波大助の父がもらい受けていた。伊藤博文は若い日、難波家の下で足軽として働いていた。ステッキ銃とはステッキの形状をした仕込み銃である。難波大助は、東京中央郵便局で2人の親しい友人たちへ手紙を書き、ポストに入れた。友人の手紙で「これから決行にでかけるところだ。さらば友よ、健在なれ」と書いた。ステッキ銃をレインコートに隠して市電に乗り、桜田本坊町で飯田橋行きに乗りかえ、虎ノ門停留所で降りた。
午前10時35分、赤坂離宮を出発した車が先導車の後ろの来た。一人の男が沿道の群衆の中から飛び出し、銃をかまえた。難波大助であった。その銃で車中の裕仁を狙撃した。銃弾は自動車のガラス窓を打ち抜いた。だが、裕仁には当たらなかった。弾丸は裕仁の眼前をとおりすぎた。難波大助は「革命バンザイ」と叫びながら第二弾をねらったものの、警備を担当していた警官たちに取り押さえられた。群衆は難波大助に暴行を加えたが、警官が引き離した。彼の身柄は警視庁に移された。
これが、この事件のあらすじである。
「ステッキ銃を持っていた。この銃は伊藤博文がヨーロッパで購入したもので、難波大助の父がもらい受けていた。伊藤博文は若い日、難波家の下で足軽として働いていた」
難波大助が、例の田布施閥の人だというのが重要ですね。
P204~
難波大助は山口県熊毛軍磐田村出身である。難波家は地方の旧家で大地主であり、父親の作之進は参議院議員であった。
私はこの事件に関して、新説を発表してみようとおもう。それは難波大助の家が熊毛郡田布施麻郷、すなわち大室寅之助の生地からごく近いというおことと関係がある。難波大助は明治天皇が大室寅之助であることを知っていた可能性が高いと私は見ている。彼は中学生のころまでは皇室忠臣主義であったという。
明治天皇にすりかわった大室も、山口の朝鮮浮民の部落であった田布施から出ただけではなく、岸、安倍首相や、共産党の要人など、左右関係なく、多くのキーパーソンを出しています。
過去記事の転載になりますが、、
『日本のいちばん醜い日』 鬼塚英明
P391
大室寅之佑は田布施町の生まれ。私は2006年10月、この田布施を訪れた。
光町と柳井市に挟まれた寒村の風景がそこにあった。
伊藤博文(林怪我伊藤の本家)
と、「虎ノ門事件」を起こした難波八助は一族である。
また、宮本顕治(共産党)も一族。
そして、木戸幸一も系図に入ってくる。
京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えてた河上肇も一族である。
そして、大室寅之佑の生家の近くに岸信介一族の生家もある。
この地から代議士の国光吾郎、
※(管理人)このひと、元首相の福田家の人びとに似ていませんか。
難波作之助が出ている。
※難波邸
また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。
あの終戦内閣の最後の内務大臣安倍源基も大室寅之佑の生家の近くである。
これは偶然でない何かがあるだろう。
以上
さらに、小泉の実父旧姓鮫島純也も「田布施」にルーツがあります。
鹿児島にも田布施があった 小泉首相のルーツ
『日本のいちばん醜い日』 鬼塚英明
P394
鹿児島にも田布施村があった。現在は加世田市金峯町というけれど、ここは昔は田布施村といった。
小泉純一郎の父、小泉純也はこの地の出身である。彼は上京して小泉又二郎の一人娘・芳江と結婚して小泉家の婿養子となって小泉姓を名乗り、義父の地盤を土江代議士となった。小泉純也は朝鮮の姓をもつが、この結婚により日本国籍を得た。
長州の田布施と薩摩の田布施、直近2代の首相が同じ田伏一族の末裔なのだが、これは偶然ではないだろう。
以上
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表の王朝・裏の王朝
英国は表の王はウィンザー王朝ですが、ロスチャイルドこそが、英国の真の支配者であり所有者であり、英国の真の王のようです。欧州は、いつのまにか、表と裏、それぞれの王朝が、表裏一体となり、二人羽檻のようになっているようです。
ウィンザー朝の王族が表の王朝であり、裏の王朝がロスチャイルド家だったとするなら、チャールズ皇太子と、ゴールドスミスの実子であったダイアナ嬢との縁組は、表と裏の王朝の縁組だったと言えますね。
生まれも育ちも最高位の貴族でインテリのチャールズ皇太子は、最初から、情感が幼稚で知能も低く教養もないダイアナに対してうんざりしており、無聊をまぎらわせるために、新婚旅行にも本を持参するほどでした。皇太子として国と家のために、気に入らないダイアナとの結婚を呑んだのかもしれません。この夫婦の不仲は、もともと、気の進まない政略結婚だとしたら納得がいきます。
ウイリアム王子の長男ジョージ王子と、ダイアナの実父といわれているゴールドスミス。「クローンのように」似ています。
ドイツ系ウィンザー王朝から、ユダヤ系ゴールドスミス王朝への移行が進んでいることがわかります。
久邇宮家の長女と、代議士の息子とはいえ平民の難波大助。
この両者は、表の世界から見ると不釣り合いに見えますが、田布施の郷こそは裏の王朝の基であり、ここの閨閥が真の支配者であるのなら、久邇宮家の長女と難波大助の縁談は、チャールズ皇太子とダイアナのように、表と裏の王朝の「血の契り」だったとしても、不思議はないと思います。
そして、鬼塚氏の取材によって、お二人が、実際に交際していたということがわかっています。
続きます。