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【皇室】(9)岩崎弥太郎にしかみえない明治天皇の肖像画

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本日もお越しいただきありがとうございます。

こちらからの続きです。

改めてみると、、全国民が神棚に祀って日夜おがんでいた明治天皇の御真影(肖像画)やはり岩崎弥太郎ににてますね。

大室寅之助=明治天皇はこちら。この左の肖像画写真も、別人の体に顔を貼り付けたうえに、背景は絵画という実質コラなんですが、、顔の特徴はとらえていると思います。上の御真影とは似ても似つかないお顔だち。

特徴を出すのに大切なパーツである、耳も違いますしね。

隠し撮りされた明治天皇。横顔からみる、耳の付き方に注目してください。顔の大きさから比較しても長い耳だと思います。尖ってませんし、上位置についていません。

 

日本国民は、日夜、神棚に天皇夫妻の御真影に榊をそなえ、神として拝んでいました。

ようは、孝明天皇と睦仁親王の暗殺後、山口の田布施なる朝鮮部落出身の大室が明治天皇になりすまして以来、日本は天皇制から、天皇教へと変わったといえると思います。そして、敗戦後は、スター化された皇族による天皇劇場へ変わったのでしょう。

天皇教の神として拝む対象の天皇夫妻が、明治天皇夫妻、大正天皇夫妻も、御真影とされるものは美化された肖像画だったりするのは、まあ、理解の範疇にあるのですが、なんでまた、明治天皇の顔が岩崎弥太郎なんでしょうか。

美化した結果できあがった肖像画が、ここまで偶然に似るとは思えないんですが、、、。

耳も同じです。これを明治帝として神としておまがせるのは、ブラックジョークかあるいは確信犯ではないでしょうか。

 

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岩崎家と三菱財閥について書かれています。転載します。

『日本の本当の黒幕』  鬼塚英昭

P183~

大正7(1918)年8月、米騒動が発生した。田中光顕はこの騒動を自分の吉としてとらえ、宝殊荘へ移る。そこで沈黙を守る。その間に山県有朋が杉浦重剛一派に敗北するのをじっと見つめていた。

 

※wiki 杉浦重剛

杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう)

安政2年3月3日(1855年4月19日)- 大正13年(1924年2月13日)

明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。

若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。

以上

 

一方、この米騒動の後、全国各地で賃金増額を要求する労働争議がおこった。大正10(1901)年6月、神戸の三菱で大争議がおこった。この葬争議は全国各地の三菱の工場に飛び火した。三菱にとって明るいニュースが必要だった。ここでも金の問題をまた考えないといけない。杉浦重剛がどうして右翼連合をつくり、反山県有朋の運動を成し得たのかということである。

 

人を動かすのは信念・信条はもちろん大事な要因だが、何よりも金である。

岩崎小弥太はケンブリッジ大学でファビアン社会主義を学んでいる。

 

※wiki 岩崎小弥太

岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月3日 – 1945年(昭和20年)12月2日)は、日本の実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵。

以上

 

労働者の争議も研究している。彼は、反山県有朋のためには、どのようにすればいいか田中光顕に相談したに違いない。山形を最もよく知る男が田中光顕であったからだ。そこで、杉浦重剛に莫大な金を与えるということになった。

その証拠があるのか、という問いに、逆に反問しよう。では、右翼の連中は何も喰わず、反山県の行動ができるのかと。巨額の金がひそかに杉浦重剛のもとへ送られた。彼を信じ行動をともにする同士はその金を受け取り行動に出た。

 

ついに官憲をしのぐほどの反国家組織が出来上がった。それはまた、労働争議のスト破りにも役立った。三菱は危険分子を手なずけることにより、彼らを利用し、国家そのものとなっていくのである。田中光顕はそれらの危険分子たちを支配する王の代理人となるのである。もちろん、王は岩崎小弥太である。

続きます。

 

 

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