【皇室】戦争で肥え太る人たち

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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本日もお越しいただきありがとうございます。

いうまでもなく戦争は人類の災禍の一つですが、それを肥やしに財を成す方々もおられますね。

そして、戦争によって動く天文学的な資金を吸い取り、財を成すため資産を増やすために、戦争を起こす方々もいます。

また、大規模な天災によって、財を成す方もいます。

『日本のいちばん醜い日』 鬼塚英明

P441

シーグレ―ヴ夫妻の「ヤマト・ダイナスティ」の中に次のような一説がある。

裕仁は1944年に材木のたくわえで大儲けしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んでいなかった。天皇家は日本一の大地主で、ほとんどは徳川幕府が崩壊した時に天皇家に直接もたらされた(明治維新後に獲得したものがほとんどである:引用者注)。

まさしく当時にお日本の大地主であったのだ。もちろん、ヒロヒトの自己申告の中には、本土や海外の隠匿された財宝は含まれていない。SCAPの審査官が、おの検査をパスさせたのであるのだが、彼は不機嫌そうに記したのだ。「正確さという面では、この部門は問題外とされた」

占領が終わり、日本人の専門家が天王家の財産を再計算した。その中には皇居や御用邸の不動産、工芸美術品などは計算外としたが、それでも660億円を超えていた。

転載以上

 

「裕仁は1944年に材木のたくわえで大儲けしたはずだが」

戦争がおわるのが1945年08月。1944年といえば、B29の空襲の影響で、材木が暴騰したんでしょうか。

もしそうなら、関東大震災でも利を得たのでしょうか。

 

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戦争で大もうけするのは天皇家だけではありません。

堤康次郎

西武グループの創立者である堤康次郎は、戦争中、空爆された焼け跡に、「堤家の土地」と勝手に立札を立てかけ、わがものにしたそうですが、それができるのは、官と癒着していたヤクザでしょう。

さらには、防空壕内で電話をかけ、土地を買いまくる指示をだしていたことが部下の証言で分かっています。

堤康次郎は、軽井沢を開発した人ですが、戦中は、京都だけではなく軽井沢は空爆を受けないことが決まっていたようです。何かのつながりがあった人なんでしょう。

堤の言動を見るに、戦争が日本の敗戦で終結すること、戦争は底値で不動産を買いまくる刈入れどきであり、敗戦後も自分も自分の資産も無事でいられるとわかってたんでしょうね。

戦後は没落した旧宮家や華族の邸宅を買い取り、プリンスホテルにして会社のブランドを確立しました。

堤康次郎には、認知していない子供だけで100人ちかくいたという性豪でした。

・妻、愛人だけではなく、友人のツマ、娘、女中、社員、素人玄人関係なく目につくなかで気にいた女性すべてに手を付けた、

・4人姉妹全部に手を付けた、その一人が、最後のツマ。

・その中の一人が、友人だった正田瑛三郎のツマの富美。これは有名な話だそうで、、。

・女性に手を付けるだけで面倒をみず、捨てられた女性や子供も多かった。

・離婚した妻には慰謝料も払わず、元妻を訪ねて行った人によると靴下も破れたものを履いていて貧困の極みにあったとか。

・葬式には堤とよく似た子供を連れた女性が100人ほど押しかけ、収拾がつかなかったとか。

まさに朝鮮の馬賊を絵にかいたような人です。

 

朝鮮の馬賊について

『親日派のための弁明』英雄の虚像、日帝の実像、キム・ワンソプ
P146

これらの盗賊団は、中国の歴史においては秦・漢以来、豪侠を自負していた連中で、ときには義賊といえるケースもあったが、大部分は山奥に住みついて民家から略奪し、墓を盗掘した理賭博や飲食をしたりすることに時間を費やした。ある記録によると、

「彼らの眼中には政府もなく、祖国もなく、仁義や道徳もなく、彼らの日常はただ一身の快楽を得られればよく、秤を争って金と銀を分配し、派手な衣装をひっかけて斗酒をのみ、肉の塊を丸ごと呑みこむかと思えば、女を拉致してかわるがわる強姦した跡、道端に捨てる肉塊行為以外にはすることがない」
と描写されている。

『親日派のための弁明』英雄の虚像、日帝の実像、キム・ワンソプより

 

富美も嫌々関係を持ったというより、似た者通しで引き合ったのでしょう。富美は、昭和天皇を罵倒するなど女馬賊のような工作員で、堤とは愛人であり工作員の同志のような戦友のような関係であったのでしょう。

鎌倉霊園には堤康次郎の巨大古墳があります。昭和天皇陵の2~3倍の大きさになるそうです。

※皇室掲示板よりお借りしています。

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この霊園に正田家の墓もあり、当然富美の遺骨も治まってます。

「死してもなお、おそばにいたい」のでしょうか?

 

堤家の人たちと正田美智子(複数いますが)の容姿が堤家の方々に似ていることや、2代目・堤義明が逮捕されたとたん、紀宮清子内親王の結婚が決まり、秋篠宮家が美智=宮内庁からの子作り禁止令を破って産婦人科を受診。翌年に秋篠宮家に第三子・悠仁親王が御誕生になりました。

美智子=宮内庁の、秋篠宮家と高円宮家に強いられていた産児制限などの介入は、堤家と関連性がありそうです。

堤家が健在だったころは、宮内庁関係者に不審死がでたり、美智子に批判的な記事を書いた出版社が、街宣プロ右翼に包囲されたり実弾がうちこまれたり、美智子自ら受話器を取り女性ジャーナリストを恐喝したこともありましたが、2代目が逮捕されてからは、それが収まりました。

噂通り、美智子は堤康次郎の落胤の一人であり、その娘を、正田富美の病死した長女に背乗りさせて育てたのが、「正田美智子」だったのではないのかと思うわけです。

幼少時の正田美智子と、成人した後の正田美智子派、生涯かわらないはずの耳の形がちがいますから、テンプルちゃんとよばれた正田富美の生んだ実子の長女と、正田美智子は別人なのは間違いないでしょう。

 

美智子様の影武者⑤堤家と皇室

 

さらに、堤家は滋賀県からでましたが、滋賀にお住いの読者様からのリークによると被差別部落だそうです。それは別に問題ないのですが、普通の被差別地域にいた日本人ではなく、堤義明は、総会屋から「堤家が朝鮮から来たということ」をネタに脅されていました。

総会屋という方々の情報は、プロですから情報もきっちりしていると聞いています。朝鮮半島から来て、滋賀の被差別部落地区にすみついたのが、堤家とかんがえるのが自然ですね。

 

日本を支配していた人たち

左:岸首相の弟・佐藤栄作=田布施(朝鮮浮民の部落)に戸籍がある

左中:池田勇人=被差別地域出身、敗戦直前に昭和天皇の資産を隠すために活躍

右中:吉田茂=養父は国際金融同盟の工作員。実母の出自が不明、父が朝鮮鉄道関係の役をしていた関係で朝鮮の妓生の可能性あり

右:堤康次郎=滋賀の被差別地域に住み着いた朝鮮人の家系。

 

これらにつながる明治以降の天皇家とは??

いったい、どこから来たのでしょうか?

 

そして昭和天皇の隠し資産はスイスへ

昭和20年の4月:日本の皇后が赤十字国際委員会に1千万円スイスフランの寄付を申し出

『日本のいちばん醜い日』 鬼塚英明

工藤美代子の『香淳皇后』には次のように書かれている。

日本でも、外見的には、あくまで戦争を続け、本土決戦に挑むという態度ではあったが、その実、敗戦を予測してそれなりの動きはあったようだ。

木戸幸一をはじめ、当時の日本の首脳部にいた人々のにっきは、すでにいくつか刊行されているのだが、不思議なことに、敗戦を予測しての具体的な準備について触れた記述は全く見当たらない。

しかし、じつは何者かによって着々と、手は打たれていた。そう思わせる証拠の一端がロンドンの公文書館に保存されている。

それはスイスの赤十字国際委員会とイギリスの外務省との間で、昭和21年8月から昭和23年9月にかけて交わされた一連の外交文書である。

(Fo369 /3969,Fo369/3970)

 

これらの文書によると、昭和20年の4月に、日本の皇后が赤十字国際委員会に1千万円スイスフランの寄付を申し出たというのである。

一千万スイスフランといえば、現在のレートで換金しても約7億円近い金額である。まして、当時のレートで換算したら、莫大な金額だったはずである。

まず興味深いのは、4月の時点で、すでにこの寄付の申し出がなされたことである。

これは、日本の敗戦を予測して、皇室の財産を処分しておこうとする動きではなかったかという見方ができる。

それ以外にこんな莫大な金額を寄付する理由は考えられないというのが、スイス側はイギリス側の見解だ。

 

 

香淳皇后名義で1千万スイスフランの巨額寄付を提示、赤十字が介入し、秘密裏に送金が実行

この工藤美恵子の『香淳皇后』が出版されたのが2000年。その翌年の2001年8月13日に「ジュネーブ13日共同=藤井靖」で、この内容を追認する記事が出た。

日本が1945年8月の終戦直前、スイスの赤十字委員会(ICRC)に対し、昭和天皇の皇后明で1千万スイスフランの巨額寄付を提示。

連合国の対日政策決定機関である極東委員会が禁止決定をだしたものの、赤十字がこれを覆して戦後の49年、秘密裏に送金が実行された経緯が13日、スイス政府やICRCの公文書でわかった。

寄付は横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)がスイス国立銀行に保有し「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」か拠出された。日本が皇后名の寄付を申し出た事実は英公文書で確認されているが、その動機は不明。公文書は米英両国にスイス、ICRCを巻き込んだ送金実行までの4年間にわたる「攻防」の詳細を明らかにしている。一千万フランは現在のレートで7億円、当時と現在のスイスフランの購買力を単純に比較すると約33億円に上る。

工藤美恵子の『香淳皇后』の内容を細くする記事となっている。

以上

 

東郷茂徳は原爆が投下された翌日に、赤十字の駐日代表に一千万スイスフランの寄付決定を伝達

天皇はスイス国立銀行に「特別勘定口座」をつくり、国際的な商取引をしていた。的な2口座と天皇名と皇后名の2口座が確認。他にも口座がある可能性が高い。

 

この後に驚くべきことが書かれている。

東郷茂徳は原爆が投下された翌日に、赤十字の駐日代表に一千万スイスフランの寄付決定を伝達する。駐日代表は9日、受諾すると答えたが、通信事情が悪く、ジュネーブの赤十字本部に伝えたのは終戦直後の8月17日となった。

その前日の16日、米英はスイス政府と合意し、スイス国内の日本資産を凍結していた。

それでは、結果はどうなったのか。

天皇の資産のほどんどは国際決済銀行の秘密口座を通じて運用された。

その金は、いかなる政府の干渉も受けないという超法規条項を持ちえた。それでほとんどが無事であった。

天皇はスイス国立銀行(ほとんどの役員が国際決済銀行の役員)に「特別勘定口座」をつくり、国際的な商取引をしていた。

公的な2口座と天皇名と皇后名の2口座が確認されているが、ほかにもある可能性がある。

転載以上

 

ヨハンセン・グループとグルー大使

「ヨハンセン」とは、彼らを監視していた軍部・憲兵隊当局の符丁(暗号)で、このグループの中心と目された吉田茂を意味し、「吉田反戦」(よしだはんせん)の略とされる。

 

駐日グルー大使

「グルー、彼らをたたきつけ、もてる影響力を行使せよ」

『日本のいちばん醜い日』 鬼塚英明

※ジョセフ・クラーク・グルー大使

工藤美代子が指摘したように、天皇は終戦工作をしていた。

ヨハンセングループから原爆投下の日を知らせてもらってからは、スイス、アルゼンチン、スウェーデンの各国の秘密口座にも資産を移した。それを”影の政府”が支えたのである。スティムソン陸軍長官はグルー国務次官を通じてヨハンセン・グループに伝えた。そして言った。

「グルー、彼らをたたきつけ、もてる影響力を行使せよ」

では、ヨハンセン・グループは天皇とその仲間たちに、どんな影響力を行使したのであろうか。私がまず第一に考えたのは、原爆投下によって数十万人が確実に死ぬが、これを国際的にも、国内においても報道するな、という脅迫をグルーから受けて約束したと思う。

あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は”天祐”と叫んだのである。

天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声を挙げなかった。あの時だけが例外ではない。死ぬまでだ。

新聞もヨハンセン一味の脅しに屈したのか、ほとんど報じなかった。スティムソンの思惑通りである。

以上

 

 

アリス・ペリー・グルー

※浮世風呂様より転載させていただいています。

http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/f2519504838ba6e271d8740c69233313

在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち、教育を受けていた。

アリスの「幼馴染み」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、「侵略者ペリー」と、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子と九条節子であった。

九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。

転載以上

 

吉田茂の妻・牧野雪子

工作員アリス・ペリーに師事したカトリック教徒

※お借りしています

http://www.asyura2.com/12/hasan78/msg/189.html

一方、モルガン=ロスチャイルド資金で、倒幕に成功した明治政府の中核=薩摩藩士・大久保利通の息子は牧野家に養子に入り牧野伸顕を名乗っていたが、その娘・牧野雪子(大久保利通の孫)は年離れの親友アリスに「事実上、師事」し、国際情勢・政治経済の「教育」を受ける。モルガン=ロスチャイルドの洗脳教育である。

牧野雪子は吉田茂の妻となり、吉田もモルガン=ロスチャイルドに寵愛され、出世街道を上昇して行く。雪子は麻生太郎首相の祖母である。

以上

 

牧野雪子の父・牧野宮内大臣

※お借りしてます。

http://www.logos-ministries.org/blog/?p=6114

「牧野宮内大臣は自分の信仰を明らかにしてませんが、欧州駐在中に娘(雪子、後の吉田茂夫人)が幼児洗礼を受けており、曾孫に麻生元総理がいますのでカトリックだと推定できるでしょう。」

以上

 

牧野伯爵の実父・大久保利通

『日本の本当の黒幕(上)』鬼塚英明著より

公卿の三条実美と土方久元(土佐脱藩者)が計画し、中岡慎太郎と坂本龍馬が長州木戸孝允と薩州の西郷隆盛を動かした薩長連合は、大室寅之佑なる者を天皇として新政府を樹立するという密約でもあった。

彼らは武士というよりも下層階級、郷士格であって、武家社会で大手を振っていきていける身分ではなかった。「西郷南洲」という芸名は、南朝の菊池氏からきているという。

しかし、西郷、大久保利通、樺山資紀、大山巌たちは、鹿児島の加治屋町(現在は鹿児島市加治屋町)という部落で、汚物の処理や清掃、葬式を生業としていた。武士とは名ばかりの、最下層にいる人々であった。

薩長連合は、そうした彼らが長州、薩摩、土佐の大名とは別行動をとったクーデター計画であった。

島津久光は西郷と大久保利通が大室寅之佑を連れてきて、「この男が天皇になります」と告げられた時とき、刀で斬りかかりそうになった。しかし、西郷が「すでに睦仁は死んでおります」と告げたので刀を降ろした。

この逸話は、鹿児島の郷土史家から直接私が聞いた話である。真実だろうと思う。この薩長、そして薩土の秘密連合がクーデターを起こして明治政府が出来上がるのである。大室寅之佑は藩主毛利忠親の知らない間に天皇になっている。いわりゅる事後承諾というやつである

(略)

明治の新政府ができてまもなく、十六歳の少年天皇が、我儘をして”元勲”たちのいうことをきかないと、西郷隆盛は「そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ」といってしかりつけた。すると天皇はたちまちおとなしくなったという話が伝えられている

転載以上

 

ヒロヒト天皇の信仰

大久保や西郷たちがいた部落は、部落は部落でも小泉の父親の純也の出身部落のように、朝鮮征伐のとき連れ帰ってきた朝鮮浮民の部落だったとしても驚きませんね。

昭和天皇が宮内相であった牧野伯爵を「父のように慕い」「退職するおりには涙ぐんだ」ほどだったのは、ご自分の出自も皇統が偽物であることも知り尽くしている人間に囲まれて暮らしている昭和天皇を理解し、協力し、励ましてきたていたことや、天文学的な国家予算規模の財産収奪の共犯者であったから、ではないのでしょうか。

あるいは、「同じ」隠れキリシタンだったのかもしれませんね。

生母・テイメイ皇后がクエーカー教徒の可能性が強いこと、昭和天皇の乳母も熱心なクエーカー教徒であったこと、そして昭和天皇自身がキリスト教徒のように頑迷に一夫一妻制にこだわっていたことが気になります。

弟宮の妃たち、秩父宮妃、三笠宮妃が、キリスト教と関係が深い可能性がたかいこと、三笠宮親王の2人の親王の子供たち、少なくとも長男がキリスト教の家系からきた女性と結婚していることなど、家族内でキリスト教の影響が強い環境にあったこと。

さらには、正田美智子を跡取りの妻として認めたことからみて、昭和天皇自身も隠れキリシタンだった可能性もあると思います。

 

維新後、日本に寄生し、支配している人たちのルーツ

『日本の本当の黒幕』鬼塚英明

私はここで、大室天皇の素顔を読者に紹介したい。

蜷川新の『明治天皇』から引用する。この本は先に2度引用した。三度目である。

あるとき、天皇は伊藤博文に向かって「おい伊藤、新しくきたあの若い綺麗な女の子は『許嫁があります』といって、我が言うことに従わない」不平をこぼした。それに対して伊藤は「陛下!どうでもあの女を御意に従えさせ給え」と答えたと、明治時代の要人から語られている。

以上

 

大室天皇=偽明治天皇を出した田布施のルーツは、やはり、「朝鮮馬賊、匪賊」でしょうかね。

※画像は管理人が適当に貼ってます。

『親日派のための弁明』英雄の虚像、日帝の実像、キム・ワンソプ
P146

独立軍の正体

「馬賊」は文字どおり、馬に乗り群れをなして行動する盗賊団を言う。とはいえ、常に馬に乗って行動するわけではないため、場合によっては匪賊(群れを成して行動する盗賊団)、兵匪(武装した盗賊団)、土匪(共産ゲリラ)など、さまざまな名前で呼ばれた。

これらの盗賊団は、中国の歴史においては秦・漢以来、豪侠を自負していた連中で、ときには義賊といえるケースもあったが、大部分は山奥に住みついて民家から略奪し、墓を盗掘した理賭博や飲食をしたりすることに時間を費やした。
ある記録によると、

「彼らの眼中には政府もなく、祖国もなく、仁義や道徳もなく、彼らの日常はただ一身の快楽を得られればよく、秤を争って金と銀を分配し、派手な衣装をひっかけて斗酒をのみ、肉の塊を丸ごと呑みこむかと思えば、女を拉致してかわるがわる強姦した跡、道端に捨てる肉塊行為以外にはすることがない」
と描写されている。

日帝時代に満州と沿海州に進出した朝鮮系日本人は、このような馬賊団により数え切れないほどの辛苦をなめた。
満州地域の馬賊団には中国人が多かったが、単一民族で構成されたケースは珍しく、ロシア人、モンゴル人、朝鮮人など、
いくつかの民族が混合した馬賊団が多数であったという。
ところが、主に朝鮮人を苦しめたのは、独立軍を語った馬賊団であったため、当時は独立軍と馬賊軍の間に大きな差はなく、
呼称があっても区別しなかったようである。

当時の朝鮮総督府と日本政府の記録には「鮮匪」という名称もよく登場する。
これは、朝鮮人匪賊という意味で、ほとんどが独立軍を語った連中だった。
かれらは満州の朝鮮人居住地域だけではなく、よく国境地方に入り込んでは軍資金調達にかこつけて強盗や殺人、拉致、法か、破壊などの乱暴を行ったため、満州と北部国境地域の治安に大きな混乱をもたらした。

以上

 

ヒロヒト天皇のもう一人の息子

ヒロヒト天皇に話を戻しますが、皇位継承者に恵まれない時期に、試験管にはいった昭和天皇の精子を「選ばれた貴婦人」に挿入して、明仁親王、正仁親王以外に息子が一人うまれた、という説があります。

 

『日本の本当の黒幕』鬼塚英明

『歴史読本』(2003年12月号)に、「昭和天皇隠し子事件」なる記事が載っている。

昭和25年、『真相』7月1日号に、「ヒロヒトを父に持つ男 天皇家の大秘密」という記事が掲載された。長崎県佐世保の特殊喫茶、すなわち売春宿の息子、行村正が昭和天皇のご落胤であり、これまで無惨な生涯を強いられ、今もなお軟禁状態にあるというるポタージュだった。大きな話題となったが、名誉棄損で訴えられ、6人が起訴され、3人が入獄。戦後を象徴した人気雑誌『真相』の衰退をまねくことになった。

 

この昭和天皇の落胤のスクープが、本当臭いのは、あつかったジャーナリストが厳しい実刑となっていることです。妙に本気を感じます。

そして、昭和天皇の落胤がどうして生まれたか。それはは人工授精によるものという説があります。

 

『日本の本当の黒幕』鬼塚英明

1931年3月に四女が生まれたあと、彼は、皇位継承者の必要にぶつかり、劇的な手段をとるときが北という点で、最高の地位にある重臣たちの意見に同意した。

同時に個人的な理由から妾をつくることは望まなかった。良子皇后の愛情と彼女の家族——–彼にはいとこにあたる伏見家の人々——–の支持とは、彼にとって軽視するにはあまりに重要であった。

では、一人の息子はどのようにして生まれたのか。昭和6年の春のある時、裕仁は精液の入った試験管を侍医の一人に渡す。これを保有され、分割され何かの貴族夫人に配分された。そして昭和7年の初めに一人の男子が生まれた・・・・・・とバーガミニは記している。

以上

 

ダヴィンチ・コードのシリーズで、登場人物の一人が、カトリックの聖職者である自分がローマ法王と修道女との間に出来た子供だという事実を知り、信仰がゆらぐほどの衝撃を受け怨恨を持つようになりました。しかし、最後は、法王と修道女は体外受精という「性交せずに互いに純潔を保った状態」で子供をつくったことを知り、実父であるローマ法王を許す、という場面があったと思います。

たしかに、この方法での繁殖だと、純潔を保ちカトリック聖職者として全うする生き方と、愛する異性との間に子供を作るという行為は並立できるのかもしれません。

皇后との間に皇女しか生まれず、皇位継承の問題がでてもなお、昭和天皇は頑迷に側室を置くことを拒みますが、拒む理由がキリスト教徒だったから、と考えてみたら腑に落ちる点もあります。仮説ですが、人工授精なら、一夫一妻制のキリスト教の婚姻制度に触れない方法で子供を作る方法として受け入れたのかもしれません。

もちろん、これらは、あくまで推測です。

 

鬼塚史観から天皇の立場を考えてみましょ。

・日本で最高位にありながら、皇統も偽物、

・自身の父は大正天皇ではなく、(鬼塚史観によると)西園寺八郎という一家臣ということで、二重に偽物。

・比べて、3人の弟宮の実父は大正天皇ではないことは同じだが、弟宮の実父は宮家の人間であり、自分より皇位継承の正当性がある兄弟に囲まれている。

次男秩父宮は東久邇宮とテイメイとの間の子、

三男高松宮は有栖川宮家からもらった養子、

四男の高松宮もおそらくは容色が似ていることから、有栖川の宮系と思われる。

(左)有栖川宮(右)4男三笠宮

・実母は淫奔な女性で、牧野伯爵はじめ「お相手」を切らしたことがない。しかし、世間では国母であり貞女として崇拝されている。

・いちおうは神道の祭祀王でいながら、母はクエーカー教徒、乳母もクエーカー、家族や宮内庁内はキリスト教徒が一杯

・神道も維新後、伝統的な神道とは全然別のものになっており、その嘘くささは祭祀王本人が一番よく知っている。

・最高に贅沢な生活をしているが、出自と嘘がばれると罪人として追われ吊るされてしまう。

・そしてそれらの事情を、学習院の同級生も宮内庁職員も、宮家も華族も知っていること。

ヒロヒト天皇のような複雑な立ち位置を考えると、因果法則の科学的な法則をもって現世を語り、今の不幸は自分の罪として向き合う場面がでてくる仏教とは違い、先祖も家系も前世も因縁もなにもない、ただ絶対神と自分だけがいる。自分の罪業も救世主が背負ってくれる、お寺さんにお布施して懺悔したら全部パー。

そういうキリスト教のほうが救済が、ヒロヒト天皇にはあったのではないかと、想像してしまいます。

 

戦争によって利を得た「田布施系」天皇家

戦争のたびに資産を増やしてきた天皇家。敗戦をもって、旧宮家を追い出し易姓革命を完遂させました。

周囲にはばれていたし、気が付いていた人も多かったと思いますが、国体維持という大義の為、追及はされませんでした。

『日本の本当の黒幕』鬼塚英明

私はこの「民選議員設立の建白書」を読み菜腹、古沢滋はそれとなく、大室寅之助が明治天皇になったことを下書きにして書いているのではないかと思った。古沢滋は土佐勤皇党の志士として田中光顕と伊藤博文が、孝明天皇と睦仁親王の暗殺事件の主犯であることも知っていたに違いないのだ。

しかし、今となっては、それを口にすることはできない。日本という国が内乱で亡びる可能性さえある。この事実を踏まえたうえでの建白書であったとみる。

後藤象二郎も板垣退助も、大室寅之佑が明治天皇になったことを知っていたに違いない。公家は血族結婚を繰り返したために、劣性の遺伝子から来る小児性の体格をしている。

大室寅之助は体重20数貫(100キロ以上)、身長五尺八寸(174センチ)を超える、相撲取り(当時の力士はもっと小さかった)以上の体格をしていた。

しかし、彼らは大室寅之佑が天皇になった以上、彼を天皇として崇める以外に打つ手段がなかった。

以上

万世一系でつながる天皇家を中心にした日本民族の国家という、日本という国が分解瓦解する危険があるに加え、維新後は日清、日露戦争、2度の大戦があり、民族の存亡をかけた戦争が続いて起こり、震災などの災害もあり、国民が一致団結する必要があったため、「明治天皇の出自と正体」「皇統の正当性」などへの追及が見送られてきたと思います。

国民の災禍ともいうべき、他国との戦争のたびに『国家存亡の危機」の前に、「今の皇統に対する疑惑」への追及の声や検証は見送られ、アメリカの空爆により過去の記録が消滅し、敗戦とともに消去されました。

「天皇は最高の神官であり、無私の聖人である」

「天皇家とは日本民族の最良たる部分であり、最高位の家系である」

これ、明治天皇即位後は、ただの誤解であり幻想だったんでしょうかね。

結局、維新後の天皇家に対するイメージは、最高で最良の民族である日本人が、天皇家も当然、最高で最良であるはず、という誤解を投影していただけの話だったんでしょうか。

実際の田布施ニセ皇統とそれにつながる支配層の真実の姿は、朝鮮馬賊に近いものがあるのかもしれません。

「彼らの眼中には政府もなく、祖国もなく、仁義や道徳もなく、彼らの日常はただ一身の快楽を得られればよく、秤を争って金と銀を分配し、派手な衣装をひっかけて斗酒をのみ、、、、」

悪行がばれても海外に逃げればいいい、お金はたんまり稼いだから、と考えてるんでしょうかね。

大久保利通も、吉田茂も、牧野伯爵も、死後の遺産は「ほとんど残っていなかった」とされていますが、だれが信じるんでしょうか(怒)。

そして、天皇家の資産はスイスからアジアへ

 

ニセモノが天皇に即位?