※画像は管理人が適当に貼っています。
コメント欄より
>小和田の教授就任にいたっては、某財閥からお金が動いたと書き込みが会った記憶があります。事実だとして、それが三菱かどうかは不明ですが、、、、、、、。
すぐに、サイトを見つけられませんが、
確か三菱でした。
だから、ロシアに関わりが(ハニトラもありますが)深いのか‥‥と、思った記憶があります。
以上
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コメント欄より
https://omugio.exblog.jp/22219296/より、
【倉富日記 大正12年11月09日】
宮内官僚西園寺八郎
御婚儀延期の事も皇太子に言上する前に新聞に出てらるより、殿下は婚儀を延ばす事は予は承知しおらずと言われ、東宮太夫珍田捨巳は殿下は延期の思召なしとて困りおりたるゆえ、予より殿下に謁し、「数万の死者あり、数百万の罹災者ある央に御婚儀を行わせらるるは穏当ならざるゆえ、珍田を召してその旨を御申し聞けなさるる方よろしからん」と言上したる結果、かの運びとなりたるものにて、殿下はたいそう善事を為したるように御考えなされおる様なり。
倉富
かの事は実に結構なりしが、遺憾は御婚儀を延期せられたるも、その時すぐに挙行の期を予定せられたる事なり。予定せられたる為せっかくの思召が形式のみとなりたる感あり。
西園寺
その通りなり。
昭和天皇(当時、皇太子)は、良子様とのご婚儀を関東大震災があったのに、延期する気はサラサラ無かったようです。
また、高みからの慈善行為の様にご婚儀延期を施しと思い、すぐ次年度でご婚儀日取りを決めているのも、廷臣から「いかがなモノか‥」と思われてたご様子。
同じページの冒頭には、良子様の潮干狩り写真掲載問題も語られてます。
倉富日記 大正12年01月20日
倉富&宮内官僚徳川頼倫の会話
徳川
良子女王の教育掛後閑菊野もよろしからざるやの評あり。
倉富
あまりに良子女王の事を宣伝するにはあらざるや。近来良子女王の事が新聞に出ずる事が余り多き様なり。
潮干狩りに行かれたるとき写真などを出したる事は貞明皇后の御意には合わざりし事ならんと思わる。
徳川
自分の方の年老いたる女なども大分驚きおりたる様なりしなり。
当時としては露出的なお姿でした。
全て、“系譜は続くよどこまでも”、、、。
私達の勝手なイメージを投写していただけですね。
以上
ありがとうございました。白黒写真に色を塗ったものだと思われますが、、、。
良子女王の潮干狩り
※ttp://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/2005shinnen.htm
新年早々ウソを書いても仕方ないので白状すると、これが絵葉書セットの最初の一枚でした(笑)。ただの風俗絵葉書かと思ってみたら、ご婚礼モノだったわけであります。
鑑賞のポイントは、「白足袋で潮干狩り」「腕時計」とあるが、一番決定的なところは不敬にあたるので書かない。以上
「全て、“系譜は続くよどこまでも”、、、。私達の勝手なイメージを投写していただけですね。」
まったくもって同感です。
マザーテレサの正体を暴いたジャーナリストが、「偶像を必要としている我々に問題がある」とかいてましたが、その通りかもしれません。
つまるところ、明治維新後の日本は、天皇制ではなく、天皇教だったということだと思います。
戦前は、今日の雅子や愛子さんの事情を国民がしっていたように、多くの国民は、皇族の事情を知っていたのでしょう。
戦争ですべてが消し去られたあと、GHQの力を借りて旧宮家を皇室から追い出し、GHQの協力のもと、マスコミの洗脳が「聖帝裕仁天皇」を上書きをしました。
裕仁天皇が「現人神」になったのは、戦後だと思います。
まだまだ続きます。