続きます。
佐賀のタブセと大隈重信
大正天皇に酷似している大隈。実父ではないかといわれてますが、似ているから困る。
大正天皇が即位した時の首相が大隈でした。形を変えた摂関時代の藤原家の摂政政治だったのかもしれません。
大隈 重信
日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。
参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、
農商務大臣(第11代)、
内閣総理大臣(第8・17代)、
内務大臣(第30・32代)、
貴族院議員などを歴任。
早稲田大学の創設者であり、初代総長である。
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大隈は上士の家柄?
wikiより
天保9年(1838年)2月16日、佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。
西武の堤康次郎の生家、というものがあり、社員さんは詣でるしきたりだそうですが、実際には、堤が出世した後のつくられた家だそうで、維新の元老や政治家の「生家」や「家系図」、については、あんまり信用してないんですね。
こちらは、大隈重信旧宅(国指定史跡)だそうですが、、、
天保9年(1838)大隈重信
侯が生誕したこの生家は天保以前の武家屋敷の面影を残した貴重なもので、国の史跡に指定されています。平屋茅葺に一部二階建ての瓦葺きの家屋は、重信侯がうぶ声をあげて成長した、八太郎の時代の家庭とその遺徳をしのぶことがてきる貴重な遺跡となっています。庭園には大隈を敬愛した政治家・波多野敬直の筆になる「大隈重信侯の誕生地」の記念碑が建っています。
※こちらからhttps://www.city.saga.lg.jp/main/844.html
ちなみに、福田(父)のツマは旧華族とか名家とか書かれているそうですが、閨閥の研究家によると、福田の妻は、福田が下宿していた先の下宿屋の娘で旧華族でもなんでもない人だそうです。
福田自身も旧家をなのっていますが、旧被差別民の出自だそうです。そんなもんでしょ。
多布施の反射炉
嘉永6(1853)年
浦賀への黒船来航に、幕府は急遽江戸湾防備のため、鉄製大砲鋳造を佐賀藩に依頼。
佐賀藩は新規に多布施反射炉を築造。
品川砲台などは、佐賀藩のこの多布施での築造。
「大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄」
タブセに設置されていたのが、「多布施反射炉(多布施公儀石火矢鋳立所)」、「石火矢(いしびや)」とは大砲のことだそうです。大隈家とタブセは、やはり関係がありそうです。
※こちらから、https://www.city.saga.lg.jp/main/3854.html
しかしながら、佐賀藩の近代化に驚きますね。
佐賀藩「産業革命」
※鍋島直正
https://www.saga-hizen150.com/restoration/
ざっくりまとめると
藩校造った
直正がまず力を入れたのが藩校「弘道館」の充実。
幼少期から薫陶を受けた儒学者古賀穀堂(1777~1836年)の教育に関する意見書「学政管見」に基づく形で、敷地を3倍、予算を7倍にした。財政難にあえいでいた当時の藩にとって、思い切った政策だった。
築地反射炉作った、大砲つくった
佐賀藩が1850(嘉永3)年、現在の佐賀市長瀬町に築いた「築地反射炉」は日本初の反射炉を作った。
佐賀藩のみならず、日本の近代化の出発点となった施設だ。
反射炉は、鉄や青銅などの金属物を高温で熱して溶融・精錬するための装置。炉の天井に熱を集中し、その輻射(ふくしゃ)熱を利用することから反射炉と呼ばれた。
船造った
国内トップだった佐賀藩の技術力を証明する史実の一つが、日本初の実用蒸気船「凌風丸」だ。三重津海軍所跡で1865(慶応元)年に造られた。
予防接種始めた
世襲が当たり前だった医者に免許制度を初めて導入。また、不治の病だった「天然痘」の根絶を目指し、1849(嘉永2)年、侍医の伊東玄朴や大石良英らに命じ、嫡子淳一郎に種痘を試した。これが日本における牛痘による予防接種の始まりとされる。
早稲田大学設立
佐賀藩の家風のながれでしょうか、旧藩士・大隈重信によって早稲田大学が設立。
以上
直正が名君なのはわかるんですが、鎖国されていた時代に、ここまでサクサク近代化はできるんでしょうか。
佐賀藩を産業革命を指導する指導員がおり、一方では欧州に藩士を派遣していたとしても不思議はないと思います。
続きます。