昭和天皇のお后は、久邇宮家の長女、良子女王でした。実母は島津家の七女です。
明治40年(1907)年、三菱の岩崎小弥太(29歳)は、島津孝子(20歳)と結婚しています。
孝子の父は、旧薩摩藩主島津家の分家の出で、島津久光の4男珍彦。
媒酌人は伯爵松方正義。
貧乏な久邇宮の邸宅を、「皇太子妃にふさわしい邸宅」にするため、久邇宮邸の建築費をもったのが三菱といわれています。
旧久邇宮邸は、聖心女学院が購入した後、宮邸は重要文化財に指定され保管されています。聖心女学院から正田美智子が出たのは因縁を感じますね。
『日本の本当の黒幕』 鬼塚英昭
P182~
あの花御殿も「台湾から節のない檜を買い付け、天井や唐紙には当代一流の横山大観、、、、、、」とあるのは、田中光顕がデザインしたと思われるのである。古渓荘のような手の入れようを想起させる。
貞明皇后に最初に久邇宮邦彦王の娘・良子を皇太子の妃にするように説得したのは田中光顕であったと思われる。田中光顕こそは貞明皇后の生みの親にひとしいからだ。島津家と三菱の岩崎小弥太の意向を受け、ひそかに久邇宮良子を貞明皇后のもとへ連れていく。そして、皇太子に会わせる。それは誰も知り得ぬ秘め事だった。そのとき、田中光顕は貞明皇后に言ったに違いない。こんな言葉だ。
「締盟皇后、今は麹町一番街のわびしい邸宅ですが、あなたが、私の申し出を承知してくだされば、三菱が金を出し、私がデザインをし、日本一の邸宅をつくり、そこから良子女王を嫁がせますが、、、、、、」
この申し出があってから間もなく大山巌は死ぬが、大山捨松は生きていた。「貞明皇后、松方正義と牧野伸顕もぜひともといっています」といったに違いない。
ここに島津家と岩崎家は皇室と血閥を形成するのである。そこに良子女王の色盲問題がおきた。
転載以上
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宮中某重大事件
良子女王の色盲問題がおき、宮中某重大事件といわれる事件になります。
山県有朋が、良子女王の家系に色盲の遺伝子があることを理由に、良子女王の皇太子妃内定に非を鳴らしたものの、皇太子自身が良子女王でいい、という意志をみせたため、皇太子妃に良子女王の内定は動かなかった、山県は権勢を失った、、。
正直、何が「某重大事件」なのか、いまだによくわからないところがあります。
元老だった山県有朋が敗北した、一種のクーデターだったといわれていますが、、、、
良子女王の微笑み
ここで、良子女王のお人柄に触れてみたいと思います。
欧州旅行では、良子女王の笑顔を「エンペレススマイル」としてたたえられましたが、良子女王は、いつも笑っている印象があり、御公務でも、たいてい良子女王は笑ってます。素晴らしいことだと思います。
敗戦後、進駐軍が本国におくったレポートでも、「皇后はいつも笑っている。幸せそうに笑っている」と書き送っています。
国が焦土になろうと、何があっても笑顔を絶やさないというのは、偉大なことですが、この方の母上の島津家の7女であった久邇宮妃は、生涯、しゃべれない人でした。
さらに、良子女王が生んだ皇女のなかで、かるい知的しょうがいがあったのかも、と思われる方もいます。
良子皇后のエピソード
①手袋をしたまま、手ぬぐいに洗面器の水を浸して絞ったというエピソードがあったと記憶しています。貞明はそれをみて、「ぶさいくなことね」といったとか。
➁戦争中、敗戦の色が濃くなってきた時期、昭和天皇は眠れず部屋を歩きまわっていた。それを「うるさい」と叱ったのが良子さん。空襲があろうとなかろうと、.良子皇后はよく眠れていたらしい。
③これは、また聞きですが、、、早稲田大卒の中学教員が「皇后陛下(良子さん)は恐ろしい人だ」と授業中に言った。
その理由は、玉音放送のあと、皇后陛下は「おやつはケーキがいいかしら、それともクッキー?」と内親王たちに向かって聞いた。ただし、この教員は、バリバリの日教組で左翼だったので、信憑性は疑問視される。
良子女王が、天然なのかは、軽い知的障がいがあったのかは微妙ですが、それに似た傾向があるのは普通に知られており、「知的障害の遺伝」、山県有朋は、本当は、そこを問題にしたかったのではないかと、最近の管理人は想像してます。しかし皇室につながる宮家にむかってそのようなことはいえず、「色盲」の遺伝子、として抗議しましたのかな、とか。
あくまで想像です。
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そして、虎ノ門事件ですが、、、
虎の門事件と時系列
1918(大正7)年、
久邇宮邸 日本館竣工。
同年6月に竣工した西洋館がわずか1年余りで焼失。
1920年
06月 裕仁皇太子と良子女王の婚約がきまる。
良子女王は、学習院を退学し、お妃教育をうけるため、選ばれたご学友とともに花御殿へ。
1922年
1922(大正11)年
3月、久邇宮邸、焼失した西洋館跡に御常御殿が起工、
09月 皇太子裕仁と良子女王、納采の儀
1923年
関東大震災発生、予定されていたご成婚は延期。
1923年
12月27日、虎の門事件、
衆議院議員の難波作之進の息子で、社会主義者の難波大助が、裕仁皇太子を虎ノ門で暗殺しようとして失敗。逮捕される。
1924年
01月25日 皇太子裕仁と良子女王ご成婚。
赤坂の東宮御所に住まう。裕仁親王との関係はこの頃より円満で、当時も手をつないで散歩をしていたという。
11月13日
難波は逮捕された後、大逆罪で起訴され死刑判決を受ける。
11月14日
皇太子と皇太子妃〔香淳皇后〕は裁判判決文を受け取る。
11月15日、
難波大助の死刑を執行。
12月
久邇宮邸、御常御殿が起工。
1925年
5月25日
息子の大助の処刑以後、絶食していた難波作之進、餓死
以上
wikiより
1923年12月27日、大助が虎ノ門において皇太子・摂政宮裕仁親王を狙撃するという事件を起こす(虎ノ門事件)。
銃弾は外れ、皇太子は難を逃れるが、作之進は即日衆議院議員の辞表を提出。地元へ帰り蟄居した。
周防村の村民は、難波家を見れば目が汚れる、と周りに高い土手を築いたといわれる。
また、難波家は毛利輝元から拝領したとされる刀と感状などの文化財を多数所蔵していたが、持ち主の分かるものについては全て返還している(この時津山立石家との間で交わされた1925年4月8日付の葉書が残っている)。
大助は1924年11月15日に死刑を執行された。作之進は遺体の引き取りを拒み、自邸の門に青竹を打ちすべての戸を針金でくくって、三畳間に閉じこもり食を断ったという。
その後、約半年後に餓死した。61歳没。選挙の地盤はのちに松岡洋右が引き継いだ。
以上
「大助は1924年11月15日に死刑を執行された。作之進は遺体の引き取りを拒み、自邸の門に青竹を打ちすべての戸を針金でくくって、三畳間に閉じこもり食を断ったという。」
半年かけて怨念を膨らませながら生き、そして亡くなった作之進。
また一つ、怨霊が誕生したのではないでしょうか。
11月14日 皇太子と皇太子妃〔香淳皇后〕は裁判判決文を受け取る。
どんな顔で受け取ったんでしょうか。
しかし、尋常でない事態でも平然とし幸せに暮らせる良子さま。菩薩だったのか、天然だったのか、高貴すぎるお生まれの方はこうなのか、あるいは、ちょっとおかしかったのか、判断に迷うところです。
ともあれ、良子女王は、三菱の金で敷かれたレールに乗り、めだたく皇太子妃になりました。
話を久邇宮邸にもどしますが、「皇太子妃に相応しいような家を建てた」、、どっかで聞いた話ですね。そうです、隠れ北朝鮮系の小和田家雅子です。
小和田雅子の正体を語るには4枚の画像で十分かもしれません。
一家ぐるみの北朝鮮系工作員であること
朝鮮系であること
創価学会会員であること
北朝鮮から犬を下賜されているキタの工作員であること。
おそらくは、皇太子一家が東宮御所で大切に飼われていた犬は、北朝鮮の書記に送られた2頭の珍島犬の最初の子供でしょう。
小和田一家は、ずっと職員宿舎に住み続け(次官レベルの家族が住むのは違反なのですが)一軒家に住んだことがありませんでした。
「皇太子妃に相応しい実家」として整えるため、小和田雅子の母の親がもっていた田園調布の土地に、やっつけで物流倉庫のようなコンクリート御殿をつくりました。雅子が皇太子の妻になった後、売りに出しましたが買い手がつかないまま、雅子の妹の節子が住んでいたそうです。
当時、売れっ子霊能者だった藤田女史に「皇太子妃になれる」と予言されていた雅子の学歴を、皇太子妃候補に相応しいものに整えるため、福田首相は部下で秘書だった小和田を昇進させ続け、ハーバートの付属女子大の教授にし、バカの雅子を子弟枠で女子大に入学させています。
小和田の教授就任にいたっては、某財閥からお金が動いたと書き込みが会った記憶があります。事実だとして、それが三菱かどうかは不明ですが、、、、、、、。
猫の表情がいい