韓国の本気、日本の本気
韓国の本気
韓国政府「日本製品の不買運動開始」を呼び掛けるが・・・
しかし、国民はやる気なさそう。いちおう参加してますが、実際の商品を買って燃やしたり、破壊したりせず、ロゴをつけた空箱を踏みつけるだけです。
カイカイ反応通信
http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/55557568.html
翻訳元:http://www.ilbe.com/view/11183509870
ほかにも、ユニクロは廉価なので見向きもしなかったが、この不買運動でユニクロが日本製である事実が広まって商品に対する評価が上がり、かえって店は混雑しているという書き込みもありましたし、夏休みは福岡に行く、という書き込みもありました。
一方では、日本の報道は、韓国が日本製品の不買運動をしていると大々的に報道しています。
どこの国も、現実と、報道とは違うようです。
日本の本気・嫌韓の罠
ヘイトの旗振りをしているのは、日本人でないという話
嫌韓系のサイトが数多くありますが、注意しないと危ないなあ、と思うのは、嫌韓ブームや、まとめサイト、保守系ブログの一部、在特会などのヘイト活動が、実は、日韓分離、米韓分離、赤化統一のための、中国・北朝鮮の対日工作活動の一環である可能性もあることです。
余命三年時事日記の初代の爺さんや、桜井誠さん、アネザイチカ、などは、帰化人、朝鮮族・高麗人、背乗り、などの疑いがあるわけで、こういう人たちの旗振りに簡単に乗ってしまうのは危ないんですね。
現地の声
親戚が技術系のエリート社員で、技術提携の関係のために半島に行くこともあるのですが、職場にいる人たちが韓国でも高学歴技術系のエリートだということもあるかもしれませんが、親日的で普通に話が通じるいい人が多かったらしいです。
「日本のためには(日本企業はという意味だと思いますが)、韓国から撤退したほうがいい」と、日本側を心配している方もいたそうです。
あの半島の不幸の基は、馬賊みたいなただ強烈なだけの人間が勝ち残り、まっとうな人間が勝ち残り社会の最上層に行けないことにあると思います。
再掲載させていただきます。
じつは、反日性がなかった併合後の朝鮮人
『降ろされた日の丸』国民学校一年生の朝鮮日記:新潮社
「なんで日の丸を下すんだろう」———— 昭和20年8月13日、朝鮮の港町・仁川に住む7歳の著者は不思議な光景を目にする。
それは、当たり前の生活と秩序が崩れ去る前触れだった。玉音放送の後、優しかった現地の青年は豹変して「この家の物はオレのもの」とすごんだ。隣組では、上陸した米兵に「慰安婦」を差し出す相談が持ち上がった。仁川神社の宮司は行方不明に・・・・・小さな目と耳が捉えていた、敗戦下の貴重な記録。
※画像は管理人が適当に貼ってます。
P114~
一人でぼんやりしていると、近くで十数人の一族に取り囲まれた朝鮮人の長老が声をかけてきた。
「坊や、ちょっとこちらにいらっしゃい」
長老は大声でボクを手招きした。一族と思しき人たちがさっと道を開けた。長老は白い韓服で正装し、顎には白い髭を下腹にも届くほど長くのばしていた気。一目見ただけで、近在の有力者だとわかる。正装は米軍上陸を歓迎する意思表示だと思われた。長老はボクを隣に座らせ、口を開いた。
「坊やね、わしはこの同じ場所から日本とロシアの海戦を見たよ。その話をしてあげよう」
ボクは驚いた。日露戦争といえば1904、5(明治37年、8)年だから、40年も前のことだ。その中の海戦といえば、バルチック艦隊を破った日本海海戦と、太平洋艦隊を破った黄海開戦があるという知識はもっていた。その黄海改選が仁川から見える距離で行われたのかと思って尋ねた。
「それは黄海海戦ですか」
「いや、黄海改選の何か月か前にこの沖でも海戦があった。仁川沖海戦というんだ」
「初めてしりました。それで戦の様子はどうだったんですか」
「ほら、あそこに小さな島がみえるだろう」
長老はボクの顔に身体を近づけ、西南の方角にある島を指さした。
「分かるかい、あの島の向こうに日本の軍艦が何隻か待ち構えていた。ロシアの船は仁川湾内にずっと前から停泊していたが、恐らく日本の船を追い払おうとしたんだろうね。軍艦2隻を先頭に商船も碇をあげて出て行った。そしてね。さっきの島のちょっと左側、方角からいうと南になるのかな。別の島がみえるだろう。あのあたりで打ち合いになった。
けれどね、戦いは一方的だった。日本の軍艦から砲弾が飛び出したと思ったら、ロシアの軍艦に見後tに命中、火薬庫にも引火したらしく爆発がおこっていた。かなわないと思ったんだろうね。ロシアの軍艦も商船もみんな逃げ戻ってきて港に入り、あの手前の島のこちら側に停泊していたけど間もなくみんな沈没してしまったよ」
「乗っていた水平たちも一緒に沈んだのですか」
「いや、沈没する前に、フランスの軍艦から救命ボートが助けに行った。2、3百人は助けたと思うよ。みんな軍艦に収容され、捕虜になった人はいなかった。後で中立違反とか何とか言われていたが、あのころはフランスとロシアは仲が良かったからね。人道的に救われてよかったと思うよ」
ロシア巡洋艦が沈んだ場所
長老は遠い昔の青年時代を思い返そうとしているのか、暫く青空を見上げていたが、また話ははじまった。
「あのときはわしらも嬉しかったね。東洋人がヨーロッパ人をやっつけたんだからね。ここには数十人の若者が集まって一緒に見ていた。日本人は一人もいなかったけれど、みんな大喜びをしたもんだ。いつか日本人に話しておきたいと思ったんだ。坊やはちゃんと位置関係も覚えておくんだよ。あの島とあの島とあの島だよ」
長老は何度も指さしながら繰り返した。歴史の証人として誰かにつたえておこうという強い思いがあるのがボクにもわかった。
「ありがとうございます。決して忘れません」
長老はボクの顔をみながら頷いていたが突然険しい顔つきになった。40年前の青年時代の記憶がさらに鮮明によみがえったのか、
「そういえばあのころ此処に神社などなかったよ。丘の上の広場だった。日本は変な宗教をわれわれに押し付けたけれど、あれはよくないね。何を信仰しようと、宗教は自由でなければならない」
強い調子で言った。そのとき、傍にいた奥さんらしい人が朝鮮語で何か長老に声をかけた。長老は頷くと僕の方を向いて言った。
「わしの話はこれで終わりだ。じゃあ、元気でな」
貴重な目撃談を日本人のボクに語り終えホッとしたのか、老人は一族と思しき人たちと朝鮮語で会話を始めた。ボクは再び元の場所に戻った。
この老人の話でボクは、日ロ間で仁川沖海戦が行われたことを知った。また神社の創立と神道の強制が朝鮮人に反感を持たれていたことも認識させられたのである。
ここまで
長老からは、反日性は感じませんね。
ただ、日本が植民地に神社を立てたこと、満州などでも参拝も強制したこと、これには怒ってますが、創生改名についても触れていません。朝鮮民が自ら望んだことであり、選択の自由があったため、長老も触れなかったのではないでしょうか。
(下)へ続きます。