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【皇室】明治天皇の御製、昭憲皇太后の御製

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本日もお越しいただきありがとうございます。

「日本の本当の黒幕』 鬼塚英昭 P258

 

伊藤博文は盟友の元老井上馨を宮相にしようとした。井上馨は結局蔵相となり、山県有朋系の田中光顕が宮相に就任した。

この宮相が決定した明治31年2月9日に第三次伊藤内閣は、10項目の意見書を明治天皇に奉呈した。この中で伊藤博文は、大室天皇に、のぼせあがるな、という一発をくらわしている。主なものを以下に記す。

・皇族は上流の交流を除く外、「民間の普通の事業」に関係しない。

・神社および寺院等から賜金の下賜などの求めがあっても、なるべく介入を避ける。

・宴会、園遊会での各国外交官等への待遇は一定にし、外国交際に関することは、宮相、外相が十分協議し、重要なものは首相も協議に加わる。

これはほんの一例である。

転載以上

 

つまり、明治天皇=大室は、日本人ならわざわざ言われなくともわかること、日本の天皇という立ち位置や常識や慣習がわかっていなかったことがわかります。

その生涯で膨大な数の和歌をのこしたとされる明治天皇。神祭りが好きなご性質で信仰深く、民を思う歌がおおくのこっていますが、、、。

明治天皇=大室が、そもそも、和歌をよめるんかいな、と疑問がわきますね。詠んでないでしょう。本人は。

 

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http://www.geocities.jp/shintokodou/gyosei.html

明治天皇御製

あしはらの国のさかえを祈るかな 

神代ながらの年をむかへてあしはらの

国のさかえを祈るかな 

神代ながらの年をむかへて 

口語訳

古くから「葦原の中つ国」とたたえられた、この国の永遠の栄えを神に祈ることだ。神代のまま変わることのない新年を迎えて。

 

目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 

人の心のまことなりけり目に見えぬ

神にむかひてはぢざるは 

人の心のまことなりけり 

口語訳

目に見ることのできない神に向かい、少しも恥ずかしくない清らかな正しい心境というものは、誠の心で、それはわれわれにとって最も貴いものである。

 

『日本の本当の黒幕』鬼塚英明

私はここで、大室天皇の素顔を読者に紹介したい。

蜷川新の『明治天皇』から引用する。この本は先に2度引用した。三度目である。

あるとき、天皇は伊藤博文に向かって「おい伊藤、新しくきたあの若い綺麗な女の子は『許嫁があります』といって、我が言うことに従わない」不平をこぼした。それに対して伊藤は「陛下!どうでもあの女を御意に従えさせ給え」と答えたと、明治時代の要人から語られている。

以上

 

伊藤博文との会話のやりとりから察せられる御性格とは、連続性がないですね。

誰かが代作したのなら、一条美子皇后かな、とおもうんですね。

 

wiki 昭憲皇太后 皇后時代

※こちらは、御真影、つまり肖像画を写真にしたものなので、美子皇后の完ぺきに正確な容姿を再現できているかは難があるかもしれません。短時間だけちらっと、貴人を拝したお姿をスケッチして、あとは、部屋に飾られた被写体の衣装や調度をみながら念入りに作成するものだったとおもいます。

嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣・一条忠香の三女として誕生。

生母は側室・新畑民子。右大臣・一条実良(1835-1868年)の妹。

徳川慶喜の婚約者であった千代君、疱瘡のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子とは、義理の姉妹にあたる。

はじめの名前は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。

安政5年(1858年)6月、寿栄君(すえぎみ)と改名(皇女富貴宮の諱を避けるため)。

慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇の女御に治定。

伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦したと言われている。

明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。

同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。

「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」

從三位藤原朝臣美子
右中辨藤原朝臣長邦傳宣
權中納言藤原朝臣公正宣
奉 勅宜爲女御者
明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世

―宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』吉川弘文館所収

(訓読文)従三位藤原朝臣美子(一条美=はる子 20歳)右中弁藤原朝臣長邦(葉室長邦 30歳 従四位下)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣公正(清水谷公正 60歳 正三位)宣(の)る、勅(みことのり 明治天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、宜しく女御と為すべし者(てへり)、明治元年(1868年)12月28日 中務少輔兼左大史小槻(壬生 58歳 正四位上)宿禰輔世奉(うけたまは)る、

 

この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。

当初、中世以来の慣行に従って中宮職を付置され、中宮と称されたが、翌年、中宮職が皇后宮職に改められ、称号も皇后宮と改められた。

この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。

転載以上

 

管理人は歌学には暗いので印象だけで書きますが、美子皇后の歌が、ゆるぎない信仰と哲学に支えられている立ち位置から発せらえているふうにみえる明治天皇の歌と似ている気がするんですけどね。

 

昭憲皇太后御歌

※こちらは撮影されたものらしいですけどね。

君がためまことをつくすまめびとは 

神もうれしとたすけますらむ

君がためまことをつくすまめびとは 

神もうれしとたすけますらむ 

口語訳

天皇のために忠誠をつくす実直な人は、神も喜ばしいとお思いになって、お力を貸してくださることでしょう。

 

金剛石も磨かずば  珠の光は添わざらむ
人も学びてのちにこそ まことの徳はあらわるれ
時計の針の絶え間なく めぐるが如く時の間の
日陰惜しみて励みなば いかなる業(わざ)かならざらむ

水は器に したがいて、そのさまざまに なりぬなり。
人は交わる友により、よきにあしきになりぬなり。
己に優まさるよき友をえらび求めて、もろともに、
心の駒に鞭うちて、学びの道に進むべし。

以上

 

これらの歌を詠んだのが、一条美子さん、すなわち昭憲皇太后なら、明治天皇=大室のかわりに数多くの歌を詠んだのは、一条美子さんかな、、と。ふと思いました。素人の印象ですが。

一条家では、姫君たちの教育に心を砕き、姫君のために屋敷に高台をつくり、姫君たちが市井を見て世間を知るようにできるようにしていたそうです。自分が実子ではないと知った大正天皇がショックを受けたくらいですから、美子皇后が、聡明なかただったのは間違いなさげです。

明治天皇がなくなったとき、皇孫たちに

「よく、みておくように」

と仰せになり、天皇の遺体の顔をおおってた布をとってみせ、死に顔をみせたそうな。

なくなったとき、なぜか身長が測定され、たしか168センチほどだったと思うんですけどね。

 

『日本の本当の黒幕』  鬼塚英昭

大室寅之佑は体重20数貫(100キロ以上)、身長5尺8寸(174センチ)を超える、相撲取り(当時の力士はもっと小さかった)以上の体格をしていた。

 

奇兵隊の力士隊だったころにくらべて小さくお成りになった明治天皇でした。

ちなみに、すぐれた歌人であるらしい美智子の歌も代筆だとおもうんですけどね。

英語、テニス、ピアノ、これ以外に何もしてこなかった中国系の美智子が和歌はよめないでしょう。そもそも、会見の日本語も変なんですから。

ご成婚より正田美智子も何人もかわっているのに、歌のしらべが極端に変わってないとするなら、ゴーストライターが宮内庁にいるんじゃないでしょうか。

 

リアクションが激しすぎ

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