コメント欄より
すり替わりは真実だと思います。
赤坂の広大な一等地を2011年に中華人民共和国が購入しています。赤坂御用地と地下で繋がっているというのも、単なる噂ではないように思えます。
秋篠宮両殿下と真子様は完全に別人と思います。
秋篠宮様は斜視がいつの間にか治り、黒髪になられた。肩幅が狭くなるにはまだお若い。
漏れ伝わる職員に対する癇癪も本人ではなく中国の人だから?等と思ってしまいます。
真子様は身幅が違い、ホンモノに比べ小さいのでは?よく似ているけど顔の輪郭がスッキリしていません。
共通しているのは品がないこと。
※頭部の大きさをあわせると、身長が違ってきます。
誰も触れませんが、誕生したときから佳子様はどちらにも似ていませんね、、、。
本当に怖ろしいことですが手引きしている大がかりな団体がいるのでしょうね。出なければ不可能なことです。
本当の方達はもう二度とお戻りにはならないと思います。生きる証拠ですもの。
以上
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四国の愛媛県砥部。ここが新たな疑惑のスポットになりそうです。
コメント欄より
こんにちはテンノーコーゴーの日程を拝見して?何で砥部で昼食?
砥部だけ、じっと眺めていると異質です。
で砥部のページを見たら、パン屋さんが沢山。
以下
>町内に大手3社パンメーカーや運輸物流会社が存在する。
>四国シキシマパン本社、松山工場(シキシマパン関連企業)(岩谷口)
>山崎製パン岡山工場愛媛営業所、デイリーヤマザキ愛媛営業所(八倉)
>タカキベーカリー西四国営業部、松山工場(重光)
こんなんもありました。
>伊藤ハムミート販売西(株)松山営業所(八倉)
小麦繋がり?でしょうか
あと気になるのは、砥部焼で有名なところです。
焼き物の歴史は、大陸からの人たちから始まることが多いです。
大洲藩の保護の元・・・みたいですが、大名繋がりで何かあるかも。
で、愛媛出身。
砥部町の子? 妄想でした。
砥部訪問だけ異質です、ホントに。
あと松山のANAホテルって、町の真ん中、繁華街です。(泊まったことあります、便利だから)
警護やりにくい場所。
先日ある島の皇室お泊まりの宿(御用達)に宿泊してきましたが、やや人里離れた高台でした。
昭和天皇やご成婚秋篠宮ご夫妻のお写真が何枚もありました。
ご成婚夫妻のお顔をまじまじと拝見して、今のお二人の顔には、たとえお年を召してもならん、と再確認してきました。
身長は・・・ご成婚紀子様、けっこう大柄でした。
話横道から戻します。
そもそも、道後あたりに伝統的高台の宿(警護しやすい)とかの代々の御用達があるはずだけど。皇室は道後、イメージありますけどね。
何でANAかな。皇族は今や裏で利権繋がりのにおいがぷんぷんしますから、ANAとは要するにそういう関係なんでしょうかね。
ちなみに松山は、JALも飛んでいるはずです。なのに、なんでANA ?の疑問もあります。
気になったんで、2017愛媛国体の記事を調べました。
以下愛媛新聞より
>県は26日、愛媛国体の開催に合わせた皇族の来県予定を発表した。
10月9、10両日には秋篠宮ご夫妻が来県し、10日は松山市の県総合運動公園ニンジニアスタジアムで行われる総合閉会式に出席される。
9日は大洲市の長浜高校水族館や松山市の道後温泉本館を視察、10日午前中はニンジニアスタジアムで陸上競技を観戦する。
国体会期中は故寛仁親王の長女彬子さま(2、3日)、故高円宮の三女絢子さま(2~4日)、故寛仁親王の次女瑶子さま(4、5日)、秋篠宮家長女眞子さま(5~7日)、寛仁親王妃信子さま(6~8日)も来県される。眞子さまは5日に今治市の野間馬ハイランドを視察するほか、6日は砥部町でバドミントン、7日は西予市で相撲、伊方町でバレーボールを観戦する。
天皇、皇后両陛下は9月29日から3日間の日程で松山市と砥部町を訪れ、30日にはニンジニアスタジアムで開かれる総合開会式に出席される。両陛下の来県は1993年11月以来、24年ぶり。
>愛媛国体に合わせ来県中の秋篠宮家長女眞子さまは6日、重要文化財に指定されている内子町内子の芝居小屋「内子座」や、砥部町大南の砥部焼伝統産業会館などを視察された。
以上
ニセ眞子さん、砥部行っていますねえ・・・
関連で行われた障害者関連のスポーツ大会でコータイシとヒサコさんも愛媛訪問。
コータイシ 10/28 宿泊道後ふなや
ヒサコさん 10/30 宿泊道後ふなや
このご両名の宿泊がノーマルな皇室の宿泊地だと思われます。
追加
秋篠宮もふなやです。
うーん、テンノーコーゴーANAホテル宿泊、あやしい・・・・
ちなみに国体に行っていないのは、マサコだけです。
コメント欄より
【2014/10/15】http://www.ehime-np.co.jp/
「第62回動物園技術者研究会」出席のため来県している秋篠宮さまは15日、愛媛県立とべ動物園(砥部町上原町)と瀬戸内海巡回診療船「済生丸100」を視察された。
すみません。再度自分のコメントにつけさせて下さい。
上記の自分で貼りつけた記事に違和感・・・再度愛媛新聞のサイトに行って調べました。
記事は2017/9月27日掲載で,まるっともってきてコピペ。
閉会式の秋篠宮さんから書いてあります・・。
フツー、開会式から記述しませんか?テンノー・コーゴーから。
その後に秋篠宮さんの日程。で、その他の皇族さんたちの詳細。
しかし、開会式出席のテンノーコーゴーの日程は、最後にとってつけたように最後の3行。
急に来県が決まったからの3行付け加え?ではなのか。
宿も御用達宿がとれないでANAになったか、それともわざわざANAを使ってやんわりの口封じか脅しか,それとも犯人は現場に戻るではありませんが、コーゴーの現場点検とか。
とにかくおかしいと本能がさわぎます。
ニセミッチー、悪いことたくさんしてますなあ・・・てきな。
転載ここまで
コメント欄より
微感餅さんのコメント、興味深いです。砥部、気になります。
ニンジニアって何ぞや?
と思って調べたら、会社名なんですね。
由来は、>世間を「馬」に例え、当社が馬を釣るニンジンの役目となるが如く「世の中の30センチ先を行き、それを技術力・想像力で実現しよう」という願いを込めて命名された。
馬に例えるとか、変わった思考ですね。
北朝鮮のミサイルが通過するルート、何故か愛媛だけスルーされたことがありましたね。何かあるんですかね。
以上
wiki ニンジニアネットワーク株式会社(Ningineer Network Co,ltd.)
愛媛県伊予市に本社を置く、オフィス用品などの通信販売を行なう企業。
愛媛県松山市に本社を置く株式会社東洋印刷の関連企業。静岡県三島市の東洋印刷株式会社とは無関係である。
ニンジニアネットワーク」とは「ニンジン、エンジニア、ネットワーク」の3つの言葉を掛けたもの。
世間を「馬」に例え、当社が馬を釣るニンジンの役目となるが如く「世の中の30センチ先を行き、それを技術力・想像力で実現しよう」という願いを込めて命名された。なおロゴの「ニンジ『ニ』ア」の上部分はニンジンの絵になっている。
以上
ありがとうございました。
愛媛、、、例の田布施や、昭和天皇が使った軍人が、やたら多かった大分、、
瀬戸内海に面しており、船さえだせば、気軽に行き来出る藩どうしでした。綺麗にトライアングルを形成しますね。
江戸時代の鎖国は緩くて、朝鮮の済州島から海女さんが気軽に出稼ぎにきてたくらいですから、外人のいききはできたんでしょうね。各藩が独立してましたので、江戸時代であっても隠れキリシタンや司祭を隠したり、密貿易に励んだりするのは可能だったと思います。
ちなみに済州島は李氏時代では罪人の島流しの先としての棄民島であり、半島本土の人々からは差別されていたそうですが、気候は温暖で女性は気性が穏やかでよく働く女性が多いそうです。
愛媛は、伊達政宗の血筋の宇和島藩という思い込みがあったので、伊達藩かとおもってましたが、例の砥部は松山藩→大洲藩→新谷藩(大洲藩の分家)、のようですね。
最後は新谷藩で維新を迎えます。
wiki 新谷藩(にいやはん)
大洲藩の支藩である。藩庁として新谷(現・大洲市内)に新谷陣屋が置かれた。
元和9年(1623年)、大洲藩2代藩主・加藤泰興の弟・直泰が幕府より1万石分知の内諾を得て成立した。
内紛の後、寛永16年(1639年)に藩内分知ということで決着し、寛永19年(1642年)に陣屋が新谷に完成した。藩内分知は本来は陪臣の扱いであるが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例である。
寛永9年(1632年)、中江藤樹は当藩に任地替えとなったが、母への孝養を理由に故郷の近江国へ脱藩した。
以上
この「母への孝養を理由に故郷の近江国へ脱藩」という点が妙に中国臭いです。
中国と日本の決定的な違いは、「公」に関する観念のあるなしですね。
軍隊を指揮する武将が、母が病気だから孝行のために、戦線を離脱し家に帰ってしまう、それが美談になる国です。
日本では、逆にそれは「私情を優先したとして」非難されます。家庭を犠牲にしてまでも国や君主に孝行をつくすことを美としますが、、、
管理人は、マイナーな藩のどこかで、リハーサルとしての、プレ維新があったと考えているんですが、、、
もしかして、ここかな?
なんちゃってキリスト教の中国系・洪門系が乗っ取ったとか、、、どうでしょ。
貞明皇后は、九条家の人間ではなく、クエーカー教徒の朱貞明という中国人とされていますが、この人とは母方の血縁と称しているのが、高円宮の久子です。
久子の加齢の仕方や、異様なまでの虚栄と傲慢な言動から見て日本人ではないとおもいますが、この人、四国の香川の鳥取家の出身とされています。高円宮と知り合ったのは、加奈陀の大使館のパーティー、高円宮が急死したのは、加奈陀の大使館、と、カナダとの関係が強いので、やはり中国系ではないかとおもわれますが、繋いでいくと、全部つながりそうですね。
しかし、今の高円宮久子は、ご成婚した久子と同じ人でしょうか。
また、機会があれば、比べてみたいと思います。
砥部町 wikiより
江戸時代 初期は加藤嘉明の松山藩に属した。
1635年(寛永12年)8月 松山藩と大洲藩との替地により大洲藩の所領となる。
砥部焼が振興される。
新谷藩の成立により大南・岩谷口・大平・下麻生が新谷藩の所領となった。
以上
砥部焼wikiより
砥部焼は、江戸時代中期に陶器を焼く窯として始まったが、大洲藩・九代藩主、加藤泰候(かとう やすとき)の時代に、藩の財政を立て直すため、砥石くずを使った磁器づくりを命じたことに起源を発するといわれている。
命じられた杉野丈助(すぎの じょうすけ)が砥部の五本松という所に登り窯を据え、苦労の末に1777年(安永6年)にようやく白地に藍色の焼き物作りに成功したといわれる。
焼き物に必要な薪も近くの山々で豊富に採れたうえ、傾斜地に流れる渓流や小川は水車を据えるのに適しており、原料の砥石を砕き陶土にするのに盛んに用いられた。
嘉永元年(1848年)、トンバリと呼ばれるレンガ造の窯が導入される。
※大政奉還は1867年、明治元年は1868年、廃藩置県は1971年、
明治期に入ると、廃藩置県により、工芸技術者の行き来が盛んになり、それまで各藩が抱え込み、門外不出とされた陶磁器作りの技術が流出し、瀬戸や唐津、あるいは京都などの当時の先進地の情報が砥部にもたらされるようになり、砥部焼も量産が可能となった。
明治5年頃からは松前(現在の伊予郡松前町)の唐津船で、販路を全国へと広げていった。もともと、松前は海に面しており、小船を生かし沿岸の街を行き来する商人が居た。ただ、松前は松山藩、砥部は大洲藩であり、住民の交流は乏しかったが、松前の商人が砥部焼の商品性に着目し、商品として扱うよう求めたものであり、これも廃藩置県の一つの副次効果といえる。
その後、輸出商品として、郡中港(現在の伊予港(伊予市))から出荷された時期もあった。
以上
続きます。