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皇室|薩長土肥、肥前=佐賀の「タブセ町」➃土佐と竹内綱

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本日もお越しいただきありがとうございます。

土佐にタブセはなさそうですが、吉田茂の実父の故郷なんですね。

吉田茂の実父・竹内綱(麻生太郎の曽祖父)

・板垣退助の弟子。

・非嫡出子の5番目の息子・茂を養子に出す。

・土佐藩士時代には、財政再建に尽力したとされるが、正格には土佐藩士ではない。宿毛藩の藩士と自称していた。実際は正規の藩士ではなく坂本龍馬と同じ郷士と思われ。

・明治維新後は自由民権運動に奔走、衆議院議員となった。

・高島炭鉱の経営に従事。

・正妻の間にうまれた4男を養子に与える約束をしていたが、可愛いので反古にし、かわりに「長崎の女郎が産んだ」5男の茂を養子に出したのではないか。

・茂の生母が今を持っても不詳。実子かどうかもあやしい。

・朝鮮半島鉄道の経営などに従事。

吉田茂の実母はいまだに不明です。麻生家は「芸者だった」としていますが、それなら芸名やエピソードも残ってますし、名前くらいは残っているでしょうが、そんなものはありません。ある日突然、「茂」は、竹内綱から実母不明で生まれ、吉田家に養子になりました。

芸者さんを母とすることは恥じる必要はありません。芸者さんは女子アナのような存在でしたから。恥て隠す必要があるほど低いか、ややこしい出自なんでしょう。

吉田の実母の出自ですが、巷では「長崎の女郎」、といわれていますが、その場合は、見受けしてそれなりのところに囲う形で、ロンタリングが可能です。管理人が思うに、実母は、朝鮮の妓生なんじゃないかと思うんですね。

 

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竹内綱の出生地

wikiより

竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、天保10年12月26日〈1840年1月30日〉 – 1922年〈大正11年〉1922年1月9日)は、日本の武士(土佐藩士)、実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎は外曾孫。

天保10年(1840年)、土佐藩家老・山内氏(伊賀氏、宿毛領主)の家臣・竹内庄右衛門吉管の子として土佐国宿毛に生まれる。

 

高知県 同和地区wiki

https://xn--dkrxs6lh1g.com/wiki/%E9%AB%98%E7%9F%A5%E7%9C%8C

 

宿毛市といっても広いですから、竹内綱の出身地が同和地区だったかは、ちょっと調べきれませんでした。

現在の宿毛市は、限りなく、九州に寄ってます。四万十市(四万十=アイヌ語を発祥としているのではとされている)とも近いです。

ありました、白山神社。

白滝山、白皇山、と「白」が続きますね。朝鮮の貴色は白であり、白皇山は、朝鮮の聖山といわれる白頭山とちょっと通じるものがあります。偶然でしょうけど。

 

吉田茂の養父・吉田健三・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長

吉田健三

wiki

1849年、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として誕生する。のち、絶家していた渡辺家の一門・吉田家を再興した。

1864年に脱藩して大坂で医学を、次いで長崎で英学を学んだ。

1866年にはイギリス軍艦でイギリスへ密航し、2年間、同国に滞在して西洋の新知識を習得した。

1868年に帰国。一時新潟に居住するが、のち横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し、日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる。

3年後には同社を退いて起業し、慰労金1万円を元手に様々な事業を展開する。英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。

自由民権運動の高まりを見せていた当時、健三は自由民権・国会開設派の牙城であった東京日日新聞の経営参画を通じ、板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々と誼を通じて同党を経済的に支援した。

特に竹内とは昵懇の関係にあり、1878年の保安条例公布によって東京を追放された際には、横浜の吉田邸に身を寄せている。

1881年8月には、竹内の五男・茂を養嗣子とする。

生来心身頑強だったが、1888年の父・謙七の死去後に病を得、横浜にて急死した。享年40。

以上

 

・吉田茂の養父。親友竹内綱の非嫡出子・茂を養子にした。

・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長

・ジャーディン・マセソン商会の子会社が、龍馬がつくった海援隊でした。

龍馬は、誕生日に暗殺されています。鬼塚氏は、坂本龍馬は、公になっている死因とは違い、誕生パーティーで、毒殺されたのだろうと推測されています。

 

※http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/621.htmlよりまとめさせていただきます。

1864年、太平天国が滅亡

東インド会社の蛮行が世界の非難を浴び、正式に東インド会社は消滅しHSBC(香港上海銀行)へ改名、

・メーソン・ロッジが上海に林立。白人の血が入っているであろうと予想される正田美智子の母、富美は上海夫人といわれていました。上海で、たくさんの白人と中国人、あるいは、上海にいた他のアジア人との混血児がうまれたのは予想できます。

よく指摘されているのは、岸信介と佐藤兄弟の風貌は「典型的な白人とアジア人との混血の風貌」だそうです。

・ロンドンで植民地協会が設立。

・4年後、同協会は、英国王室の後ろ盾によって、王立直轄植民地協会と改名。

・この王立直轄植民地協会によって創立された金融機関が、HSBC(香港上海銀行)。

 

HSBC出資者

・デビッド・E・サッスーン商会、エヴリン・ベアリングのベアリング商会、ディン・マセソン商会、バークレイズ銀行(ロスチャイルド人脈の役員によって構成)、全員が高位フリーメーソンのメンバー。

サッスーン財閥、ロスチャイルド財閥、ジャーディン・マセソン商会、などが引き継いだ。

・ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長が、吉田茂の養父吉田健三、若くして亡くなったのにもかかわらず、莫大な資産を吉田茂に残しました。

 

1862年・グラバー商会設立

・ジャーディン・マセソン商会の代理店。長崎に設立。

・トーマス・グラバーはフリーメーソンのメンバー。長崎に設立。志たちを援助。

・倒産後は三菱の岩崎弥太郎の顧問となり仕える。

 

1865年・亀山社中設立

・ジャーディン・マセソン商会は、アメリカ南北戦争が終わり売れ残った武器を上海で取扱い、維新軍に「グラバー商会」を通じて、銃や軍艦なども輸出。

・その取引のダミー商社が坂本龍馬が長崎に設立したのが亀山社中」。

・「亀山社中」は、後に「海援隊」と改称。

・竜馬の死後、利権を受け継いだのが岩崎弥太郎。

・破産した後、グラバーは岩崎家に仕える。

・岩崎は海援隊の事業を引き継ぎ、三菱財閥を創った。

つまり、

・アヘンと武器輸出で大もうけした東インド会社が名前を変えたものが、HSBC。

・HSBC=のジャーディン・マセソン商会

・ジャーディン・マセソン商会の支店がグラバー商会。

・グラバー商会の支店が亀山社中=海援隊

 

明治維新

・明治維新で伊藤博文、井上馨ら長州5傑(Choshu Five)が、グラバーの仲介で、イギリスに密航しロンドン大学に留学。

・そのときの船はジャーディン・マセソンのもの。彼らを迎えたのはジェームス・マセソンの甥であったヒュー・マセソン。

・明治維新はフリーメーソン、ジャーディン・マセソン商会、サッスーン財閥、ロスチャイルド財閥が深くかかわっていた。

※http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/621.htmlより。

 

薩長土肥の土佐の場合は、タブセつながりというより、外資つながりで、一角に入ってきたのかもしれませんね。

吉田茂などのような「イルミちゃんの代理人的政治屋」はでましたが、政治的には、土佐からは、目覚ましい元老元勲は出ませんでしたね。

さらに恐ろしいことが書いています

竹内綱

wiki

宿毛山内家の軍事費、すなわち外国船打ち払いの費用を確保するために、領内特産のクスノキから当時極めて高価に輸出されていた樟脳を製造して高利潤を上げる。

 

続きます。

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3 件のコメント

  • TB○の竹内明氏の高祖父だそうですね。さすがはTB○。きら星のように人材がいますね(皮肉を込めて)

  • 土佐/足摺の白皇山は、地名の背乗りのようですね。
    あのあたりは、大好きな地で、何度も通いました。

    足摺には、四国の88カ所の38番金剛福寺がありますが、ここは第38番札所 蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺、さださんがオリジナル、本当です。
    白皇山の地元名は、今もさださん(佐田山)です。
    それと、このあたりはちょうど黒潮がぶつかるところで(うすばえ)といいます。
    謎の巨石群があって、縄文的な遺跡です。
    ここは、すごいですよ。
    ストーンサークルも真っ青なスケールです。

    白山神社も、江戸あたりでの背乗りだと思います。
    そもそも、白山社とは相容れない景観ですから。
    遍路史的には、辺地・・アジールとして位置ずけられていたエリアです。
    白山社を縄文的な聖なる地であったところに造営して、不可侵的なエリアを取り込んだんじゃないかな・・と思います。
    土佐に半島から来るには、どこかにいったん渡って、黒潮に乗らないと来られません。土佐の足摺あたりについた人たちは南からの人が多い気がします。
    土佐の人、色も黒くて縄文系の顔立ちの方が多い気がします。
    ただ、今から20年近く昔ですが、足摺の民宿にとまったときに不審者・・・密航者が発見されて大立ち回り事件があったという話を聞いたので、かつて江戸期にもフツーに密航的にやってくる人たちはいたと思います。
    あと、鯨ですね。
    米がとれない貧しさを補うために捕鯨(古式捕鯨はかっこよすぎ)がさかんな土佐でした。
    当然、米国から土佐沖まで鯨を追ってきた米国の船はいたと思いますよ。
    で、接触あってもおかしくない・・・
    土佐は、そんなこんなで黒潮の流れから見るに、薩長とは事情が少し違っていたように感じます。

    沢山の記事アップ、ありがとうございます。
    ゆっくり拝見します。

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