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皇室|薩長土肥、肥前=佐賀の「タブセ町」⑨賤民によるクーデター

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⑧からの続きです。

wikiより編集

島津斉興

1817年

側室お由良との間に、久光誕生。

1818年

斉興のごり押しで、久光を種子島家の養子にする。

1825年

斉興の心変わりにより種子島家との養子縁組を解消、島津一門家筆頭の重富島津家へ養子に入った。

名族ではあるが家老どまりの種子島家に対し、重富家の養子ともなれば次期藩主の地位を狙える立場となる。

一方で斉興は嫡子である斉彬に対して家督を譲らなかった。

これは斉彬が既に将軍家へのお目見えも終了し、将軍・徳川家斉の弟で御三卿の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としていた事もあり廃嫡が不可能とわかり、どうしても斉彬に跡を継がせたくないため、藩主に居続けたものと思われる。

斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となったが、この頃には嫡子が元服すれば早々に藩主位を譲って隠居するのが習慣であり、この事態は異常であった。

 

嫡子とは気質があわない、などの性格的な違い以外に、何か、頑として隠居することに対して、強固に拒む理由があったのかなあ、と。もしかして、斉興は、何かに、気が付いたのかなあ、とか。あくまで妄想ですが。

 

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wiki

当時、藩政は下級藩士出身でありながら斉興に重用され、家老にまで上り詰めた調所が強引な改革を進め破滅的だった財政を改善していたが、調所は久光を支持していた。

これに対し、国元の若手藩士を中心として斉興と調所に対する不満が高まっていた。

 

「国元の若手藩士を中心として」、、、、若手藩士、、、例の高麗町派でしょうか。

斉彬派の代表は、西郷や大久保が有名で、司馬史観では、西郷が薩摩藩の総意と世論を代表する英雄のように書かれていますが、幕末、京都で討幕活動などに動いたのは、薩摩藩でもごく一部の藩士でした。しかも、これらは、薩摩藩の藩士の中でも最下層に位置し、「武家とは名ばかり」の「汚れ仕事を引き受ける被差別民部落民」であり、もともとは、嘱託社員のような扱いだったはずです。

思うに、幕末、京都に派遣された少数の藩士とは名ばかりの藩士が、京都で、勝手に暴走したと考えていいんじゃないでしょうか。

 

現代に例えるなら、商社Aから某国へ非正規雇用の社員を派遣したら、商社Aの名刺と信用を利用して、派遣した非正規雇用の社員が現地の反政府軍と組みクーデターをやってのけ、成功したあとは、某国の大臣かなにかになり、その権限をもって、商社が投資していた施設や資金を、国有化し私物化してしまい、商社Aを追い出してしまった。という感じでしょうか。

商社Aが薩摩藩、某国が日本と置き換えれば、なんとなく、維新の正体も見えてきそうです。

 

結局、少数の非正規雇用のような立場だったはずの「朝鮮被差別部落・高麗町」から出た藩士とは名ばかりの藩士が、京都に送られ、なにものかと組み、天皇を担ぎ上げて国の中枢を乗っ取り、新政府をつくりあげ、廃藩置県をもって薩摩藩主から薩摩を奪い取り、西郷に煽られた薩摩藩士を西南戦争で皆殺しにしました。

西南戦争にいたっては、管理人は、西郷は「薩摩藩の粉砕」、最初から、これを狙ったのではないのかと疑ってます。

「新政府」は、西南戦争で、天下最強の軍事藩であった薩摩藩を、会津征伐では、天下最良の政治藩だった会津藩をつぶし、将来、近代日本の核となる軍人と官僚となるべく人材を根こそぎつぶしたうえで、日本を占領しました。

正直、許せないものがあります。

wiki

斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848年)、ついに琉球における密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば藩改易に成りかねない紙一重の手段に打って出た。

冷静に考えてみて、普通、こういうのを、裏切り、ご謀反、クーデターといいませんか。

この人、本当に、司馬氏がたたえるほどの名君なのかなあ、、、と、ちょっと違和感がありますね。

wiki

琉球での密貿易は慶長14年(1609年)に藩祖・島津忠恒(家久)の琉球出兵で琉球が薩摩の勢力圏に入って以来、行われてきた公然の秘密で、薩摩藩の主要な収入源の一つであった。

調所は密貿易に商人を関わらせ、利益を上げさせることで藩の借金を棒引きにさせていた。調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の嘉永元年12月19日(1849年1月13日)、薩摩藩江戸芝藩邸で急死する。

これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう一人で罪をかぶり服毒自殺したものとされる。

これにより調所の排斥には成功したものの、肝心の斉興は隠居しなかったため「斉彬襲封」の実現には失敗した。

一方、補佐役を失った斉興はさらに斉彬を恨み、是が非でも久光に跡を継がそうと思う様になった。

 

後世の人間の単純な疑問として、、、、

自分が藩主になるために、最下層の朝鮮系被差別民を使い、一歩間違えたら薩摩藩をつぶすことになりかねない謀議に参加し、平気で幕府に密告する斉彬公は、はたして、名君だったんでしょうか。たしかに、多才で、バイリンガルで、かつ、グローバルだったのかもしれませんが、日本人として、薩摩人としてどうだったんでしょうか。

ちょっと引っかかります。

 

⑩へ続きます。

ウサギの頭は悪くはない

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2 件のコメント

  • 記事更新有難うございます。
    でれでれ草様のご考察、

    》》西南戦争にいたっては、管理人は、西郷は「薩摩藩の粉砕」、最初から、これを狙ったのではないのかと疑ってます

    ハタッと膝を打ちました。
    生まれた所には、西南戦争跡地や、西南戦争で絶命した方達の無縁仏塚があったのですが、
    教科書で習う西南戦争と、それらを弔う地元の雰囲気・心情との差に、なんとなく釈然としないものを小学生の頃から抱いておりました。
    なんとなく口をつぐむ雰囲気の意味がわかりました。
    そして、廃藩置県後の、お城の解体の早さ。
    西南戦争の教訓から、無人のままでは賊軍が立て籠もってはいけないから解体が早かったと習いましたし、それは理由として至極当然のように思っておりました。
    全てを解体して、記憶の上書きをしたかったのですね。

    たまたま母方の親戚が、明治以来、官憲畑の人が多かった事と、主人の8人の大伯父達が、
    明治・大正・昭和とほぼ全員軍人、憲兵だったので、
    エピソードをいろいろと聞いておりました。
    嫌われている上官に、明治の元勲繋がりの方は多かったそうです。

    特に、二番目の大伯父は、天皇陛下が乗船される軍艦だったか、或いは護衛艦だったかな? の船長だったそうです。
    大伯父の守秘義務の為、詳しくは書けませんけれど。
    朝鮮半島で憲兵だった5番目の大伯父は、
    佐賀県出身の奥さんを連れて引き揚げて来ましたが、
    主人の母曰く、お姑さんから、「あん人は佐賀の人やけんね、(話は)適当に聞かんとね。」と言われたそうです。

    多分、地方あるあるで、お互いの隣県との仲の悪さとかは何がしか語られていると思いますが、
    (滋賀県と京都・大阪とか、、)
    佐賀県の隣県では、
    「佐賀の人の通った後は草も生えない」
    と、言われてます。(佐賀県の皆様、ごめんなさい。)

    佐賀県唐津市に、かつて『白石』と言う地区があり、明治になってから、集団で他地区に移住をして、全員白石姓と言う地域もあります。
    そこの嫁さんは割とDVに合う事が多く、
    男性の体格・性格から思うに、半島から来た方達かな‥なんて思う事もあります。

    佐賀県は肥前ですが、同じく肥前の肥前松浦藩は、
    維新後、石高の虚偽報告をして、伯爵になったと聞きます。

    様々にモザイクな北部九州です。

    また、次の記事を楽しみにしております。

    • >多分、地方あるあるで、お互いの隣県との仲の悪さとかは何がしか語られていると思いますが、(滋賀県と京都・大阪とか、、)


      わかります。それ(笑)
      どこの国もそうだと思いますが、小都市であれ、大都市であれ、けして隣とは融合せず混じることがないですね。
      個人的には、全国都道府県の中で、京都の人間が一番好きなんですが、京都の方は、文化力の高さのせいでしょうか、何かにつけて、オブラードに包んでお話しされるので、大阪人としてはその本意が見えにくく、会話が成り立ちにくいところがあります。
      近畿も、面白い土地です。

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