
参政党と「愛と幻想のファシズム(村上龍)」
既視感があるんですよね。

この本。参政党の登場を予想(あるいは予定)してたのかもしれないですね。

似た場面が登場します。

村上氏の「愛と幻想のファシズム」を端的にまとめると、
経済的に行き詰った日本、声と顔のいい「狩猟的人種」のカリスマが電通のような広告会社によって売り出されて大衆を騙し続け、「人気」と「民意」によって日本の政権を収奪した結果、日本は南米型の発展途上国になりましたとさ
というアメリカと電通の扇動者が書いた本です。
「占領者」の立場から、「占領者の悪」が書かれた文学でもあるのですが、プロセスや中枢にいる人物たちや組織の空気が、参政党に通じるものが多いです。
電通の依頼で資料や設定を与えられて書いたものかもしれない。
電通という宣伝省
イルミナティは予言や霊能者の霊言を上書きすることで常勝してきました。
その下部組織でナチスの宣伝省にあたる電通の仕事の仕方がわかるブログがあります。
脚本家・井沢満氏のブログです。
ドラマ「同窓会」 井沢満のブログより
内実を申せば、局からオファーを受けた条件が2つ。
斎藤さんを主演にすること。タイトルは「同窓会」であること。
困惑しました。
2つの条件共に困惑しました。
当時斎藤さんは、今回のようなゴシップの渦中にありそういう方をヒロインとして書く、ということは作家にとっては至難なのです。
美しく描くほど、視聴者の失笑が耳に届くに決まっていますから。
そして「同窓会」とはまた、なんという地味なタイトル。
後年その理由を聞いてへたったのですが、単に電通のその年の予測として「同窓会」がブームになるから、という局の上層部の方の判断だったそうです。
※転載以上
若いルサンチマンと美女たちのサークル
村上氏の「愛と幻想のファシズム」に話を戻しますが、カリスマの冬二、村上氏自身を投影してるであろうキャラ、絶世の美女フルーツ、の三人を主役として展開します。
作品の中で書かれている、冬二の組織のボードメンバーたちや、実働部隊「狩猟社」や中枢の空気は、かつて、関東連合などの反グレとモデルや女優たちの社交場だったロアビルのクラブに似てますね。反グレ・ヤンキーと、彼らの暴力とスピード感に惹かれて集まってくる若い女優やモデルなど美人たちのサークルです。ファッショナブルで短慮で衝動的で感覚と感情だけで動く若者たち。「革命」とはこうした人たちが起こすものなのかもしれない。
そしてそれは妙に、年代が中高年になりますが、暴力的で独裁的な代表を中心とする党の「空気」にも被るのです。

村上龍文学
村上氏の文学やエッセイを読むとわかるように、村上氏は、「俺はダメなやつだ」「俺は日本人だ」「日本人だからダメなんだ」「日本も日本人も悲惨だ」という阿片が蔓延する阿片窟の中で生きてる方です。電通も使いやすい扇動者だったと思う。
社会経験のない若い層や低知能なまま加齢した中高年は、村上ワールドの阿片に騙されるかもしれない。アマゾンなどの高評価レビューを読んでいただくとわかるのですが、村上龍のファン層は、そのまま参政党支持者と性質と似た人が多いです。
欧英米の支配層の謀略が失敗し続ける理由は、「日本に対する過小評価と蔑視」です。彼らの下部組織の扇動者である村上氏が書く多くの作品もまた、同じ韻を踏んだうえで書いた作品です。
「愛と幻想のファシズム」では、主人公は独裁者になりますが、現実は、作品通りにはならないでしょう。
非占領者・植民地文学
村上龍氏の文学の土壌は、絶対的強者が大多数の弱者を搾取する社会、これを「生態系上に正しい」として肯定し開き直る世界感が基盤になってると思う。
世界観と価値観はシンプルで、「狩猟的」と「農耕的」に分けて差別化し、前者を強者、後者を弱者と定義づけています。
佐世保で生まれ育ったご自身を、「自分は外国の軍隊が占領され、占領軍が自国の女と〇〇してるのを見た初めての世代だ」と定義づけ「植民地文学と定義つけらえる」みたいなことを書かれたと思う。
しかし、「自分は外国の軍隊が占領し自国の女と〇〇してる」のは、保元の乱以後の京都がずっとこの状態です。別に新しいテーマでも何でもありません。
しかし京都は、武家を下座に座らせるほど文化力がすごいのです。ナチス侵攻後のフランスもそうでした。別に新しいものではないです。
「狩猟的人種」の咆哮
村上氏が理想とする「狩猟的男性」というのは、狩猟時代の形態でいる基本的にピンで動く男性のことであり、「狩猟的社会」というのは、一人のカリスマが群れを支配する原始的な社会です。
これらは、とうの昔に集団化された農耕民族によって淘汰され、農耕民族によってつくられた文明の中に取り込まれた人たちでもあります。
「狩猟的男性」の生き方は、それぞれのスペックと意思で変わってくると思う。
独立志向と行動性が生かされたら、ワンマンな経営者になりますが、組織の運営に失敗するか、組織への適合を放棄すると、体力があれば反社や反グレ、運が良ければ女性に養われてる「ヒモ」になれるでしょう。物理的な資産がない場合はホームレスになります。村上龍は「愛と幻想のファシズム」の中で、「狩猟的人種」の敗北者も描いてます。
村上氏のエッセイやコラムには、
「サラリーマンは悲惨だ、日本人は悲惨だ、しかりオレは金を持ってる、奇麗な若いねーちゃんたちと〇〇できる。ざまーみろ」
という咆哮が目立ちます。
村上氏の場合、電通によって知名度があり、カネを持っているから形になるのであって、資産がない場合は「俺は好きなことしかない人生を送ってる。ざまーみろ」と、酔っぱらったホームレスが通勤サラリーマンの一群を罵倒してる図となります。
両社は物質というY座標をはさむ線対称の存在です。
あんまり言いたくないのですが、村上龍さんは電通が作った「ヒモ」だったと思う。
村上龍文学は、読み物として面白いのかもしれませんが、読書後、なぜか鬱っぽくなるんですよね。
なんででしょうね。
※転載以上