信子妃・吉田茂・麻生家・白洲家の謎と疑惑の維新⑮
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白洲次郎
wikiより
生い立ち
白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた。後に兵庫県川辺郡伊丹町(現:伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居した。
1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学、サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。アメリカ車ペイジ・オートモビル(Paige Automobile )のグレンブルック(Glenbrook )を父親から買い与えられて乗り回しており、級友等を同乗させている写真が残っている。神戸一中での成績は中以下で、成績表の素行欄には『やや傲慢』や『驕慢』、『怠惰』といった文字が並んでいる。神戸一中時代には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に古典中国文学者の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。(以上)
たしかに男前ですが、どうみても混血児でしょう。
性格が悪かったみたいですね。自慢話ばかりする退屈な奴で嫌われてたそうです。
そしてヘタレだったとか。
身長180センチの大柄な白洲は、自分はボクシングが強いと自慢していたけど、新日鉄の社長の永野重雄さん(160センチあるかないかの日本人体型)にぼこぼこにされています。
永野氏は柔道の高段者。永野氏と白洲が銀座のクラブ・エスポワールで喧嘩になり、永野さんは白洲のパンチをかわしつづけ、白洲の腕をつかんで投げ飛ばしつづけ、最後は髪をつかんで店中を引きづり回したそうな。その姿は、それはそれは哀れだったそうな。
白洲は渡英した経歴がありますが、3年間、何をしていたのか不明だそうですね。
白洲次郎の父が英国人娼婦に産ませた子供という説を聞いたことがありますが、ユダヤ財閥のウォーバーク家の落胤ではという説も、、、。
※お借りしてます。
23338、白州次郎は白州家の養子、ウオーバーグのエージェント説は確か? – THINKING LIVE シンキングライブ
で、もう一つあります。白洲次郎という男が非常にもてはやされております。これから白洲次郎という男について語ります。この男を語ると昭和史の闇が見えてきます。
彼は白洲商会というのがあって、親爺は繊維問屋をやってて、繊維不況の中で倒産します。小さな会社です。親爺は倒産してどうしたかというと、九州の山の中に掘っ立て小屋を建てて、借金取りから逃れて、そこで一生を終わる男です。ちょうど白洲次郎がケンブリッジ大学に行ってるんですね。倒産します。
で白洲次郎はどうしたか。白洲次郎は当時のイギリスのクラッシック・カーを乗り回して盛んに遊びます。なぜそんなことが出来るのか?
白洲次郎を助けた男にジグムント・ウオーバーグというのがいます。
※この人でしょうか。1835年生まれ。
その男が生涯にわたって金もなくなった男に巨大な金を与えてケンブリッジに行かせて、その後も一生大事に育てるわけです。おかしいと思いませんかこれ。
僕はねどうもこの男(白洲次郎)は日本人じゃないんじゃないか、ウオーバーグの子どもじゃないかという考えをずっと持っておりました。
で、ちょっと前に『1945年占領史』という本が出まして、その本を読みました。徳本栄一郎という人が書いた本で、その中にですね、妙なことを書いてました、
結局、彼はホワイトクラブというのがあるんですが、最高権力者、チャーチルとかロスチャイルドとかMI6の長官とかトップクラスの者が入る、イギリスの最高の貴族クラスが入るクラブの会員であったと。(注 会員ではないが出入りしていた)
貧乏人の男で親父が掘っ立て小屋に住んでるのに、どうして彼はできるんだろうと。
そしてまた彼の『1945年占領史』という本を読んでいる時に、ああそういうことかと思いましたね。
彼が日本に帰ってきて、ある雑誌社でしょうね、ジャパン・アドヴァタイザーという、『ジャパン・オブザーバー』という雑誌社の編集員になる。
そして彼が記事を書いてるすべての記事は、ジョン・シラスと書いてる。
そうなんですよ、彼は白洲次郎である前に、ジョン・シラス・ウオーバーグなんですよね。僕はそう思います。
だから彼は親爺が掘っ立て小屋を建てて借金から逃げているのに、ずっとクラッシック・カーを乗り回して・・・
白洲正子というのが女房なんですけど、白洲次郎のことを盛んに書いてます「白洲次郎はイギリスで最高の暮らしをしていました。クラッシッ・カーを乗り回していました」」と。なぜそれが出来るか。それは間違いなく彼は、僕ははっきりそう思います、彼はジークムント・ウオーバーグの子どもであると。
http://blog.goo.ne.jp/thinklive/e/5b537ed57d3972f34bca41fea1118f7f
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ジークムント・ウオーバーグの画像は拾えなかったのですが、その孫の画像が、たぶんこれだと思います。
青枠でかこっています。
1902年生まれ。白洲と同じ年に生まれています。
はたして、同族なのでしょうか。
山本五十六の真実③白洲次郎ブームと山本五十六誹謗中傷はセットである
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/686.html
さてジークムントは1925年ロンドンに出て、
N.M.ロスチャイルド父子銀行で見習いをしながら、
ケンブリッジ大学で経済学を聴講している。
次郎がケンブリッジを1925年に卒業し、
1928年に白洲商店の倒産で帰国するまでの3年間、
密かに接触していたと思われる。
間を取り持ったのはロビン・ストラッドフォードだろう。
私はロビンも次郎と同じ身の上にあったと思う。
二人のオイリーボーイは『卒業旅行』に出かける。
その先にジークムントが待ち構えていたのだろう。
次郎はロビンとは終生の付き合いをしたという。
二人はお互いの傷を嘗めあう唯一の友だったと思う。しかしジークムントは次郎と同じ年である。
そこでもう一度ウオーバーグ家の人間を調べたところ、
次郎の養父・白洲文平と接触した可能性のある人物がいる。(転載ここまで)