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秩父宮雍仁親王(wikiより抜粋)
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)1902年(明治35年)6月25日 – 1953年(昭和28年)1月4日。享年満50歳。
大正天皇と貞明皇后(同日の誕生日であった)の第二皇男子。
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秩父宮雍仁親王の父・大正天皇
御真影と写真
御真影とは肖像画を写真にしたものですが、、、これがそうですね。ちらっとご本人の御顔を拝して画家がスケッチした後に、時間をかけて、後日、衣装や宝飾品を飾った状態の部屋で念入りに描きこみ、出来上がった肖像画を写真にしたものです。
床の遠近法がおかしいので、これは肖像画を写真したものか、絵画に複数の写真をはりつけたものでしょう。
大久保利通も肖像写真を多く残しています。
左は生の大久保の写真ですが、中央はスケッチのあとがあります。右は肖像画を写真にしたものでしょう、たぶん。机の影や手が不自然だと思います。
大正天皇も、お写真と御真影=肖像画を写真にしたもの、とあるようにみえます。もちろん、ああいう皇統ですからダブルも普通にいたかもしれません。
お写真の大正天皇
本物だと思うんですが、、。鼻の幅が広く下唇が分厚く見えます。
御真影ー肖像画の大正天皇
たぶん肖像画だと思うんですね。まちがえてましたら訂正します。
尖った耳にして描いてますね。
どういう髪型なんでしょうね。丸坊主?にして神が伸びかかっているのか、、、右肩の下がり方が不自然にみえますが、こんなもんでしょうか。
膝のシワ、靴のてかり方が、嘘くさい感じが気になります。
左は輪郭線が残ってんじゃないのかな、、とか、中央の帽子の飾りや帽子が嘘くさいとか、絨毯の柄は遠近法に準じているのだろうか、とか。
気のせいでしょうか、右腕が短いような、、、それに、手が嘘くさい。
これもそうなんじゃないかなと、、、。鼻筋が嘘くさいんですね。
気になるのは、多くの御真影では大正天皇の左右で目の形を、微妙に違えて描いていることなんですね。
悠仁様も、本物の垂れ目の悠仁様から、釣り目の悠仁様へすり替わりましたが、ある期間は、片目を釣り目、片目を垂れ目に片目ずつ違う形に加工されていました。
いきなり釣り目になると違和感があるからでしょうか。
話を大正天皇にもどしますが、この人が本物カナと思うんですが、、、それほど左右に違いはないように見えます。
①②③④が写真、⑤が肖像画かな、、と。①②が④と同じかどうかは、微妙な感じですね。当時のフイルムですから写りかたにムラが出ると思いますが。
ああいう皇統ですから、ダブルがいても不思議はないのですが、、病気になった大正天皇を4人の皇子が見舞わなかったいう冷たさの理由はなんでしょうね。
4人の皇子にとって実父でないから。あるいは、晩年はダブルだったから、、、いろいろ想像は膨らみます。
しかし、昭和天皇が生前、大正天皇のことをいっさい語らなかったというのは事実のようです。
昭和天皇だけではなく、貞明の4人の皇子と大正天皇との間の父子の関係は、冷たい関係だったようです。
大正天皇と大正天皇の実父
気になるのは、大正3年、第一次世界大戦が勃発し、日英同盟に基づいて参戦しますが、このときの宰相が大隈重信なんですね。
御前会議で、首相・大隈重信、外相・加藤高明は、8月15日の御前会議で参戦を決定しました。大正天皇はこれを支持しました。旧時代の怪物・山県有朋が猛反対したのにもかかわらず、です。
大隈重信、、、そうです。大正天皇の実父じゃないのかといわれている人です。
大正天皇と大隈重信。肖像画である可能性があるのですが、本人に似せて書いているものどうし並べるとやはり似ています。
仮に、このお二人の関係が真実の親子だとしてみましょう。平安時代の摂関政治は、天皇の外戚が要職を独占し行政を切り盛りする体制でしたが、大正天皇即位後は、それににた体制になっていたことになります。
「元老」山県による大隈重信の辞職、そして、皇太子・裕仁派による大正天皇を「ご病気」とレッテル貼っての追放と暗殺が事実なら、「英国派&大正天皇と実父による親政」対「山県&アメリカ派&裕仁天皇と実父西園寺派」という、今までと違った光景が見えてきます。
続きます。