続きです。
正田富美(美智子の母)
「縁談には、どうしても一種のストラッグル(闘争)という面が出てきますものね」
「いいたいことをいわしていただいた。よくあちらさまが我慢なさったと思うくらい」
※嫌々、娘を嫁にやるにしては嬉しそうな富美
当時、皇室に対してこんな無礼な態度をとる日本人がいたでしょうか。
大陸女郎あがりのヤクザの情婦にして中国朝鮮族の混血児にして異教徒なら納得がいきます。
小泉信三と正田富美
美智子の皇太子妃冊立に動いたカトリック系工作員・小泉と、正田富美との繋がりは皇太子のお妃選び以前からのようです。
コメント欄より
美智子さんのWikiにある「中支那振興常務理事 副島綱雄の長女」 で、中支那振興が、富美さんが上海で生まれた頃には出てこないので、色々と調べてみました。
ブログに(正田家の闇だったかな)中支那振興が出てたので、クリックしてみますと、「見つかりません」ではなく「削除されました」となっておりました。
とっても臭ったのですよ。
(略)
私の場合は、人間関係で推測してみました。
私は何故戸籍のない綱雄さんが、中支振興常務理事になれのか不思議でした。
その戸籍のない綱雄さんの娘さんの為に、当時トップの為替銀行(横浜正金銀行)の頭取がお仲人までしてるのも不思議でした。
そしてそのトップの為替銀行の中に、富美さんの娘・美智子さんの陰謀めいた入内を決行した小泉信三さんのお父上・小泉信吉さんが、銀行の運営をしていたことも不思議でした。
伏見様のブログに依る新事実:
かつて佐賀県多久に網雄さんと言う男性がいて、若い頃上海で仕事をしてました。
1923年に、娘富美を連れて帰国。
1959年の皇太子妃婚約前に、副島家に戸籍を売って下さいと頼みに来たが、断られたので、勝手に副島を名乗った。
本当に不思議なことだらけです。今度の大砲の照準は、本丸・富美さんです。
(以上)
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正田富美と、小泉信三とのつながりは「正田美智子がお妃候補になった」時点から生じたものではなく、またキリスト教徒という信仰つながりだけではなさそうですね。
松平女史が旧華族からお妃候補をあげても、小泉たちは動きません。
「旧華族からお妃候補となる女性がいないので」「聖心女学院にお妃候補に相応しい女子学生のリストを依頼した」とされますが、神道の祭祀王になる妃を選ぶのに、カトリック系の学校に依頼することは本来ならありえないはずです。
しかも、偏差値の高くない、当時は「成金のバカ娘」と言われていた女子に依頼するのは異常でしょう。さらに、トップに正田美智子の名前があることも異常です。
そして、正田富美の愛人であり、美智子たちの実父とおもわれる堤康次郎が開発した軽井沢で、「テニスコートの恋」がおぜん立てされます。
初対面の皇太子と美智子の写真を修めたのは、フロジャック神父と親しい田中最高裁判事でした。明仁皇太子を誘導し、正田美智子に関心をもたせ関係を繋ぐ役だったのでしょう。
明仁皇太子妃決定の第一報は、アメリカのマスコミのリークでした。
皇室会議にかけられることなく、あとは、なし崩しに海外のマスコミのリークに添う形で決まってしまいました。
戦後は、マスコミが神託となり法を踏みにじり法を超えたのです。
そして戦後、神託としての機能を持つマスコミと世論を支配したのが、GHQ、CIA、これらとつながり、共同通信に閨閥を持つ美智子でした。
※転載させていただいてます。
元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》 – BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。
1959年
11月17日 ニューズウイークが皇太子妃決定の配信
「テニスコートの恋」
11月24日 宮内庁公電をもって館林=正田家に通知
11月27日 皇室会議
1960年
02月06日 国会 昭和34年内閣委員会議事録より
「国会も何ら御結婚について知らされておりません。」
皇室会議が開かれたのは(昭和34年 注33年の誤記か?)十一月二十七日でございますが、その前十一月二十四日に、宮内庁は公電をもって【館林=正田本家、正田醤油】に通知しております。
皇太子妃決定に関して小泉信三・田島前長官などが先頭に立ち、総理大臣はその報告を受けるだけで、なんら疑問をさしはさむ余地がなかった。
それでも「信仰」の問題は気になった。(岸信介元総理大臣)
国民も国会も何も知らされておらず、しかも皇室会議が一度だけ開かれたのみ。
結局皇室会議を一度開きまして、決定をやったのは既成事実をただ承認しただけ、椎熊前副議長などに聞きますと、その日に正田家の家系その他いろい ろ書類を渡されて、それにただ無言で賛成しただけだというふうにも聞いておるのであります。
要するに、「正田美智子さん」という人について、実は国民も総理大臣も、どんな出自の人でどんな考えを持ち、どんな性格なのかという事を全く知ら されていなかったんですよ。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/031/0388/03102060388005a.html
(ここまで)
「お妃候補」複数の正田美智子
他のサイトさんに写真が上がってましたが、ご成婚前からというより、お妃候補時代から「正田美智子」は複数いたようです。
違いは明らかで鼻の穴の目立つ正田美智子と、そうでない美智子、富士額の正田美智子と、生え際が乱れている美智子、など分類が可能です。
上の2人の美智子は、たしかに、肩幅がちがうようですし、頭蓋骨の幅、目、鼻、口、のバランスが違うようです。
右が正田家で育てられ、聖心女学院でヤンキー女学生をしていた美智子でしょう。
顔のパーツが中心に寄り気味です。
徳仁1号、徳仁2号のように交代で「正田美智子」をしていた関係なのかも。
長身の3号と思われる女性もご成婚後すぐ「美智子様」として報道されていますので、相当な数の「正田美智子」が明仁皇太子と関係を持ったののではないのでしょうか。
ミッチーズに共通していることの一つが、耳にピアスをしています。
この時代、耳に穴が開いているのは中国系ならありえたそうです。大陸夫人、中国朝鮮族の妓生だった富美の趣味なら納得がいきます。
ミッチー1号。正田富美が生んだテンプルちゃん。
ピアスか耳飾りをつけているようです。
日本でピアスが一般化したのは1990年ごろからではなかったでしょうか。
富美は大陸夫人とよばれ、中国語はペラペラ。
正田家について、伏見氏は家族写真が土足である、上海の租界式であると指摘されてましたね。
※皇室掲示板より
無題 Name 名無し 17/02/15(水)22:53 id:RGNsqTQ. No.1910047
礼宮は靴下、紀宮はスリッパ、あとのお二方は・・・。お子様方はまともなのに。
お寺に敬意など払わない感覚がそのまま、「生前退位」発言につながるんでしょうね。
「無私の心」とは正反対の自我の追求、拡大。
(以上)
富美も美智子たちも、外人だということですね。
続きます
けり落としたんじゃないし、降りるのを手伝っただけだし