明治維新の闇③信子妃は入内後もカトリック?

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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※続きです。

信子さまについてのコメント。

コメント欄より

東京四ツ谷のイグナチオ教会のクリスマスミサにいらしていました。カトリック信者です。

(以上)

ありがとうございました。

ほんとうでしょうか?? しかしながら、イグナチオ教会!!!!

皇室をしらべていると、何度も何度も名前が出てくる教会です。

美智子がご成婚後も通っていた教会ですね。信子さまも通っておられたのかしら。

皇居に近いということもあるんでしょうけど、神道の祭祀王の家系に嫁がれた究極の公人である親王妃をはじめ皇族とは、本来なら縁のある場所ではないはず。

正田とめちゃくちゃ関係の深い教会ですね。美智子が結婚後も夫や子供を連れて通った教会じゃなかったでしょうか。そして、正田貞一郎など正田家の葬儀をおこなった教会ですね。

もし、信子さまがイグナチオ教会のミサに御成りになっていたのなら、同じ教会に、美智子と信子さまという神道の祭祀王のお家に嫁いだはずの、究極の公人たる親王妃が通っていたんですね。

ダヤンさんによると、スパイの集合場所は某ホテルのバーだったらしいけど、あの教会は工作員の集合場所だったのかも。

 

カトリック麹町 聖イグナチオ教会

主聖堂

ザビエル聖堂

そういえば、宮中晩さん会で陛下のスピーチにザビエルが出てきましたね。陛下としては、美智子が書いたものをただ読んでいるだけなんでしょうけど、何かにつけ、美智子の趣味をぶつけてきますね。

カトリックと正田美智子

【読者様より緊急・重要証拠】美智子皇后さまは入内後も夫、子供を連れて修道院に通っていた。転載フリー

http://fushimi.hatenablog.com/entry/2016/10/21/000000

伏見先生こんばんは☆

長文ですので投稿を公開なさるかなさらないかは先生に委ねますね。

私は大学病院に勤務をしておりまして、医療連携をしている全国の病院から定期的に病院の冊子が届き、職員が見られるようになっています。

九州大学病院別府病院

九大別府病院だより

2015 vol12 4ページ

対談 おんけん次代の思い出

元看護部長・関口さんと現教授の対談です。

その対談に昭和41年9月19日

皇太子殿下、皇太子妃殿下(現天皇皇后両陛下)が病院を視察に来院されたときのことを語っているのですが、

その文中に、

『全国の看護の勉強会で宮内庁に女官として働いている妹さんがいる看護部長と知り合いになりました。

東宮御所の真上に神父さんの修道院があり、その修道院につれていってもらったことがあります。

妃殿下が子供さんと一緒の時はお顔が違うのだと聞いて、妃殿下も1人の母親だと微笑ましくなりました。』

という件です。美智子様は入内してからもクリスチャンとして礼拝に行っていた。

積極的に関わっていたということですよね。それもおおっぴらに。しかも現皇太子と秋篠宮様もお連れになって。

今日、仕事の合間にふと手に取った冊子でした。。。

シンクロかとびっくりです。

この冊子は今年の1月に発行されたものでした。

長文を失礼いたしました。

(転載以上)

 

東宮御所の北にあるカトリック教会といえば、やっぱり

でしょうか。

 

館林と正田家

館林の同和地区出身だった正田家 

http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-194.html

上原善広というノンフィクション記者が「実話ナックルズ」という雑誌で下記のように指摘したように、部落出身である可能性は高いと思います。
雑誌『実話ナックルズ』にて『JDT 日本の路地を歩く』という連載を執筆しており、2004年7月号に発表した「群馬県T部落」で群馬県の未指定地区を取り上げ、「ここから女性が一人、皇族に嫁いでいる」「ここは女性が皇族へ嫁いだため、行政から同和地区指定されなかった。 指定を受けると部落とわかってしまうからである」「皇族は過去の身分上、最高位にいる。その彼らが過去の身分上最底辺の部落民と結婚するなどということは、身分社会の崩壊を意味している」と書いた。
(以上)

 

フロジャック神父と館林

※「隠された皇室人脈エピソード」より
ttp://www.yorozubp.com/0806/080621.htm

弁慶神父「会心の傑作」とは

皇太子の結婚の儀が行われたのは五九(昭和三四)年四月十日、その年の十二月十二日、フロジャック神父は帰天。

「わたしは貧しいひとびとの友であった。わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。思召しがあったら貧しいひとびとに与えていただきたい」との遺言を残した。

フロジャック神父には勲四等瑞宝章が贈られ、昭和天皇より祭資料を賜る。

 この年、衰弱激しいフロジャック神父の身を気遣う見舞客はあとを断たなかった。その中には、軽井沢のテニスコートで天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒の田中耕太郎最高裁長官もいた。

 

フロジャック神父と正田きぬ

※「隠された皇室人脈エピソード」より

ttp://www.yorozubp.com/0806/080621.htm

そして、三〇年来にわたってフロジャック神父の事業を援助し続けてきた正田きぬの姿も当然あった。

フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。

美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね

神父には、この時代のことが、余程なつかしいらしく、晩年になって、いろいろな思い出話をうかがいましたが、そのうちで上州館林に於ける活動は、神父の布教生活中の会心の傑作と自分でも思っておられたようです。

皇太子殿下御婚約のよきしらせを耳にされたときの神父の心中は、定めしけいけんな祈りと感謝と期待との熱きものがあったのではないかと思います。

「神父」とは当然フロジャック神父、「この時代」とあるのはフロジャック神父が水戸を拠点に日本伝道を始めた頃を意味する。

そして、「会心の傑作」が「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながっていく。

フロジャック神父は関東の山野を歩きまわって布教していた。

文中にあるように上州館林へ行ったのもこの頃である。上州館林と言えば、美智子皇后の実家があったところ。つまり、上州館林の正田家にカトリックの信仰の種をまいたのもフロジャック神父だった。

一九二七(昭和二)年、東京関口教会で美智子皇后の祖母である正田きぬはフロジャック神父の手から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。

このきぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。

また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田和也、文藝春秋他参照)。

弁慶が皇室とカトリックの縁結びを務めていた。明治維新以後、神道界や仏教界にフロジャック神父のような弁慶が存在していたなら、やはり歴史は大きく変わっていただろう。

(以上)

すくなくとも「テニスコートの恋」より4年前に皇太子妃は決定していた


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/792.html

■「テニスコートの恋」の真実

1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピットが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇(迪宮裕仁 1901-1989)、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶應義塾塾長を務めた小泉信三(1888-1966)、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田 茂(1878-1967)

(略)

■皇太子妃を巡る暗闘があった

10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888-1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。

この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。

注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。

この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。

(略)

さて、宮内庁次長の瓜生順良(うりゅう のぶよし ?-1957)が、記者会見でお妃問題に対して初めて公式に言及したのは1955年(昭和30)年9月である。

この時、瓜生は「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、出来るだけ広い範囲から選ぶ方針である」と述べている。

1972年発行の『毎日新聞百年史』にも「宮内庁が皇太子妃の本格的選考に入ったのは(昭和)30年頃からである」と書かれている。

しかし、こうした通説が誤りだったことを『吉田 茂書翰(しょかん)』(中央公論社 1994年刊行、加えて『吉田 茂書翰 追補』吉田茂国際基金 2011年刊行)が見事に証明している。

女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」会長で東宮御教育参与を務めていた松平信子(1886-1969)が、皇太子妃は旧皇族または華族から選ぶべきだと主張、愛国団体を動かしての御婚儀反対工作を行うまでしながら、正田美智子(1934-)との結婚に反対していた。

不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。

旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。

いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。

(以上)

 

時系列

1927年

正田きぬ(祖母)がフロジャック神父に洗礼をうける

1934年 

美智子、誕生

1945年 

美智子、長野県 軽井沢第一国民学校 初等科5年に転入

8月、終戦、GHQの占領がはじまる

9月まで在籍、終戦を迎える

1946年 

5月 カトリック教徒の吉田茂が首相に

7月 美智子の祖父、正田貞一郎(カトリック教徒)が勅撰で貴族議員に。

1947年

美智子、雙葉学園小学校を卒業

1954年

10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見

1955年
09月 瓜生「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、出来るだけ広い範囲から選ぶ方針である」記者会見で公式に言及。

1957年

8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」

1958年

11月17日 ニューズウイークが皇太子妃決定の配信「テニスコートの恋」

11月24日 宮内庁公電をもって館林=正田家に通知

11月27日 皇室会議

1959年

4月10日 皇太子結婚の儀

1960年

02月23日 徳仁親王誕生

皇室会議より先に、海外で皇太子妃決定の報道がされ、正田家に宮内庁から内定の連絡が行ってますね。

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皇室会議を無視して結婚したので、法的にも世界の認識も正田美智子は正妃ではなく、ただの明仁夫人なんですね。雅子もそうですけど。

正田美智子と皇太子との結婚は、壮大な陰謀でした。

※関連記事「続・美智子様の真実」

ようするに、今日の皇室の危機を作ったのが、信子さまと麻生閣下の祖父・吉田茂ということです。そして、美智子入内にうごいたのは、吉田、小泉、など、政府や宮内庁のクリスチャン閥でした。世間では国を裏切る人間のことを国賊というのです。

 

 

 

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